28.かつての優しさは息吹をあげて
その山は、古月山のずっと遠く、遥か西に聳え立っていた。ふもとの村には“息吹山”と呼ばれ、山の形や気候からよく滑昇霧が発生し、まるで呼吸をしているように見えるからそう名付けられたと聞いた。古月山ほどの面積はないが、標高ははるかに高く、山頂付近は常に雲がかかっている。
そこに産まれた白い鬼はそれこそ鬼らしい性格で、人を嫌い動植物を愛していた。日々を山の世話で明け暮れて、その日適当に選んだ太い木の上で眠った。
或る時、白い鬼が気づかぬ間に山の麓に人口が20人程度のとても小さな村ができていた。わずかばかりの作物を育て、山裾の木の実を分け合って生きるようなささやかな集落は、山から下りてくる狼の群れにたいそう手を焼いていた。せっかく育てた作物を食い荒らされ、酷いときには人が餌食になってしまうので、夜は扉に突支い棒をして震えて過ごすほどだった。白い鬼はそれもまた弱肉強食の定めだと、特段の介入をすることなく見守った。
ある年、村の入り口に近い家に赤子が生まれた。赤い瞳を持つ赤子だった。両親も村人も、血の様に赤い瞳を忌むべき存在として扱って、あろうことか狼の群れが襲い来る夜に家の外に放り出した。赤子は母親の温もりを求めて泣いたが、村人は耳を塞いで見ぬふりをした。そのまま狼の腹を満たさせて、さっさと山へ帰ってくれとでも考えていたのだろう。
けれど狼たちは、その赤い目を持つ赤子を見るや否や、恐れるように後ずさって山へと引き返す。白い鬼は驚いた。何の力も持たない赤子が、10頭以上いる狼の群れを追い返したのだ。驚いたのは村人も同じだったが、何かの偶然だろうと次の夜も赤子を外に置いた。再びやってきた狼は、前の日と同様に赤子に怯え帰って行った。3度繰り返した後は、ついに村を襲いに来ることもなくなったのだった。
村人たちは歓喜した。神の遣わした赤子だと、涙を流しながら抱きしめた。あまりにも勝手な村人たちに腹を立てた白い鬼だけれど、赤い目の赤子には興味が湧いたので、それからも何とはなしに観察を続けた。
赤い目の赤子は村人に重宝されながら、優しい男に育っていった。狼に襲われることもなくなって、山から貰った土と水で作物を器用に育て、立派な野菜を収穫していた。
「あなたはこの山に住む鬼ですか?」
ある日、木の実を求めて山に入ってきていた赤い目の男が、白い透き通るような髪を見つけて声をかけた。それは明らかに人間と違う角を生やし、異質な髪色と体躯をしていたにもかかわらず、恐れることなく笑いかけるのだ。
「僕は衛士です。あなたのお名前は?」
白い鬼は一度無視をしてみたけれど、衛士と名乗った男は諦めることを知らないのかしつこく話しかけてくる。五月蠅くてたまらなくなった白い鬼は、名前を持たないことをそっぽを向いたまま無愛想に呟いた。
「それは寂しいですね。…えぇと、じゃあこれからは“木蓮”と呼んでもいいですか?」
己が好きな白い花の名前を勝手に名付けて、衛士は一方的に自分の話をした。狼や猿が村を襲ってこないこと、それは不思議なこの目の色が原因かもしれないこと、何か知っていたら教えてほしいこと。きっと自分なりに抱えていた悩みのようなものを晴らしたかったのだろうと今なら思うけれど、当時の木蓮にはただただ五月蠅いだけでしかなかった。
「お前は少し黙ったほうがいい。間抜けな顔がもっと間抜けに見えるぞ」
木蓮がそう言うと、少しばかり驚いて呆ける衛士が、弾けるように笑った。
「綺麗な瞳の色ですね!」
人の話を聞いているのかいないのか、突飛な返事に肩の力がガクリと抜けた。近くに成っていた木の実を少しばかり摘み取って、その日は手を振りながら帰って行った。こちらを見ながら山を下りるものだから、忠告する間もなく石に躓いて転がり落ちるような、愚図な人間だった。
衛士が15歳そこらを迎えた頃には、村の実りも順調で獣も近寄らなくなった村の人口は倍以上に増えていた。毎年生まれる赤子が獣に食われず無事に育つことを、村人たちも当然のことと思い始めていた。
「お前は嫁を取らんのか」
その日も山に遊びに来ていた衛士に木蓮が問うが、彼は笑うだけで返事をしなかった。意地悪な質問をしたと思う。衛士と正面を向いて話す村人が、彼の血の様に赤い瞳を見つめてしまうと途端に「ひっ」と声を上げて、さっさと話を切り上げ去ってしまう姿を、もう何度も目撃していたからだ。獣が恐れる赤い目は、村では便利に使われていても、相変わらず異端でしかなかった。
「見る目のない人間達だ」
衛士は優しい、優しすぎるほどに優しい。衛士が器用なせいか他の者がするより良く育つので、作物の手入れはほとんど彼が一人でしている。村の住人が増える度、囲う柵を延長するのも衛士だ。そうして獣を追い返す瞳を持つ男は広がった土地の入り口間際に家を建て、今までの家は手入れをして誰かに与えてしまう。のどかな村の中で、日々忙しそうに動き回っているのは衛士だけの様に見えるが、村人にはもう、それが当たり前になってしまっていた。
「そんなことを言ってくれるのは木蓮だけですよ」
「へらへらするな。そうやって笑っているから村の者は調子に乗るのだ」
あはは!などと声が上がるのが癪で、木蓮は思わず衛士の頭を鷲掴みにした。背丈の差も相まって、簡単に持ち上がってしまう衛士。それをさらに愉快そうに笑うので、こいつはもうどうしようもないのだなと木蓮は呆れてしまった。
「優しいわけではないのです。…ただ気が弱いだけ」
大地に下された衛士は目を細めて木蓮を見上げた。その表情の時だけ、紅い瞳が瞼に隠れて見えないので、ああわざとなのだなと理解した。村人が恐れる赤い目を、見せないように笑うことが癖になっている。
「思いやりのない優しさは、残酷ですよ…きっと」
言葉の意味は分からなかったけれど、向ける背中が寂しそうだったので、群れからはぐれた猿にするようにぽんぽんと頭を撫でた。目を丸くした衛士が笑ったその時の顔はほころぶようで、柘榴石が綺麗に夕日に光っていた。
木蓮は、優しいものが好きだった。春に飛ぶ花の綿毛も、立ち込める霧も、夏の日差しを和らげる木漏れ日も、撫でるような秋風も、静かに降り積もる雪も、不思議と心を穏やかにさせてくれるから好ましかった。
だからなのか、話しこそしつこく五月蠅いが、山の動物にも草花にも…ましてや鬼である自分にまで過剰なほどに気を配る衛士のことは、苦手な人間であれど好きであると認めていた。わざわざ深くまで山を上ってきて自分を見つけた時の笑みは、冬の明けたばかりの陽だまりのようでこちらまでほほ笑んでしまうほどだった。
「木蓮の笑顔は美しいですね」
そんなことを言われたのは初めてで、うっかり動揺して木の枝から落ちてしまったこともあった。嫌な気持ちではなかったけれど、やっぱり癪に障ったので頭を鷲掴みにした。
赤目の力なのか、言葉はわからないらしくも衛士は動物と意思を交わせているように見えた。鬼である自分が驚くほどに、山の動物の欲しがるものをよく理解していたし、動物の方もまた彼を害すことも拒むこともなかった。手塩にかけた作物がやたらと大きく育ったり、特別可愛がった動物が異常に大きく成長したりもした。
ありえないことなのに、衛士の前では当たり前に過ぎていく。それもまた、村人が距離を置いてしまう理由だったのだろう。だからこそ彼は、居心地のいい山で過ごす時間を増やしていった。




