20 お元気ですかね?
「兄上が……?」
先に反応したのは、ジークのほうだった。
「……なんのために?」
「オズヴァルドがこの春向こうの学園を無事に卒業したのは知っているだろう?」
「まあ、はい」
「卒業と同時に、一緒に卒業した王太子の側近として正式に任命されたんだよ。その王太子がラングリッジをはじめとした近隣諸国を外遊することになったから、同行するらしいんだ」
ロルフ様は淡々と説明しながらも、私たちの様子を注意深く窺っている。
私たちがこの国に留学してきた経緯を、ロルフ様も知っている。だから私たち、というか、正確には私の動揺を案じているのだろう。
「王太子の側近として来るから王城に滞在することにはなるようだが、うちにも顔を出すつもりだと言ってきたんだよ。まあ、親戚だし拒むつもりはないんだけど、ルイーズのことを考えると、ちょっとね」
少し心配そうな顔をするロルフ様とこの世の終わりとでも言いたそうな絶望感漂う顔をするジークに、私は笑顔で答える。
「全然大丈夫ですよ」
思ってもみない反応だったのか、二人は同時に眉根を寄せた。
「ほんとに大丈夫?」
「無理してるんじゃないか?」
「大丈夫ですって」
けろりと笑うと、二人はますます怪訝な顔になる。
でも本当は、そんな自分に私自身が一番驚いていた。
ここまで、なんとも思わないものだろうか。
オズヴァルド様が来るというのに、まったくと言っていいほど何も感じない。特別な感情が巻き起こらない。会いたいと恋い焦がれる気持ちはもちろん、会いたくないと拒絶するほどの葛藤もない。完全なる無風。そうか、来るのか、久しぶりだな、くらいの感想しかない。
あんなに好きだったのに。あっけないというかなんというか。
ただ、私たちの婚約が解消になってもクレメンス殿下の側近を降ろされることはなかったんだと気づいて、少しホッとする気持ちはある。オズヴァルド様の輝かしい未来を願う気持ちは、変わらないから。
「お元気ですかね? オズヴァルド様」
私の言葉に、ジークは不安げに目を逸らした。悪戯が見つかった幼子のように気まずそうな顔をして、一人で何やら考え込んでいる。
はっきり言って、そんなジークの暗い表情のほうが、余程気になった。
だから夕食後、私はジークをサロンに引っ張り込んだのだ。
「さあ、白状しなさい!」
紅茶を淹れてくれた侍女がするりと退室した瞬間、私はずずずいっと遠慮なくジークに詰め寄る。
「い、いきなり何なんだよ?」
「オズヴァルド様が来るって聞いてから、ずっと変なんだもの」
「そりゃあ……」
「私は大丈夫って言ったでしょ。ほんとにもう、平気だから」
ちょっと薄情かしらと思いつつ、でも事実だし、と開き直る。
「あれからずいぶん時間が経ったし、こっちに来てから怒涛のようにいろんなことがあり過ぎて、オズヴァルド様とのことは『そんな日々もあったわねえ(遠い目)』みたいな感じなのよ。だから私がまたつらい思いをするんじゃないかとか傷つくんじゃないかとか、そういう心配はしなくても――」
「でもルイーズは、まだ兄上のことが好きだろう?」
珍しく少し声を荒げるジークに、目を見張る。
ジークの切羽詰まったような顔が一瞬言い淀み、切なそうに言葉を続ける。
「ルイーズは、ほんとはまだ兄上のことが好きなんだろ? だからもう、誰のことも好きにならないつもりで……」
「え?」
「兄上だってそうだよ。兄上は多分、ルイーズを取り戻すつもりで会いに来るんだと思う」
「何それ。どういうこと? なんでそんなことが言えるの?」
「……兄上は、パウラ嬢と婚約してないんだよ」
「……はい?」
一瞬、何を言われたのかわからなかった。
パウラ嬢って誰だっけ? とまず思った。次の瞬間オズヴァルド様が浮気した相手だと思い出して、やだ懐かしい! とか思ってしまった。その名前に、もはやなんの悲哀も感慨もない。
それから「パウラ嬢と婚約してない」という言葉の意味を考えて、あ、と思い至る。
「え、オズヴァルド様ってパウラ様と婚約したんじゃなかったの?」
改めてストレートに聞き返すと、ジークは後ろめたさを隠すように目を泳がせる。
てっきり、そこはとっくのとっくに婚約が成立したものとばかり思っていた。一度は私との婚約を解消したくないと抵抗したオズヴァルド様も、なんだかんだ言って本命のパウラ様と婚約できるとなればそっちに飛びつくだろうし。だってあのとき、生徒会室で「本当に婚約したかったのはパウラだよ」とかなんとか言ってたじゃないの。
そんな私の心の内側を見透かすように、ジークは深いため息をつく。
そしてバツが悪そうに、婚約解消後のオズヴァルド様がどんなだったかを教えてくれた。
信じられないほど憔悴しきった様子で過ごしていたこと。
私を蔑ろにしてパウラ様にうつつを抜かしていたことを、心の底から後悔していたこと。
パウラ様にはもともと他国の貴族令息との縁談があって、卒業したら他国に渡り、婚約することが決まっていたこと。
あんなに激しく燃え上がっていた恋情が嘘のように、オズヴァルド様はパウラ様に見向きもしなくなったこと。
そんな後悔と懺悔の日々を送るオズヴァルド様を知ってしまったら、きっと私はすべてを許してしまう。そう思ったジークは半ば強引に留学を決めさせて、苦悩にあえぐオズヴァルド様について一切教えることもなく、私をここまで連れてきたのだという。
「……ごめん」
消え入りそうな声には、底知れぬ罪悪感が沈んでいる。
「ルイーズと兄上を会わせたくなかったんだ。あんなに落ち込んで、後悔に苛まれてる兄上を見たらルイーズはきっと何もかも許してしまうと思った。それに、心を入れ替えた兄上は今度こそルイーズを大事にするだろうとも思った。でもルイーズを傷つけた兄上のことが、どうしても許せなかったんだ。あれだけ傷つけたくせに、今更遅いんだよって思ってた。だからもういっそのこと、兄上の手の届かない遠いところへ連れて行ってしまえって……」
「だから留学することにやたら乗り気だったわけね」
「……ごめん」
「それ、何に対して謝っているの?」
ちょっと前のめりになって、私はジークの顔を覗き込む。
「何って……」
「オズヴァルド様が浮気したのを心から後悔して、意気消沈したまま過ごしてるって言わなかったこと? パウラ様に見向きもしなくなって婚約にも至らなかったって教えなかったこと? それともあれよあれよという間に留学させたこと?」
「……全部だよ。あのときちゃんと、本当のことを教えていればルイーズは――」
「聞いていたら、多分もっと苦しい思いをしたと思う」
「え……?」
弾かれたように顔を上げるジークと目が合った。
自責感の色が滲むその目に、笑みを返す。
「そんなに落ち込んで後悔するくらいなら、どうして浮気なんかしないで私だけを見ていてくれなかったのって、オズヴァルド様を責める気持ちがどんどん膨らんでいったと思う。でもそんなふうにオズヴァルド様ばかりを責める自分も嫌で、こんなだから浮気されたんだって今度は自分を責めて、そもそも自分にもっと魅力があればよそ見なんかされなかったのにってますます自分のことが嫌になって、もう何もかも嫌だし誰のことも信じられないって思い詰めてたと思う」
「ルイーズ……」
「あのとき、オズヴァルド様とこのまま会わずにいられたらって言い出したのは私だもの。離れたかったのは私よ? 留学のことだって、やっぱり行かないって途中で考え直すこともできた。でもそうしなかったのは、私の意志よ。ジークはただ、私の突拍子もない願いを叶えてくれただけでしょう?」
「でも……」
「私はここに来たことを後悔していないし、むしろ来てよかったと思ってる。ジークが気に病むことなんか、一つもないのよ。それに私、オズヴァルド様のことは別にもう好きでもなんでもないんだけど」
ついでに明日の天気の話でもするかのようにあっさりそう言うと、ジークは「え……?」と呆気に取られた顔をする。
「もう誰のことも好きになりたくないって思ってるのはほんとのことだけど、それはオズヴァルド様のことがまだ好きだからじゃないの。それとこれとは別の話っていうか……」
「いや、だって、兄上を想う気持ちがまだあるから、ほかに目がいかないんだろ?」
「……そういうわけじゃないんだけど……」
「違うの?」
「……違うわよ」
「どう違うの?」
「どうって……」
いきなり想定外のことを問い詰められても、うまく答えられるわけがない。
でも困惑する私を見返して、ジークの表情はますます曇る。絶望感やら焦燥感やら無力感やらがすごい勢いで押し寄せているのが、手に取るようにわかる。
そんなジークに何をどう言えば納得してもらえるのか、どんな言葉だったら信じてくれるのか、咄嗟には思い浮かばなくて私は言葉に詰まってしまう。
はっきりしていたのは、ジークにだけは誤解してほしくないという気持ちと、こんな不安げな顔をジークにさせたくないという想いだけだった。
その感情にどんな名前がつくのか、このときの私はまだ気づいていない。
次話は満を持して再登場、オズヴァルド視点回です。
婚約解消後のオズヴァルドは果たして……?




