ジークヴァルドの暗躍③
本気で挑んだ文官試験は、まさかの結果をもたらした。
史上最高得点なんて柄にもないと思ったけど、配属先が超エリートコースとも言われる「宰相補佐室」になるとは予想外だった。
「宰相補佐室」。
それは文字通り、国の舵取りを担う宰相を補佐すべく、選りすぐりの精鋭たちが集められた政の要となる場所。
かつては伯母も所属していたという(しかも伯母上は「室長」、つまり筆頭補佐官だった)その場所に、自分も籍を置くことになるとは。
『勇猛果敢なタフレディ』だの『救国の乙女』だのともてはやされ、第二王子ヴィラント殿下の補佐役にと請われたルイーズに釣り合う人間になりたかっただけなのに、思った以上の役割を振られた俺は正直面食らっている。
「君があの、『ホーク・アイ』自慢の甥なのだな」
現筆頭補佐官のバルト・アムラス室長は、初出勤した俺を眺めてこう言った。
「マイラが時折話していたんだよ。母国にいる甥っ子に将来有望な子がいるってね」
アムラス室長は、眼鏡の奥の切れ長の目をすぅっと細める。一見冷徹な印象を与えるこの室長が、実は周囲をほっこりさせるタイプの子煩悩だということを俺は知っている。
室長と伯母上はかつての同僚であり、室長の奥方と伯母上もまた友人同士ということもあって、家族ぐるみのつきあいがあるらしい。室長と面識のある従兄のロルフが「アムラス室長は娘の夜泣きがひどかったとき、泣き叫ぶ娘を抱っこしながら一晩中スクワットしていたそうだよ」とか「アムラス室長が出勤して鞄を開けたら、娘のおもちゃが大量に出てきたことがあったらしい」とかこっそり教えてくれたのだ。
そんな面白子煩悩エピソードに頬が緩むのを抑えつつ、一応謙遜のつもりで俺は応える。
「伯母が自慢していたのは、兄のほうではないでしょうか……?」
その言葉に、室長は軽く小馬鹿にしたような薄笑いを浮かべた。
「君の兄って、モルニエの王太子の側近だろう?」
「え? あ、はい」
「以前、王太子一行が外遊と称してこの国を訪れたとき、我々も直に接する機会があったんだよ。まあ、彼もあそこの王太子も、座学は得意なんだろうけどねえ」
室長はそれだけ言って、あとは何も言わなかった。それも、ニヤリとほくそ笑んだまま。「得意なんだろうけどねえ」の続きが気になりすぎるんだが。でもここは、兄上の名誉のためにも聞かないでおこうと思った。
宰相補佐室には複数の補佐官が勤務していて、新人の俺の教育係を任されたのはスヴァンテ・ライル子爵令息である。
スヴァンテ先輩は二十代後半、強面でちょっと厳つい体格のせいか、やたらと威圧感がある。文官というより、騎士団員と言われたほうがまだしっくりくるような。愛想はないし、話し方も少しぶっきら棒だけど、なんだか妙に親近感を覚える。
「ジークヴァルドの婚約者って、あの『タフレディ』なんだって?」
やけに気安い雰囲気で話しかけてきたのは、スヴァンテ先輩と同い年のイェスタ・クロンヘイム伯爵令息だった。ちょっと見た目の派手な優男風で、女性職員にすこぶる人気があるらしい。かつてのヴィラント殿下とはまた違った方向性のチャラさである。
というか、「『タフレディ』なのか?」と聞かれて、「はいそうです」と答えていいのだろうか? ちょっと迷う。
ルイーズ自身が、「『タフレディ』って、絶妙にダサくない?」と日々嘆いているのを知っているだけに。
「『タフレディ』? ああ、ルイーズ・アルダ伯爵令嬢か?」
スヴァンテ先輩の言葉に、俺は密かに安堵しながら「はい、そうです」と答える。
「彼女はどこの配属になったんだっけ?」
「第二王子の補佐室です」
「ああ、ヴィラント殿下が直々に頼み込んだって話だもんな」
「それ、大丈夫なのか?」
イェスタ先輩が唐突に、眉を顰めて深刻そうな顔つきになる。
「何がですか?」
「だって第二王子の補佐室ってことは、王子妃とも絡みがあるわけだろう?」
「……だと、思いますが?」
「あそこの妃殿下がどんな人間か知らないのか? 相当悪辣な公女だって有名だぞ?」
「イェスタ」
スヴァンテ先輩が、咎めるような調子で口を挟む。
「滅多なことを言うな。仮にも第二王子妃だぞ」
「でもみんな言ってるじゃないか。実際、妃殿下が周囲に当たり散らしてるのを見たってやつもいるし、直接花瓶を投げつけられたって話も……」
「だとしてもだ。軽々しくそんなことを言うものじゃない」
「ったく。スヴァンテは真面目だよなあ」
やれやれと言いたげな様子で両手を上げながら、イェスタ先輩が苦笑する。
第二王子妃フレドリカ妃殿下については、ヴィラント殿下から鬱陶しいほどちょくちょくちょくちょく惚気話を聞かされてきた。
でもこれまでの殿下の話の中で、そんな物騒なエピソードは一つとしてなかったはずだ。むしろ「うちのフリッカは小柄でちっちゃくて可愛くてさ」とか「やることなすこといちいち可愛いくて困る」とか「側近たちにも自ら刺繍をしたハンカチを贈るほど、優しい子なんだよ。でも悔しいから全部僕が回収したんだけどね」とか、暴力的なイメージとは真逆の妃だと思っていたのだが(むしろヴィラント殿下のほうが、そこはかとなくやばくないか?)。
先輩たちの話が気になって、その日は勤務初日だというのにまるで仕事にならなかった。ルイーズが大変な目に遭っていないか心配すぎて。
でも当の本人は至って元気、あっけらかんとしたものだった。
「フレドリカ妃殿下って、全然年上に見えないの。小柄で華奢なせいか、ちっちゃくて可愛らしいのよ」
「ヴィラント殿下ったら、フレドリカ妃殿下にもうメロメロなの。あ、それは知ってるか」
「殿下の側近の人たちも、みんないい人たちでね。今度ウェルカムパーティーを開いてくれるって」
勤務初日を終えたルイーズの報告は和やかで、楽しげで、和気藹々としていて、先輩たちの殺伐とした話とはやっぱりかけ離れていた。
ていうか、ヴィラント殿下の側近が全員男だったのは、正直言って迂闊だった。野獣の群れの中に、いたいけな天使を放ってしまった気分だ。フレドリカ妃殿下がどうこうなんて話よりも、そっちのほうが気が気じゃない。
「……それ、大丈夫なの?」
つい、不機嫌な声が出てしまう。尖った感情を、どうにも隠せない。
「え、何が?」
「……側近の人たち。みんな男なんだろ?」
「そうだけど?」
「変なちょっかい出されたりしなかった?」
遠慮がちに、でも思い切って尋ねると、ルイーズは一瞬きょとんとした。
それから何かに気づいたような顔をして、優しく微笑む。
「大丈夫よ。ジークが心配するようなことは何もないし、みんな婚約者のいる方ばかりだから。もう結婚されてる方もいるのよ?」
俺の幼稚な嫉妬を察してか、ルイーズが宥めるようにさらりと答える。
俺はなんだかたまらなくなって、有無を言わさず腕の中にルイーズを閉じ込めた。いつもの甘い匂いが、鼻先をかすめる。
「……わかってるんだけど、なんか嫌なんだよ」
「そんなに心配すること――」
「ルイーズのまわりがみんな男とか、そのメンバーでウェルカムパーティーとか、想像するだけでなんか嫌だ」
そう言ってルイーズをじっと見つめると、その頬が急速に赤みを増していく。きょろきょろと挙動不審になって、「あ、あの、ジーク……?」なんてつぶやいて、落ち着かないのか俺の腕の中でもぞもぞし始める。ああ、可愛い。可愛いしかない。なんなんだよもう。
ルイーズのことになると途端に余裕がなくなる自分を反省しながら、俺は少し強引に、貪るように口づける。
「そんな可愛い顔見せるのは、俺だけにして?」
耳元で低くささやいたら、ルイーズは「……いきなりはやめてって、言ってるのに……」とかなんとか言いながら、恥ずかしそうに俯いた。
◆・◆・◆
宰相補佐室は、シャレにならないくらい忙しかった。
スヴァンテ先輩に馬車馬のようにこき使われ、王城中をあちこち走り回って雑用をこなし、補佐室に戻ってきてまた書類の山にうずもれる。
そんな毎日を送っていると、否が応でもフレドリカ妃殿下の噂を耳にするようになった。例えば、侍女に淹れさせた紅茶が熱すぎると言ってティーカップごと投げつけたとか、注文したドレスの仕上がりが気に入らないと言って切り刻んだとか、夫の側近たちにも色目を使って誘惑しようとしているとか。
それでなくても宰相補佐室は王城中の情報が集まる場所だし、「今日もフレドリカ妃殿下はこんなやらかしをしたらしい」なんて噂が飛び交う。
ただ、その噂は、俺がルイーズから聞く話とは気味が悪いほど違っていた。いやもう、違いすぎた。
あまりに悪質な根も葉もない噂に、ルイーズはたびたび怒りを露わにし、声高にフレドリカ妃殿下を擁護する。ルイーズが俺に嘘をつくわけがないから、俺も再三「妃殿下はそんな人じゃないらしいですよ」とやんわり否定しているというのに誰にも信じてもらえない。
なんだこの状況。薄気味悪くないか? いくらこの国の人たちがローダム公国をよく思っていないとしても、ちょっと異常すぎやしないか?
根拠のない下劣な噂がここまで独り歩きしているなんて、誰かの邪な悪意のせいとしか思えない。
その悪意がルイーズを脅かす前になんとか手を打たなければと思った俺は、仕事の合間を縫って噂を出所を突き止めようと試みた。
でも、すでにさまざまな噂が広まっていて、どこが発信源なのかさっぱりわからない。フレドリカ妃殿下について噂していた人たちに直接聞いても、「誰かが言ってた」「又聞きだから」「みんなも知ってる」なんて答えしか返ってこないから、埒が明かない。
俺は頭を抱えた。




