182 赤い女の幽霊 死乃路起源
「ゆ、幽霊怖い…… お、お化けぇ…… ヒイイイイ」
剣奈は腰を抜かしたまま、頭を抱えて怯えていた。赤い服を着た女はそんな剣奈を愛おし気に見つめた。
ナ……カ……ナ……イ……デ……
ワタシノ……
唄が聞こえた。どこか懐かしい響き。小さい頃に聴いたような。
剣奈はそっと顔を上げた。
赤い服の女は泣き顔の剣奈を見下ろして優しく微笑んだ。そこに悪意はなかった。剣奈は勇気をもって尋ねた。
「え、えっと、襲ったりとか…… ボ、ボクを食べたりとか、しないの?」
シナ……イ……
赤い服の女は剣奈の横に腰を下ろした。そして剣奈の頭に優しく手を乗せた。
ジュワッ
何かの音がした。そして剣奈の頭に乗せられた女の左手が少し薄くなった。女はさびしげに手を引いた。そして悲しそうに微笑み、目を伏せた。
現れた赤い女の幽霊、篠は語り始めた。
かつて戦国の世、安土桃山のころ、一人の娘が和泉国南部の間の小さな村に暮らしていた。娘の名は篠。彼女は貧しいながらも、両親と共に、穏やかに暮らしていた。
篠は優しい娘だった。両親と畑を耕し、近所の少年と笑い合う。そんな穏やかな日々を過ごしていた。
ある年、近隣で戦が起こった。敗残兵や野盗の群れが村々を襲い、略奪した。篠の村も例外ではなかった。
家々は焼かれ、篠の村は滅んだ。彼女の両親は、目の前で無残に惨殺された。恋人も野盗に殺されてしまった。
篠は両親が水がめに隠していた。ところがあまりにもの恐怖に失禁し、音を立ててしまった。野盗はそれを聞き逃さず、篠は見つかってしまった。
篠は野盗に囚われ、その場でさんざんに凌辱され、野盗の隠れ家に連れ去られてしまった。
野盗の隠れ家でも、篠はさんざんに慰み者にされた。なにをしても暴力が振るわれた。
しかし篠は学んだ。笑顔を浮かべさえすれば野盗たちの機嫌が良くなると……
篠は男の暴力を笑顔で受け入れる、そんな悲しい処世術を身に着けた。
当時、堺は南蛮貿易で栄えていた。人や物が「商品」として売り買いされていた。買われた「商品」は、時に海外に運ばれた。
戦乱の混乱で捕えられた者が、奴隷として海外に売られることは珍しくはなかった。
篠は「商品」として買われ、呂宋行きの船に乗せられた。しかしその船は出港後、嵐に見舞われ、鳴門の渦潮に呑まれ、沈んでしまった。
多くの者が命を落とした。しかし篠は奇跡的に助かった。彼女は荒波に翻弄されながらも、南淡路の浜に流れ着いた。
海岸に打ち上げられ、倒れていた彼女を、闇坂村の長、弥右衛門とその仲間たちが助けた。
弥右衛門は山あいの闇坂村に、篠を連れて帰った。その村は長らく貧しさと天候不順に悩まされ、村人たちは疲弊していた。
弥右衛門は篠を「村の世話役」(男たちの夜の慰労女)として受け入れることにした。男たちは彼女を助けるよう見せかけながら、夜ごとに彼女の身体をむさぼった。
篠は男たちの求めに応じ、明るく村に尽くした。村人に礼を欠かさず、どんな小言にも頭を下げ、つとめて穏やかな笑みを絶やさなかった。
月日が過ぎた。村に干ばつが襲いかかった。作物は枯れ、井戸も涸れた。
古くからこの地方では、水害や日照りが続くと「水神様の祟り」と考えられていた。
人々は神の怒りを鎮めるため、祈祷を行った。村人たちは口々に言い出した。「この不運は、流れついた娘がもたらした祟りではないか」と。
篠はその時、妊娠していた。男たちの夜の相手をできなくなることがわかっていた。女たちは村の男たちを寝取った篠に憎しみを持っていた。
夜の相手ができなくなり、女たちに憎まれている篠は、村の「不要物」「邪魔者」になろうとしていた。ただ飯を食らうだけの厄介者になろうとしていた。
村の寄り合いが開かれた。村人の総意で、篠を「水神のもとへ返す」ことが決まった。
その晩、篠は村の男衆の訪れを待っていた。
ガタリ
扉が開いた。
「お待ちしておりました。旦那様……」
篠は三つ指をついて、訪問者を迎えた。
シュル
「あ、何をなさいます、旦那様……」
篠は着物を剥がれた。白の肌小袖姿にむかれ、高手後手胸縄縛りに、厳しく緊縛された。
「あ、旦那様……」
「篠、水神様がお怒りだ…… お前を人身御供として水神様に捧げる」
「ひっ……」
ドスッ。篠は腹に子がいるのも考慮されず、腹に当て身を当てられた。篠は意識を失った。
池に篝火がたかれた。夜の暗闇に浮かぶ炎。照らされる女の白い肌。白肌小袖で緊縛された、艶やかで美しい女。
炎に照らされた篠の憐れな顔は、白く輝いていた。美しかった。神秘的な雰囲気を醸し出していた。
篠は池のほとりで、跪かされた。男衆も女衆も篠を取り巻いた。
「旦那様……、篠はどうなるのでございますか……」
「水神様のもとに帰るのだよ。水神様のもとで幸せに暮らしておくれ」
篠は眉毛を寄せ、きつく目をつぶった。篠はこの村のためにと、尽くしてきたつもりだった。精いっぱい男衆の夜の伽を務めた。
村に受け入れられたと思った。村の一員になれたと思った。生まれてくる子どもと共に村に恩返しをして生きていこうと思った……
ほろり
篠の目から涙が一雫こぼれた……
「うっ……」
村の男が篠を後ろから串刺しにした。槍は背中からお腹に向けて突き刺された。腹の子を貫き通すように……
篠の白い肌小袖が、背中とお腹を中心に赤く染まっていった。
ぽちゃん
篠は池に……
人身御供として……
水神様に捧げる生贄として……
水底深く……沈められた……
死にゆく篠は、水に沈みつつ、蒼い三日月を見つめていた。
なにがいけなかったのか……
男たちへのもてなしが足りなかったのか……
もっともっともてなしをすべきだったのか……
そうすれば村の一員として受け入れられ、生まれてきた我が子とともに暮らせたのか……
その後、村に雨が降り、村は再び潤った。人々は安堵し、篠の供養を行った。
ほどなく、水面から白い衣の女の幽霊が現れるようになった。
その衣は赤く染まり、髪は風になびいていた。幽霊は静かに池のほとりを見つめていた。
赤い女の幽霊は、人を見ると近寄ってきた。しかし危害を加えることなく、悲しそうに去っていった。幽霊が消えた後は、水が残されていたという。
赤子をあやすような、か細い子守唄が聞こえるとの噂も流れた。
篠の怨念であると恐れる者もいれば、彼女を、水神の使いとする者もあった。
やがて闇坂村は滅び、時代は流れた。やがて池は、ダムにのみ込まれた。
篠が人身御供にされてから数百年の時を経た今なお、静かな水面に赤い姿が映る夜があるという。子守唄が聞こえることがあるという……
かつて一人の娘が生きた証として…… 助けてくれた村に、恩返しをしようという悲しい娘の情念として……
篠の物語は、人の弱さと、それでも生きようとした一人の純粋な女の祈りを伝えるものであった……
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篠の物語の詳細は、全年齢対象の本編では割愛しました。詳細にご興味の方は本シリーズサイドストーリー『赤い女の幽霊』をどうぞ。




