第百十一話 老女のささやかな楽しみ
女大公ナホルシア・ソール・オリエンスは万能の天才だった。
政治や領地経営に始まり、領内の治安維持体制の整備、新技術の開発、ダンスに乗馬、弓術、剣術に至るまで、あらゆるものをこなせる才媛であった。まさに天才。どの部分をとっても、まずもって第一級の人であった。
そして、その天才をして、自分以上に領主に相応しかった人と言わしめる者こそが、その母、ルスティラ・ソール・オリエンスであった。その見立ては確かであった。
ルスティラは、天才ナホルシアをも上回る器量の持ち主であったのだ。
その日、ルスティラは普段と変わらず、中庭で紅茶を楽しんでいた。
外でのんびりするにはいささか寒い冬の日。されど、厚着をし、庭で熱々の紅茶を嗜むのは実に贅沢な楽しみだと、ルスティラは考えていた。四季折々を楽しみながら、紅茶を飲む、これ以上の贅沢はないだろう、と。
さて、紅茶のカップに目を落としつつ、ルスティラは静かに黙想していた。サンクランドの未来について……。
彼女の目から見ると、今のサンクランドはいささか危うく思えた。
「サンクランドの正義は、何者かによって歪められた……。このままいけば、恐ろしいものに成り果てるかもしれない」
そんな確信が、以前から彼女の内に根付いていた。そして、それが見えていたからこそ、彼女は……。
「失礼します。ルスティラさま。ランプロン伯が面会を求めていらっしゃいました」
メイド長の言葉に、ルスティラはスッと視線を上げた。
「あら……。ランプロン伯。ずいぶんと久しぶりですね」
「それに、帝国の官吏の方もご一緒ですが……」
「まぁ、ティアムーン帝国の……?」
帝国の叡智と名高い帝国皇女、ミーア・ルーナ・ティアムーンが領都サリーデルに来ていることは聞いていた。ということは、その家臣ということだろうか。
「なるほど、それは、張り切ってお茶を淹れなければなりませんね」
さて、この出会いがなにをもたらすのか……。少しだけ楽しみになりつつ、彼女は客人の訪れを待った。
やがて、やってきたのは昔馴染みのランプロン伯と、眼鏡の青年文官だった。
「大変、ご無沙汰いたしております。ルスティラさま」
「ええ。秋の狩猟会以来だったかしら? お元気そうでなによりだわ」
それから、静かに、眼鏡の男に視線を向ける。レンズの奥、鋭い瞳が知性の光を湛えている。それを隠すように軽く眼鏡を押し上げてから、彼は膝をつく。
「お初にお目にかかります。ティアムーン帝国の文官、ルードヴィッヒ・ヒューイットと申します」
「はじめまして、ルードヴィッヒさん。どうぞ、お立ちになって。帝国の官吏というと、ミーア姫殿下の家臣の方かしら?」
「はい、ミーアさまのもと、日夜、務めに励んでいます」
ルードヴィッヒは一瞬、考えた様子だったが、素直に立ち上がり、すっと背筋を伸ばした。
「お茶の用意をしていますよ。簡単なものだけどお菓子もね。正式な訪問ではないから、大したおもてなしはできませんけれど……」
「ああ、いえいえいえ! お気遣いの無きようにお願い申し上げます!」
ピンっと背筋を伸ばすランプロン伯に、ルスティラは苦笑いを浮かべる。
――この方は、若い頃から変わりませんね。
二人の出会いは、ランプロン伯が社交界デビューした時に始まる。以来、年若く覇気に溢れる青年の面倒をなにくれと見ていたら、いつの間にか、すっかり懐かれてしまったのだ。
――しかし、帝国の官吏と共にここに来るというのは、どんな意味があるのでしょうね? 昔の彼ではこんなこと、考えられなかったけれど……。
そんなことを思いつつ、メイドが紅茶を淹れるのを眺めていた。
「それで、今日いらっしゃったのは、なにゆえのことかしら? ランプロン伯はただのご挨拶でしょうけれど……帝国の方には、なにかお話があったのではありませんか?」
二人の殿方を前にして、花やケーキについて楽しく会話を楽しむのも一興かとは思ったが。老人の暇つぶしに付き合わせるのも申しわけない。
聞きたいことがあるなら遠慮なく、っと水を向けてみれば、ルードヴィッヒは特に緊張した様子もなく、深々と頷いて……。
「実は、オリエンス大公家について、お聞きしたいことがあり、こうしてランプロン伯にご一緒させていただきました」
「あら……当家についてですか?」
「はい。単刀直入にお聞きしたいのですが……オリエンス大公領、いや、辺境伯領は『サンクランドの自浄の確かさ』を国の内外に証明するための存在でしょうか?」
――あら、本当に単刀直入……。
ルスティラの見立て通り、その口調は極めて知的であった。が、いささか直截に過ぎて、思わず、ルスティラは思わず目を瞬かせる。
これは、性格ゆえのことなのか、それとも、なにか、こちらの心を揺らそうということなのだろうか……。
老練なる前大公夫人は、優雅な仕草で紅茶のカップを回しながら、一呼吸おいて。
「ええ。その通り。そして、私の代でその機能は不全を起こした。オリエンス辺境伯の大公への格上げと、私と王弟の婚儀によってね」
それを聞いて、ランプロン伯が息を呑む。されど、ルードヴィッヒのほうは特に気にする様子もなく……。
「それがわかっていながら、なぜ、そのようなことを?」
またしても、踏み込んだ質問が来る。
他国人であれば、それに答えることは容易だ。恐らく、このルードヴィッヒという男は、かなり頭が働く。だから話すことに意味はあるかもしれないが、問題は……。
ルスティラはランプロン伯のほうに目をやった。
――どうしたものかしら……。
彼は、別に悪い男ではない。善性の男だ。それに、頭も決して悪くはない。いささか頑ななところはあるかもしれないが、まずもって信用のおける人間ではある。
だが……本当に良いのだろうか……? 彼に本心を告げることは……などと考えたところで、ルスティラは考えるのをやめた。
自分は前大公夫人である。すでに、権力の第一線から引いた身。重責からは解放された身だ。
ではあるけれど、否、だからこそ、一人の暇な老人として、若い者たちに自身の見識をひけらかすのも悪くない。
それに、サンクランド保守派の中に、自分と同じ物を見る人間を作っておきたかった。
そうでなければ、いずれこの国は周辺国にとって憎悪の対象と成り果てる。力ある王の出現と共に恐れられるようになり、やがては、国のシステムがその王の心を殺し、破綻する。
この二人が、今日ここに来たことにも、何かしらの意味があるのかもしれない
――ふふふ、老人の暇つぶしに付き合わすのも悪いなんて思いながら、結局は、楽しくお話ししてしまいそうですね。
ルスティラは賢い人だった。そして、他人と会話するのが好きな人だった。
だから滅多にない、ナホルシア以外の知者との対話を、ついつい楽しみたくなってしまったのだ。
「では、その話の前にランプロン伯に聞いておきたいのですけど……」
口元に品の良い笑みを浮かべて、ルスティラは言った。




