172 夏の怪談 淡路・野島鍾乳洞へ
ピンポーン
「はーい」
朝食を終えた剣奈がインターフォンに走っていった。
「おはよう」
「あれっ?タダッち?」
「私もいるよ?」
「あ、山木先生も!すぐ行きますね」
パタパタパタ
剣奈がダイニングの扉を開け、玄関に走っていった。
カチャ
「おはようございます」
「「おはよう」」
「どうなさったんですか?」
「うん。ちょっとね」
「あ、ガレージ開けますね」
「ありがとう」
「お邪魔します」
「あらあ?おはようございます」
「玉藻さん、おはようございます。今の時代には慣れてきました?」
「ええ。海の上から眺めていて、ずいぶん変わったことはわかっていたのだけれど、実際に暮らしてみるとびっくりですわ」
「平安のころとは全然違いますからね」
「ええ。こんな小さな板で風景を写し取ったり、音を写し取ったり。それだけでも驚きなのに、まさか動きそのものも写し撮るだなんて…… ほんと時の流れってすごいですわ」
「もうスマホを使いこなしてらっしゃるんでね?馴染むの速いですね」
「うふふ。だって楽しいもの」
「はっ、クソ野郎め。何しにきやがった」
玲奈が階段の上から、玄関ホールを見下ろして言った。
「ひどいなぁ。あぁ、そういえば久志本玲奈さんになるんだったね。おめでとう」
「おう」
「これからは久志本さんって呼ばないとね」
「いいよ。テメエお義母さまを久志本さんって呼んでるだろ?ややこしいし、アタシごときがおこがましいわ。今まで通り牛城か玲奈でいい」
「わかった。じゃあ牛城さんで」
「おう」
「ようこそいらっしゃいました。まあお茶でも」
タイミングを見計らって、千鶴が声をかけた。
「はい、お邪魔します」
山木と藤倉はダイニングルームに入った。千剣破は東京でたまった仕事があるので、昨晩帰京していた。
剣奈、玲奈、玉藻がそれぞれの席に着いた。千鶴がみんなに紅茶を注ぎ、バームクーヘンを切り分けた。
「うわぁ!バームクーヘン大好き!」
剣奈が嬉しそうに、大盛りのバームクーヘンにかぶりついた。
「ほへへひょうは、はひひに?」
「これ剣奈。食べ物を口に入れたまましゃべるのはお行儀が悪いわよ?」
千鶴がたしなめた。
「はーい」
剣奈が素直に謝った。
「それでどうしたの?タダッち、山木先生」
「そうだね。せっかくの夏休みだし、俺たちもお盆休みで時間あるし、剣奈ちゃんと何かしようかなぁって。剣奈ちゃん何かしたいことある?」
「うーん」
剣奈はしばら考えていた。そしておずおずと口を開いた。
「ボクさ、淡路島の邪気退治、頑張ったよね?でさ、せっかくの夏休みだし、ご褒美になにか楽しいことをしたいかな?」
「そうだねぇ。夏、楽しいこと。うーん」
藤倉がしばらく悩んだ。そしてハッと口を開いた。
「そうだ!夏休みといえばやっぱり肝試しかな?夏の暑い夜に肝試しで盛り上がる。締めは海岸の花火。こんなのどうだい?どこかいい場所があればいいんだけど……」
山木がいいことを思いついたという表情で開いた。
「肝試しにいい場所。鍾乳洞なんてどうだい?」
「鍾乳洞?」
「そう、洞窟。淡路島の北に野島鍾乳洞というのがあるんだ。一九六五年(昭和四十年)に高校の地学部が発見して、当時は大騒ぎになったそうだよ。兵庫県指定の天然記念物にもなっている素敵な洞窟だよ」
玲奈がにやりと笑った。
「へぇ。いいんじゃねぇか。剣奈、オマエ鍾乳洞探検をしな。アタシが前もって宝を隠しておくからよ。剣奈が隠された宝を持って帰ってきたら成功。一晩剣奈がアタシらの王様だ。でも持って帰れなかったら失敗。罰ゲームだ」
「肝試しか……。ボク、花火は好きだけど、肝試しは別になくてもいいかな」
「剣奈、オメエ、男の子の癖にお化けが怖いのかよ」
玲奈がからかった。
「違うもん。ボク、お化けなんて全然怖くないもん。男の子だから平気だよ。全然怖くないもん」
剣奈が強がって反射的に答えた。
玲奈は男性経験が豊富である。男心をゆすって動かすのは、呼吸をするが如くである。
小学生男子の剣奈はそんな手練手管にあらがえるはずもない。剣奈は手のひらで転がされるがごとく、まんまと玲奈のたくらみに乗ってしまった。
野島鍾乳洞は、剣奈の実家がある宝塚から六〇kmほどの距離である。阪神高速七号北神戸線から神戸淡路鳴門自動車道を使えばわずか一時間で到着する。
夕方明るいうちに宝塚の久志本家を出ても、玲奈が宝を鍾乳洞の奥に隠すには十分な時間がある。
「野島鍾乳洞ってどんなところ?」
剣奈が聞いた。
「野島鍾乳洞は淡路島の本格的な鍾乳洞だよ。新生代第三紀中新世中期、およそ二千万年前に形成された神戸層群岩屋累層の石灰岩が侵食されてできた鍾乳洞なんだよ」
「なるほど?」
「日本で鍾乳洞というとサンゴ礁起源のものが一般的なんだけどね。野島鍾乳洞はなんとカキやフジツボがもとになった石灰岩層からできているんだよ。とても珍しく貴重な鍾乳洞なんだよ」
地質学者の山木がマニアックな返答を返した。
「そんな貴重な鍾乳洞に入っていいの?」
剣奈が尋ねた。
「野島鍾乳洞は立ち入り禁止だよ。以前は自由に入れたんだけどね。いつの間にか立ち入り禁止になったよ。台風で案内の看板が倒れて、そのまま立ち入り禁止になったらしい」
山木が答えた。
剣奈はほっとした。立ち入り禁止なら入ったら法律違反だ。剣奈の母の千剣破は順法精神あふれる人である。息子の剣人(現剣奈)にもしっかりとその順法精神を叩き込んでいた。
「立ち入り禁止ならダメだよね。ボク探検する気満々だったんだけど、法律違反ならダメだよ。残念だなぁ」
本音では剣奈は夜の鍾乳洞に入るのは怖かった。しかし「男の子のプライド」がそれを言わせなかった。
かわりに法律違反という大義名分を掲げて正々堂々と逃げをうとうとしていた。
「いや、野島鍾乳洞の立ち入り禁止は法律に基づくものではないよ。台風などで入口が荒れているため、事故防止や安全管理の観点から立ち入り禁止になったそうだよ。あとは兵庫県指定天然記念物なので、文化財保護法や兵庫県文化財保護条例の下での保護も必要というのも名目になってそうだね。まあ壊さなければ大丈夫じゃないかな」
山木がとんでもない暴言を吐いた。教育者がそんないい加減でいいのか山木。立ち入り禁止の場所に入ってはダメである。
「でもボク、お母さんから言われてるんだ。法律じゃなくても規則とかは理由があって決められてるって。だからちゃんと守らなきゃダメだって」
剣奈が答えた。
「問題ねぇだろ?幽世の野島鍾乳洞なら立ち入り禁止じゃねぇだろ?そもそも以前は普通に入れてた場所なんだろ?幽世の野島鍾乳洞なら入り口は荒れてないかもしれないし、たとえ荒れてたとしても剣奈の運動能力なら余裕だろ?ああ、そうそう、貴重だってなら、剣奈、絶対鍾乳洞は壊すなよ?暴れるなよ?」
玲奈が斜め上の解決策を提示して剣奈に引導を渡した。確かに幽世の野島鍾乳洞なら規則違反ではない。そもそも一九六〇年代の発見から二〇一〇年代半ば頃までは普通に入れていた場所なのである。五十年も普通に入れていた場所なのである。
現世では台風で入口付近が荒れたため事故防止の観点から立ち入り禁止になったらしいが、幽世なら全然規則違反ではない。
「でも邪気が棲みついたりしてないかなぁ」
剣奈が弱々しく言った。
「邪気が棲みついてたら逆に退治した方がいいんじゃねぇか?」
玲奈が正論を言った。剣奈はぐうの音も出なかった。
「よし、決まりだ。じゃあメンツを決めようぜ」
玲奈が言った。
「俺は行くよ」
独身で剣奈に惚れている藤倉は夜の剣奈とのデートイベントにワクワクしながら答えた。
「私は家族がいるし夜のイベントは若い者たちで楽しみたまえ。保護者として藤倉くんもいるから大丈夫だろう」
家族持ちの山木が言った。
「私はもう少しこちらに慣れたいし……、淡路島は今はいいかしら」
玉藻が寂しげにつぶやいた。
「そうやな。若いもん同士で楽しんどいで。気ぃつけていってくるんやで?晩は泊まるんか?キャンプセットもっていくか?」
千鶴がキャンプセット持参を提案した。
「いいですね!肝試し、花火大会、夜のキャンプ。まさしく夏休みって感じですね」
藤倉がワクワクしながら返答した。
「そ、そうだね。ボ、ボク楽しみだなぁ」
剣奈が冷や汗をかきながら強がって返答した。
こうして剣奈と玲奈、藤倉は夜の肝試しとその後の花火、キャンプの夏休み小旅行をすることになったのである。




