19 そう、でろでろ
「俺はルイーズのことが好きだけど、自分の気持ちを押しつけたいわけじゃないからさ」
事件の翌日、騎士団の聴取が終わって色気だだ漏れの説教をしたあとで、ジークは少し躊躇いがちにそう言った。
「だって、ルイーズはもう、誰のことも好きにならないって決めてるんだろ?」
「え……」
反射的に見返すと、ジークの翡翠色の瞳が切ない影を帯びる。
「どうしてそれを……」
「ルイーズを一番近くでずっと見てきたから」
さも当然といった顔をしながらも、どこか寂しげに笑うジークに言葉がない。
「あ、その……」
「仕方がないよ。ルイーズが兄上しか見てなかったのは誰よりも知ってるし、それがあんな終わり方をして、すぐ次に目を向けるなんてできるわけないし」
「ジーク……」
何もかもお見通しの優しい声に、私は黙って目を伏せる。
確かにあの頃、私にとってはオズヴァルド様がすべてだった。
大好きで大好きで、一途に恋い焦がれて、そんな人と一生一緒にいられることが幸せで、それなのにオズヴァルド様の心は知らぬ間に離れてしまった。
今思えば、オズヴァルド様はやっぱりそれなりに私のことを好きでいてくれたのだろう。嫌われてはいなかったと思うし、「妹みたいにしか思えない」というのも本心ではなかったように思う。恋情めいたものは、あった気がする。
でも、だからこそ、オズヴァルド様がいとも簡単に心変わりしたという事実は私の心の奥底に深く刻み込まれてしまった。
人の心は移ろいやすい。好きになったとしても、いつかその想いは泡沫のごとく消えてしまう。
そう思ったら、もう無理だった。人の心を信じることが、怖くなった。
オズヴァルド様に裏切られて、苦しくて悲しくて何もできなくなるほどの痛みにあえいで、呼吸の仕方すら忘れてしまうようなつらい思いは、二度としたくない。
だったらもう、恋なんて、しなければいい。
誰のことも、好きにならなければ――――。
そんな密かな決意を、ジークに悟られていたなんて。
「……ごめんなさい」
ぽつりとそう言うと、ジークは思いのほかからりとした声で「何が?」と応える。
「だって、せっかく私のことを好きになってくれたのに……」
「言っただろ? ほんとは当分この気持ちを伝えるつもりなんてなかったんだよ。最初から長期戦は覚悟してたし」
「……え?」
「兄上のことがあって、ルイーズがもう誰のことも好きになるつもりがないのはわかってたんだ。あんな目に遭って、人の心なんか信用できないって思うのも無理ないし」
「そう、だけど……」
「だから時間をかけて、ルイーズがもう一度誰かを信じてもいいと思えるようになるまで待つつもりでいたんだよ。まあ、結局は待てなかったわけだけど、それもいいかなと思ってさ。この際方針を転換するのもありかなって」
「……方針を転換? 何それ」
「今まで通りルイーズの一番近くにいて、俺の気持ちは変わらないし変わりようがないってことを証明しようと思って。何年、いや何十年経っても俺の気持ちが変わらなければ、さすがにルイーズも信用するしかないだろ?」
「そ、そんなの、ダメよ。ジークにはジークの人生があるでしょう? 私なんかより、さっさと別の人を選んだほうがきっと――」
「俺はもう、ルイーズじゃないと嫌なんだよ」
確かな熱を宿した真剣な瞳に射抜かれて、私は息を呑む。
「俺は兄上とは違う。心変わりなんてしないし、この想いが一生変わらないって断言できる。でもその言葉だけじゃ信じられないと思うから、無理に信じろとは言わない。いつかルイーズが俺のことを信じてくれる日が来るって、俺は信じてるから」
「ジーク……」
「それにさ、これからもルイーズの一番近くにいて嫌ってほどでろでろに甘やかせば、そのうち絆されてくれるんじゃないかって思ってて」
「で、でろでろ?」
「そう、でろでろ」
どういうわけか、ジークはちょっと、得意げな顔をする。
「え、何? 私って、これからジークにでろでろに甘やかされるの?」
「そうだよ」
「ちなみに、でろでろに甘やかすってどういうこと? どういうのを『でろでろ』って言うの?」
「そうだなあ……」
何やら急に楽しげな雰囲気になって、ジークは顎先に手をやりながら視線を上に向ける。
「……内緒」
「へ?」
「わかっちゃったら、面白くないだろ?」
「でも、その、心の準備というものが……」
「まあ、ルイーズは黙って俺に甘やかされてればいいんだよ」
あのときのジークの笑顔、やばかった。何がって、色気が。
恋情解禁後のジークの色気、本当にやばいと思う。今まではどうやったって、艶っぽい雰囲気なんか出してきたことないくせに。あんなにも破壊力抜群の秘密兵器を隠し持つ、お色気大魔王だったとは……!!
そうして、その後の学園生活はすったもんだありながらも概ね穏やかに過ぎていった。
当初は盛んに言い寄ってきた令息たちも、恋愛を捨てた私が一向になびかないとわかるとさーっと潮が引くようにいなくなった。ほんと、あっという間だった。まったく現金なものである。別にいいけど。
ジークは相変わらず、私のそばを離れない。たまに血気盛んな令嬢から秋波を送られることもあるけれど、我関せずを貫いている。
そういえば一度だけ、よく知らない令嬢に呼び止められたことがあった。
「ルイーズ様、いい加減ジークヴァルド様を解放してください!」
いきなり廊下でそんなふうに叫ばれたら、誰だってさすがに慌てると思う。
でも令嬢は、ビビる私とジークなど置いてけぼりで声高に言い募る。
「いくら幼馴染で一緒に留学してきたからといって、ジークヴァルド様を束縛しすぎです! ルイーズ様がジークヴァルド様を縛りつけているせいで、ジークヴァルド様は窮屈な学園生活を強いられているのですよ!!」
私は隣にいるジークに無言で尋ねた。「え、そうなの?」と。
ジークは一ミリも表情を動かさず、アイコンタクトで答える。「全然」と。
令嬢はその後も一方的に「ルイーズ様はひどいです!」「あんまりです!!」などと訴え続け、とうとうジークは本当に面倒くさそうな顔をして近づいた。
「あの」
声をかけられ、令嬢はパッと表情を輝かせる。
「邪魔なんでどいてもらえませんか?」
「は!?」
「ここ、廊下なんで。何かのパフォーマンスとかだったら、場所を変えたほうがいいと思いますけど」
衝撃のあまり立ち尽くす令嬢と、同情と憐憫の視線を送るギャラリーの対比がすごい。
あの突然の告白と「でろでろに甘やかす」宣言以降、ジークは自分の恋情を隠さなくなった。
いつも一緒にいてくれるのは以前と変わらないけれど、明らかに視線が甘い。とろけるように甘い。愛おしそうに私を見つめて、「どうした?」なんて柔らかく微笑んで、事あるごとに「可愛い」「好きだよ」と優しくささやく。
こういうのを「甘やかされる」と言うのだろうか。だったら、今のところ毎日毎日つつがなくまんまと甘やかされていて、なんというか気恥ずかしいし、なんなら心臓に悪い。不意打ちの攻撃にしょっちゅうドキドキさせられている。ほんと困る。
だから私たちはつきあってないし婚約もしていないけど、半ば公認の仲としてみんなから生温かい目で見守られている。
「なんだか外堀を埋められているような気がするんだけど」
私がそう言ったら、ジークは「バレたか」と笑っていた。
そうして数か月が経ち、季節はめぐって私たちは進級した。
と同時に、うれしい知らせが届く。
「エレノアたちが戻ってくるみたい!」
届いた手紙をジークにも見せると、「思ったよりも早かったな」と口元をほころばせる。
手紙には、エレノアがグレオメールの第一王女エレオノーラ殿下として無事に立太子したこと、レンナルト様と婚約したこと、もろもろの手続きや儀式や式典なんかが終わったから改めてラングリッジに留学することなどが書かれてあった。
「また賑やかになるわね」
「よかったな」
「ジーク、ルイーズ、ちょっといいか?」
はしゃぐ私たちの後ろから、心なしか硬い声で呼び止めたのはロルフ様だった。
「なんですか?」
「……オズヴァルドが、近々ラングリッジに来るらしい」




