第百十二話 小さく甘美な悪意の種
「あなたは、我が国、サンクランドが『唯一絶対の正義の国』であると信じているかしら?」
その問いに、ランプロン伯は目を瞬かせたが……。
「……もちろんでございます」
間を置かずに頷く。ティアムーン帝国の官吏が隣に居てもなお、迷うことなく頷くその姿勢。それが、ルスティラには極めて危うく見える。
そうなのだ。彼ら保守派貴族にとって、それは、問われるまでもないこと、迷う必要のないことなのだ。
サンクランド国王の正義の統治を大陸全土に広めること。それは、サンクランド保守派の揺らぐことのなき信条だからだ。
ただ……なぜだろう? 今日の彼の答えには、一瞬の、わずかばかりの迷いのようなものが感じられた。
それがいかなる感情によるものか……? 彼の中にもなにか変化が起こりつつあるのだろうか?
そんなことを想像しながら、ルスティラは紅茶を一口。甘いジャムを溶かした紅茶は、老女の数少ない楽しみであった。
「サンクランドは正義の国。なるほど、それは別にいいでしょう。今までサンクランドが正常に国を保ってきた論理ですし、多くの民の幸せを守ってきた国是です。私も大切だと思っていますよ。それに、絶対の正義というのも悪くはない。正義を揺るがしてはいけないという志のようなものが感じられて。私も好ましく思います。けれど……」
と、そこでルスティラは言葉を切った。静かに視線を向けるのは、ルードヴィッヒのほうだ。彼としては、否定しなければならない要素が、その言葉には含まれていたから。
その眼鏡の奥に、わずかの怒りを見出しつつ、ルスティラは自らの考えの正しさに確信を持つ。すなわち……。
「それを『唯一絶対』と考えてはいけない。それは我が国の高慢に繋がる、と。私はそう思っています」
その言葉に、ランプロン伯が驚愕の表情を浮かべた。
『唯一絶対の正義』それは、すなわち、他の正義を認めない言葉だ。
サンクランドの正義こそが唯一であり、他国の正義は認めないという、拒絶と排撃の言葉だ。
「唯一絶対の正義とは、各国が認める『神聖典』でなければならない。サンクランドの正義はそれに準ずるものでなければならない。そうしないければ、各国が正義を掲げて互いに刃を向け合うことになるでしょう」
建国当初はそうであったはずなのだ。サンクランドは神聖典の正義を執行する正義の国であったはずなのだ。正義の国の、一つであったはずなのだ。
そのサンクランドの正義が……いつの時期からか歪められた。意識してか、無意識かは定かではないが……何者かが、サンクランドの正義に『唯一性』を付け加えたのだ。
それはとても微妙な一言だ。些細な、見落としてしまいがちな一言だ。けれど、それがもたらす破滅的な歪みが、ルスティラの目には明らかだった。さらに、
「一度、唯一絶対の正義という言葉に酔ってしまえば、そこから覚めるのは難しい……ですか」
眼鏡の能吏、ルードヴィッヒが眉間に皺を寄せる。
ルスティラは、思わず感嘆の息を吐く。
――なるほど、さすがに理解が早いですね。
そう、この件の厄介なところは『唯一絶対』を否定するのが難しいところだ。
自身の国が世界で唯一の正義の国だと思うのは、甘美だ。保守派の貴族などにとっては特に、それは信じてしまいたくなる言葉だ。
ゆえに、それを否定するのは難しい。人は信じたいものを信じるもの。見たくないものは見ないもの。
それを否定する者は攻撃を受けるし、下手をすると国が割れる。国が……崩れる。
「何者が流したのかはわからないけれど、恐ろしい浸食ではないかしら? ただ一言……私たちサンクランド貴族にとって耳心地の良い言葉を付け加えただけで……サンクランドの正義は、さしたる抵抗もせずに歪められてしまったのです」
そこまで言って、ルスティラは紅茶を一口。長く話して、わずかに乾いたのどを潤す。口の中、溶け残ったジャムの甘味を楽しんでいると……。
「だから、サンクランドの自浄の仕組みを破棄しようとした、ということでしょうか?」
眉間に皺を寄せ、ルードヴィッヒが言った。
「狙いの一つではありましたよ。サンクランドの正義に対して、否定の可能性を増やさなければならなかったから。そうして立ち止まる余地を作らなければならないと考えました」
完全に、否定のしようのない『汚れなき正義』が維持されてはいけなかった。外から、サンクランドの正義に対し、疑義を生じ得る形を残さなければならなかった。
だから、王家との関係性をあえて近づけた。
内向きの、王に対する警鐘としての自浄機能を家同士の繋がりによって保持しつつ、外向けに潔白を主張する自浄機能を破棄したのだ。
「サンクランド王国は正義の国。民の安寧を守るために、その正義は守られるべき。でも、その正義の形は別に唯一でなくてもいい。神聖典に適う形ならば、他の正義とも轡を並べられる。否、並べなければならない」
ルスティラは、殿方たちの表情の硬さを見て、そっと肩をすくめた。
「もちろん、夫のことを愛していたということもありますよ。むしろそちらのほうが強いぐらいです。とても優しくて、大らかな人だったから……。尖っていた私にはとても心地よい人に思えたのよ」
悪戯っぽくウインクしてみせる。
「その……ナホルシアさまに、そのことをお伝えには……?」
ランプロン伯の問い。痛いところを突かれて、ルスティラはゆっくりと首を振る。
「あの子は、名前のこともあって、初代辺境女伯への想いが強いでしょう? そして、サンクランドの正義に固執するあまり、それが唯一絶対であると確信を持ってしまっている。サンクランドの自浄の仕組みを台無しにした、何を言っても聞きはしないでしょう」
賢明なルスティラが、一つだけ失敗したことが、ナホルシアの名前のことだった。
初代辺境女伯ナホルシアの名前は、ナホルシアには重すぎた。期待をもってつけた名前が、逆に彼女の心を頑なにしてしまっていた。
「あの子に、重すぎる荷を背負わせてしまったことは失敗だったと思っています」
重たいつぶやきをこぼす。けれど、ルードヴィッヒは穏やかな笑みで首を振った。
「僭越ながら、ルスティラさま。あまり、ご心配なさることはないのかもしれません」
「……あら? というと?」
「我が主……ミーア・ルーナ・ティアムーンが、今、領都サリーデルにおります。それが答えです」
確信のこもった口調で、ルードヴィッヒが言う。
どこか誇らしげに、胸を張って……。
「帝国の叡智、ミーア姫殿下……」
揺らぐことのない確信のこもった口調。事の真理を一瞬で見抜き、その勘所を押さえてみせた、この少壮の文官にそこまで言わせる者。
「なるほど、少し興味が出てきますね」
はたして、どんな人なのか……気が合う方なら良いのですけど、とつぶやきつつ、老女はお替りの紅茶にジャムをたっぷり入れる。たっぷり、たっぷり入れる。
……紅茶の趣味はミーアと合いそうではあった。
「それはそうと……ルスティラさま、そのサンクランドの正義を歪めた者について、心当たりはございますか?」
「皆目見当もつきません。保守派の貴族であれば、誰でも言いそうなことだとは思っているけれど……」
その答えを受け、ルードヴィッヒは考えるように一瞬黙ってから、小さく息を吐いて……。
「実は……我々は、一つの敵と対峙しています。その敵は、遥か昔からこの大陸に潜み、人の秩序を破壊しようと活動しているのですが……」
静かな口調で、ルードヴィッヒは話し始めた。




