22.流れた偽りと、真実の色
顔に飛び散った泥はロリが用意していてくれた蒸したタオルで拭き取り、真っ黒に染まった手は簡易水場の湯でしっかりと落とした。
しばらく足湯をして身体を温めたのち、私は村の奥さん方とともに次の作業が回ってくるのを待っている。収穫して終わりではなく、そのまま食べるもの以外は、加工するために皮をむき切り分け、干してしばらく乾燥させねばならない。
泥畑では交代を済ませた男性たちが数人がかりで、次の範囲へ場所を移して泥の底を掻きまわしていた。その中には、やっぱりというか、当然というか。茶色い髪のひときわ背の高い姿もある。
「子供みたいね、はしゃいでるわ」
どこからともなくクスリと笑いながらの女たちの意見には、私も同意する。
村人たちがわき合い合いと作業をする賑やかななかに、大小の鳥たちもやってくる。リヨンの収穫にかき混ぜられた泥から獲物を狙ってやってきているのだろう。小さな鳥たちはリヨンにひっかかって出てきた虫を浅瀬でついばみ、大きな水鳥たちは人を恐れずにその間をぬってきては、リヨンそのものを盗っていこうとしている。手で追い払われてもめげない子には、村人たちも仕方なく小さすぎて加工するのに面倒なものを、放り投げる。すると待っていましたとばかりに、そちらに鳥が群がり、ていよく追い払われたりと……いつものミルド村の風景がそこに広がる。
ただ一つ、カールがそこに紛れていることを除けばだけど。
ふと、泥畑の中ほどに立つ彼と、視線が合う。
けれどそれは一瞬で外され、彼の視線がわたしたちのずっと後ろ、山肌から沢を伝ってその奥の林へ。そして空を仰ぎ見てから、川で体を洗う人たちの方へ。
どうしたのかしらと思った瞬間、一陣の冷たい風が吹く。すると驚いた鳥たちが一斉に飛び立ち、その勢いに一瞬だけれど私の視界を、そして羽ばたき音が耳をふさぐ。
「……びっくりした」
「珍しいですね、あの生意気で図々しい鳥たちがあんなに驚いて逃げていくなんて」
「そうね、でもきっと、急に冷たい風がきて驚いたのよ。そろそろ、本格的な冬がやってくるわ」
ロリがそういえばと、空を仰ぎ見る。さっきまで晴れ渡っていた秋空も、いつの間にか低い雲が多くなってきていた。
山から下りてくる冷たい風は、すぐそこまで雪を運んできているようだった。
今日だけでは終わらないリヨンの収穫に、無理は禁物。私はヴァーイに声をかけて、今日の作業は早じまいをすることを伝える。今引き上げているものを最後に男たちを泥から上がらせて、後はリヨンを洗う女たちの出番だ。
しぶしぶながら泥から戻ってきたカールが、私を見つけてやってくる。
「すっかり泥だらけね、カール」
「ああ、おもに誰かさんのせいでな……面白いのはいいが、ヒルに刺された」
「だから止めておいた方がいいって言ったの。ほら、あなたもヴァーイたちと温泉で泥を落として。もう今日の作業は終わりよ」
「……ライラたちは?」
一応汚れを落として胴付きを外して、いつもの長靴を履いてはいるけれど、リヨンを洗う作業のために女性たちはみんな、まだ簡易温泉を使っていない。
「男性たちが終わったら、女性たちはその後よ。一度には無理ですもの当然でしょう?」
「ああ、なるほど。じゃあ行ってくる」
「ええ、いってらっしゃい」
そのままカールは簡易水場に向かうと思ったのだけれど、足を動かさない。
「ライラ」
「なあに、どうしたの? 着替えなら余分に用意してあるのがあるから」
「そうじゃなくて……例のことは後で分かるように必ず話すから、待っててくれ」
何を言い出すのかと思えば、私の仕返しが効いた? 神妙な面持ちでそう告げたカール。そもそも泥に引き込んだのは、彼に一連のことを問いただしたかったから。でもこんな場所で話すわけにもいかず、もちろんまだ話はまだできていない。
「分かったわ、あなたの言い分は聞かせてもらいます」
私の答えにカールは満足そうに微笑み、水場へと向かった。ただし、もう一つ付け加えてから。
俺が戻るまで、絶対に一人になるなよ?
もちろんまだ作業が残っているし、大勢の村人たちが集まっている。一人になりたくても不可能よと言い返す以外になかったけれど。
最後に畑に入っていた男性たちが汚れを落としている間、残りの者は痛んだ部分の皮をむいて、綺麗に切り分けられたリヨンを荷馬車に積み込む。それに追いかけられるようにして、残りのものを大急ぎで処理していった。
大量に出た端や皮を、女たちの一部が泥畑に来る鳥たちに分けてやろうとしていた。しかし先ほどまで群れでいた鳥たちが、周囲の林の樹上から眺めるだけで、やってこない。
「珍しいこともあるわね。お腹いっぱいなのかしら」
そんな声を意識の端っこで聞きながら、最後の荷を乗せ終える。順番で手の空いた女性たちに水場を使うよう促しながら、私も一緒にたくさんのタオルを抱えてついて行く。
女性たちのはしゃぐ声と水音が、簡単に作られた着替えのための衝立と軒の向こうから聞こえてくる。
毎年の作業の終わりにはよくある風景だった。
そこを越えて水場を見渡した瞬間のこと。
「ライラ!」
真っ先に耳に届いたのは、カールが私を呼ぶ鋭い声だった。
続いて、水場の端を使っていた一人の女性の、金切り声。
その声にその場にいた皆が、一斉に反応する。悲鳴をあげた女性が凝視する方向、水場へ注ぐ沢がある傾斜のある林。水場を囲うような林の三方それぞれから、人影が駆け降りてくる。何者かなんて識別する暇もなく、彼らが手に持つ鈍色の光に、頭が真っ白になった。
とっさに身体なんて動かない私は、女性たちへと叫ぶ。
「水場から上がって! 逃げて早く!」
若い女性たちは反応が早かった。年を取った母親たちの手を引いて、すぐに水をかきわけて逃げだした。
ようやく金縛りが解けた私は、水場へ走り出して恐怖に崩れおちて、逃げ遅れた女性たちを立たせる。
「早く、急いで!」
「ライラ様も早く、危ない!」
駆けつけようとするヴァーイたちの声が、悲鳴ともつかない叫びとなった。
その間にも三つの影は、真っ直ぐに林を駆け降りてきていた。だけど逃げ惑う女たちに目もくれず、その鋭い視線が私に向けられているのに気づく。
ゾクリと背筋が凍った。
軽装ではあるけれど武装している彼らは、狙いを定めたかのように、私を目指して突進してくる。水場を迂回することもせず、水しぶきを上げながら。
はっとした時にはもう、距離にしてほんの五メートルの位置に一人の男が迫っていた。
振り上げた剣がすぐそこに近づいたとき、私は腕を引かれ、背中から倒れるようにして誰かに抱きとめられる。
そして私を庇うのとは違うもう一方の腕が、抜き身の剣をかまえ、振り下ろされた刃を受け止めていた。
「カール!」
彼が受けた衝撃が、触れている背中からずしりと伝わる。そして私を庇ったまま、一瞬のつばぜり合いののち、カールが力任せに相手の剣を押し戻す。
彼らが踏みしめる水が、その衝撃で水しぶきとなって舞い上がった。
乱反射するしぶきの向こうで、その男がうめき声を上げながら、水に沈む。だけど仕留めたのはカールではない。彼は私を抱えたまま、体制を整えるのに精一杯だったから。
じゃあ誰が?
「ケビ、遅いぞ!」
カールの声にちらりと視線を向けたケビが、躊躇することなくもう一人の男へと斬りかかっていた。
恐怖に思わず目を背けたかったが、それすらも思うようにいかずに硬直していると、カールが私を引きずるようにして、彼らから間合いを取るように退く。
すると、私たちを助けに入ってくれていたのが、ケビだけではなかったことに気づく。以前祭りに来ていたケビの同僚だと告げた護衛官たち、それから差し入れをしたときに挨拶した、街道警備の兵士たちもいた。
彼らは私たちを守るように立ち、少し離れて様子を伺っていた最後の一人に睨みをきかせている。しかしすぐに分が悪いと察したようで、きびすを返して逃げ出した。
それに一番に反応したのはカールだった。
「ケビ、兵士とともに追わせろ、森に逃げ込ませるな」
難なく二人目をのしたケビにカールがそう言うと、周囲の護衛兵たちが黙って動き出す。ケビが二人の護衛官に指示を出して、応援に来ていた兵士とともに逃げた男を追いかけさせる。まだ残っていた護衛官らしき人が、近くに残っていた村の女性たちに手を貸して、ヴァーイたちに合流させる。
思いもよらない襲撃に騒然としたリヨン畑。彼らがあっという間に賊らしき者たちを取り押さえるのを、私たちは呆然と見守るしかできなかった。
それは私も同じで。
緊張からの解放に、身体からはへなへなと力を失い、カールの腕にしがみついていたはずの手も外れて、しゃがみ込んでしまった。
「大丈夫か? ライラを傷つける者はもうここにはいない、安心していい」
浅いとはいえ水を浴びているうえに、その中にしゃがみ込んだずぶ濡れだ。そんな私の前に、同じくずぶ濡れになったカールも膝をついて、私に手を差し出してくれた。
先ほどまでのきびきびとした口調から一転、優しい声。
カールの安心していいという言葉に、今頃になって身体が勝手に震え出す。
「だ、だいじょうぶ、だから」
声も震えていて、自分の小心ぶりに恥ずかしさが募る。
まだ極度の興奮状態ではあるけれど、体のどこも何ともない。早く立ち上がって、不安に震える皆を安心な場所に帰らせないと。
そう強く思って、彼が差し出してくれていた手を取るのだけれど、足がふらついてなかなか立てない。
「ゆっくりでいい」
「平気、自分で立つわ」
何度か尻餅をつく私を、我慢強く待ってくれた彼を見上げて、私は声を失った。
私と同じくずぶ濡れのカール。滴る水が、彼の頬を伝い顎から落ちる。
透明なはずの滴には色がつき、色があるはずの髪からは、その見慣れた色がまだらに消えつつあった……
「どうした、ライラ?」
私を気遣うカールには、自分がどんな姿になっているのか気づいていないようだった。
私はただ、確かめなくちゃとそれだけが頭を占めていて……
手で生温くなった水を両手ですくい、目の前の彼の頭からバシャリとかけた。
「ちょ、なにする、もう充分濡れてるって……」
またライラにやられたと愚痴を呟きながら、犬のように頭を一振りするカール。
水をかぶったカールの頭へ、濡れた両手を伸ばして、更に色を濃くして額から、こめかみから、そして頬につたう染粉を含む滴を、拭ってあげる。
手で拭えば拭うほど、濃い茶色は抜け落ちて、代わりに金糸が姿を現す。
「これが、あなたの本当の色だったのね」
輝くような黄金色。
あの晩に月夜に照らされていた、狐の色。
あのとき、彼は何と言った?
──今この仮面以外には、一切の偽りはないと誓う──偽り?
「ライラ……」
カールは、ようやく自らの失態に気づいたようだった。
彼の瞳には狼狽の色が浮かんだけれど、しかしそれもほんの僅かな間だけ。
これまで自分が見ていたカールと、目の前に今いる金髪のカールが、ひどく乖離して見える。私は本当に、彼のことを知っていただろうか。
そんな不安が、黒く濁った感情を生み、胸を満たしてくる。
「ライラ、これは」
「いいの……今は、何も言わないで。他にやることがあるわ、そうでしょう?」
彼の言葉を遮り、私は今度こそ自力で立ち上がり、混乱したままの周囲を見回す。
女たちが身を寄せ合い、互いの無事を確かめあっている。身を清める途中だった者もいるのだ、早く濡れた服を着替えさせて、安全な場所で休ませてあげなくてはならない。
一方、私たちのすぐ側で警護官の二人が、倒れて昏倒していた賊の二人を水場から上げて、両手を後ろに縛り上げていた。
そしてケビはいまだ私たち……いえ、カールの側を離れる様子はなく、厳しい表情を崩すことなく周囲を警戒している。まるで彼を守るのが、役目とでも言いたげに。
いいえ、考え過ぎだろう。そう思い改めて、捕まえた二人をいったんはカールたちに任せることに決めた。
村に力自慢はいても、荒事に慣れているものは皆無なのだから。
「後のことはあなたにお任せしてもよろしいですか?」
「ああ、任せてくれていい」
その答えに私は頷く。
今はまだ、それ以外を問うときではない。ここを収めることが、私の役割なのだから。
そう気持ちを奮い立たせて、村長のヴァーイの元へと走ったのだった。




