12.さようなら、ありがとう
一人で食堂まで戻ってくると、私の姿を見つけたヨアキムが驚いて駆け寄ってくる。
「ど、とうしたんですか、ライラ様?」
相変わらず眉を八の字にさせたヨアキムが、さらにオロオロ困った顔をしている。
「……なんでもないわ」
「なんでもないって顔色じゃないよ。いいから座って」
そんなに血の気のない顔をしていたのか、ヨアキムが椅子を用意して、そこにゆっくりと座らせてくれた。
それから厨房にいたロリを呼んで、お茶を淹れるよう頼んでいる。
「……ヨアキム、お願いがあるの」
「なんですか、僕に出来ることなら何でも言ってください」
「私、カールを苔の広間に置いてきてしまったの。ランプがないと帰り道が危ないわ、あなたが代わりに迎えに行ってあげて?」
「……置いて来たって、なにがあったんです……いや、うん分かった。行ってくるけど、ライラ様はロリとここにいて」
私が頷くと、ヨアキムはランプを私の手から取り上げて、通路に向かう。
行きがけにロリに声をかけてくれたので、すぐに彼女が私のそばにやってきてくれた。
「温かいものを飲んで、少し休憩しましょうライラ様。お腹もすいたですよね、今日のお昼はライラ様の好きな川魚のソテーですよ。父さんが今朝、たくさん釣ってきたんです。パンに挟むのもいいですよね」
そんな彼女の言葉を聞きながら、カップを持ち上げようとした。
でもその手の平が痺れていて、私はとんでもないことをしてしまったと、改めて事の重大さが身に染みる。
「どうしました? 今度は青い顔して」
「大変なことを、していまったわ、私……」
「大変なことって、どういう」
驚きっぱなしのロリに、私は自分のしでかした事を告白する。
「頬を、叩いてしまいましたの」
「ええ? ……頬って、誰のですか?」
「カール」
一瞬、ロリが固まった。
そしてすぐに視線を泳がせて「あぁ~」とか「いやいや」などと呟いている。
「どうしましょう、思いっ切りやってしまったわ」
「えっ、思い切り? ライラ様が?」
「ええ、さっきから私の事しか言ってないわ」
「……ぐーで?」
「そこはさすがに、ぱーですけど」
ぐーとかぱーにはもちろんちょきもあるのは、幼い頃の私がじゃんけんを普及させてしまったから。
いえそんなことは今はどうでもいい……
「どうしましょう、男爵家の存亡の危機にでもなったら。王子様の側近ということは、将来を約束された方ですもの、侮辱罪とかでお家取り潰しなんて……」
「そんな横暴ができるほど、俺は権力持ってないから」
私の呟きに答えたのは、カールだった。
ぎょっとして振り返れば、部屋の入り口に立つカール。その後ろにはランプを持って追いかけてきたヨアキムが、息を切らしていた。
そしてカールが私のもとへ歩いてくるのだけれど、そのハンサムな顔にはしっかりと赤い紅葉……
私は青ざめて椅子から立ち上がり、ロリに向かって叫ぶ。
「お願いロリ、早く冷たい水を」
「はいっ」
慌てて食堂に向かうロリ。
私はカールに精一杯頭を下げて謝る。
「申し訳、ありませんでした。感情的になったこともですけれど、何より怪我をさせてしまうなんて、最低なことを」
「ライラ、頭を上げてくれ」
「いいえ、お許しをいただくまでは」
「そもそも怒っていない、俺が考えなしで不躾なことを口にしたのが悪かったんだ」
「……いいえ、私が悪いんです」
ようやく顔を上げてカールを見たら、彼は本当に怒ってはいないようだった。
というかもしろ、機嫌が良さそうに微笑んでいる?
どうしてなんだろう、この人実はかなりのマゾなのかしらと首を傾げていると。そこにロリが小さな桶に井戸水を汲んできた。私はすぐにハンカチを濡らして、彼の頬にあてようとしたのだけれど、私との身長差がありすぎる。
「しばらく冷やした方がいいと思います、どうぞお座りになってください」
素直に言うとおり座ったカールの頬に、冷やしたハンカチをあてる。
ほんのりと薄いとはいえ、手形がつくほどの力で打ち付けるなんて、なんて愚かな令嬢と呆れられてしまったに違いない。
彼は天真爛漫なところはあるけれど、人を不快にさせないよう気遣いのできる人。きっと私に失望していても、それを表に出さないように胸にしまってくれているのだろう。
自己嫌悪に心は沈みきっていた。
「ライラ様、僕イクセル様を呼んできます、手当てをしてもらいましょう」
「お願いするわ、ヨアキム」
頷いてヨアキムが温室に向かってくれた。
もう一度ハンカチを冷やそうと離れようとしたとき、カールの手がそれを阻止するように私の手を掴んだ。
「もしかして、強く痛みますか?」
「違う、そうじゃない」
どういうこと?
カールが極上の笑みをたたえながら私を見上げる瞳に、胸がぎゅっとした。
「ライラの気持ち、俺の都合のいいように受け取ってもいい?」
「……私の、気持ち?」
それまで私は、彼の頬を打ってしまったことに、すっかり気を取られていた。もちろんそれが重要なことだからだけど……
だから言われる瞬間まで、私がカールに言った言葉の意味を忘れていた。
『私は嫌。王子様の花嫁となった時、私のそばにあなたがいるなんて!』
「…………わ、わたし」
一気に、顔へ血が集まるのを感じた。
もし……もしもの話。
私がこの土地からどこかに嫁ぐとしたのなら……それはまずありえない話なのだけれど。
でもそれでも、きっと結婚はしなくちゃならないだろう。でもカールの目の前で、知らない誰かの花嫁になるなんて、嫌だった。
直接言葉にしなくても、これじゃカーを好きだと言っているようなもので……
誤魔化しようのない事態に、私は口をぱくぱくさせて、言葉を紡ぐことすらできずにいた。果ては酸欠で気が遠くなる。
つい昨日までは、結婚相手なんて誰でもよかった。
まだ恋も知らないまっさらな私の、道も何もない平原に、はじめて導のような何かが生まれた瞬間。とてもじゃないけれど、キャパを越えてしまった。
ふわりと傾く体を支えたのは、すぐそばにあった椅子ではなく、素早く私の腰に回ったカールの腕。当然のことながら、あわててしがみつくのは、動物的生存本能であって、それ以上でもそれ以下でもないと思いたい。
「きゃあああっ」
私の悲鳴ではない。
まったくもって切羽つまっていないその黄色い声は、一部始終を見ていたロリのもので。
「どうした、ライラ!」
どうしたもこうしたも、なぜこのタイミングなのかと、呪いを疑うレベル。
駆けつけたイクセル様の目には、抱き合う私とカールの姿。そして当然のことながら、私は顔を真っ赤に染めていて……
「……ご、誤解ですから!」
必死に説明するのに、ロリは頬を染めて目を輝かせるばかり。
イクセル様は私を抱えたままだったカールの腕をほどき、無言で私たちを座らせる。そしてヨアキムから聞いていたのか、おもむろに薬草を練ったものを布に塗り、カールの頬に張り付けた。
ああ、その湿布はよく効くのです、子供の頃から幾度となくお世話になりましたけらど、難点は臭い。カールの眉間に寄った皺は、痛みばかりが原因ではないはず。
そんなイクセル様とカールのやり取りを、遠巻きに見守るだけの頼りにならないヨアキム。なぜかあからさまに私と目線を合わそうとしない、なぜ。
そんなちょっとどうしたらいいのか分からない空気のまま、私たちはロリが用意してくれた川魚のオープンサンドをたいらげ、急いで屋敷に戻る。
カールはすぐに都に戻るために出発しなければならないから。
ヨアキムの駆る馬車の御者台に座る私と、幌の荷台のカール。
あれから彼とは話をするタイミングを逃し、あの意味深ですらない私の失言について、言い訳すらできていない。
温室を出た馬車は、あっという間に屋敷に到着するだろう。そうしたら使用人たちは彼の馬を用意しているだろうし、すぐにお別れをしなければならない。
だけどそもそも、彼になんて言い訳をすればいいのか、彼がどう思っているのかすら分からない以上は、考えなんてまとまるはずもなかった。
そうこうしているうちに馬車は丘を駆け上がり、屋敷の前に到着。
私の予想通り、馬番はよい仕事をして準備万全。そして屋敷に到着したと同時に、お父様とお母様が迎え出た。
「カール様、温室はどうでしたか、楽しまれましたでしょ、う……か?!」
にこやかなお父様が、みるみる青ざめる様は、先程までの私とまるっきり同じ。
当て布に顔を半分覆われたカールの姿に、頬を引きつらせて、ぎぎぎと顔を私に向ける。
「ライラ、どういうこと、かな?」
「申し訳、ありません」
荷台から降りたカールが、まあまあとお父様をなだめ、邪魔だと言いたげに当て布を取る。
すると赤味は引いたものの、ほんのりと腫れた頬が現れる。
涙目になったお父様が御者台に詰め寄ってきたのだけれど、カールは笑いながらこう言った。
「温室の奥の通路は洞窟のようで、よく滑るのだな。俺の不注意だから、このくらいでライラを責めないでやってください男爵」
「カール?!」
「ライラ、君も自分をそう責めないように。俺が悪いのだから」
どうして? そんな嘘をここでついても、すぐにばれるのに。
カールの意図がよく分からなかった。
「カール様がそうおっしゃられるなら」
明らかにその言い訳を疑っているお父様が、無理にでもそう締めくくったのは、彼が急いでいるから。
お父様がおっしゃるには、彼の同僚であるケビから、「熊の森」手前で合流するために待っていると連絡がきたたという。
カールはその伝言に頷き、両親に頭を下げた。
「忙しい時期に、邪魔をした。今回も貴重な体験をさせてもらい、感謝します」
「こちらこそ、あなたのような素晴らしい青年に出会えたことを、光栄に思います」
カールはお父様と握手をしてから、ようやく馬車から降りた私に向き直る。
「ライラ、ありがとう」
「私からも言わせてください、楽しかったわカール、ありがとう。それにごめんなさい」
私のごめんなさいに少しだけ微笑み、カールは手を差し出してきた。
「王子の花嫁選びにここまで時間をかけているのは、誰でもいいからじゃないんだ。家柄だけなら時間はいらない。花嫁を幸せにしたいと思える相手を望んだからだ」
「……それを聞いて、安心しました」
重ねた私の手をしっかり握り返し、カールは頷いた。
「ライラの幸せを、祈っている」
「私からも、ご多幸をお祈り申し上げます、さようなら」
そうしてカールは用意されていた馬にまたがると、後ろ髪ひかれることなく鐙を蹴って走り出した。
言い訳は、なにも必要なかった。
それでいい。
王子様は王子自身を愛し受け入れる女性を望んでいるのなら、今度こそ私は不合格となるだろう。
カールとの縁もそれでおしまい。
それは少し寂しいけれど、これからも男爵領は冬支度に祭りにと忙しい。煩雑な毎日を送れば、嫌でも小さな芽は枯れて土に還る。
素敵な青年に、出会えた。今はそれだけで充分。
『彼』以外に心を割くことができただけ、私がライラとして進歩できた証なのだから。
さようなら、カール、そしてありがとう。
嵐のような訪問者が去って、休む間もなく秋の収穫に追われた。
カブが豊作で、今年の漬物は新たに甕をいくつも発注しなくてはならなかった。天日で干した後に、濃いめの塩と酢でつけて、食感は懐かしい沢庵のよう。ご飯がないのが恨めしく思えるこの漬け物は、主に細かく刻んで料理のソースなどに使われる、私の大好物。
それから長靴も新調した。これからの季節は絶対に必要となるもので、材料は河の下流に棲む、巨大なカワウソのような動物の毛皮。水と泥をよく弾き、ゴムを加工できないかわりにとても重宝している。値段はそれなりにするけれど、村での最後の収穫には、これが欠かせない。
イクセル様はしばらく滞在され、お母様の体調を診てくれだけでなく、領民たちの診療をしてくれている。
そうそう、ゴムの木は無事に根付き、いつ頃から樹液の採取をしていくかヨアキムと相談中。お父様にもお願いして、南国の国使からゴムの木の研究書を取り寄せてもらえるよう頼んである。早く実用化させたいところだけれど、しょせん一般庶民だった前世の私ごときの知恵では、そうそう上手くいかない。
そのお父様は、今日にも都から戻る予定。
今回は薬草以外は売り物がなく、冬のための仕入れがほとんど。行きは空だった荷馬車に、重い荷物を積んでの帰郷となる。夜にかなり冷え込む日が増えているせいもあり、もしかしたら予定を遅らせてしまうこともあるだろう。
お父様のために綿入りガウンを縫うお母様のそばで、私は読書の片手間に糸をつむぐ。
こんな平和で何気ない繰り返しこそが、私の幸せだと実感する日々。
綿の塊をほぐしていると、窓の外から馬の蹄の音が聞こえてきた。
「エーランドが帰ってきたわ!」
お母様が喜びいさんで窓辺に駆け出す。
お母様の膝からこぼれた針を拾い、私もお母様を追い開け放たれた二階の窓の外、テラスに出ると。
ストークマン家の紋章を入れた五台の馬車が、玄関前の広場に連なって入ってくる。お母様はすぐにテラス下につけた先頭馬車のお父様に、手を振る。
「無事にお戻りになって、良かったわ」
エントランスに迎えに出たお母様をお父様がそっと抱き締めて、「ただいま」と額にキスするまでが、二人のお約束。
それらの儀式を終えるまで辛抱強く待ち、私はお父様からのお土産をねだる。
約束通り、追加の塩と土木作業のための資材の一覧。それから南国の専門書が五冊ほど。さすがお父様だわと感動して、受け取った書物をめくっていると……
「ライラには、これも」
お父様の差し出す封筒を、手にとる。
封筒は真っ白で、透かし模様がとても美しいものだった。
ひっくり返してみれば、その封蝋はツバキの花。
震える指ですでに破られたところから、手紙を取りだし広げる。
『ライラ=ストークスマン男爵令嬢を、ジークフリート王子の花嫁候補八人のうちの一人とする。国王アンドレアス=レドルンド』
ツバキを嘴に持つ鷲が、なにひとつ状況が変わっていないと私に告げていた。
私は失意のうちに、呟く。
カールのばか、と。




