168 戸籍訂正の朝 病院と裁判所 剣奈泣く
「剣奈、起きなさい」
「んんん。眠い……」
「今日は忙しいの。さっさと起きなさい」
淡路島の九尾との闘いから帰還した翌日のことである。死を何度も乗り越えた冒険だった。戦士の休息、戦闘巫女の休日。
今日、剣奈はゆっくりとベッドで惰眠をむさぼりたかった。クーラーが気持ちよかった。庭の噴水の音が涼やかだった。金狐は床ですやすやと眠っていた。
「もうちょっとゆっくりしたらダメ?」
剣奈が尋ねた。
「今日は裁判所に行かないといけないから。九月から転校できなくなるわよ?」
「そんなに急いで変更しなくても…… しばらくは元の学校で男の子に戻って通ってもいいんじゃ……」
「二学期の初めからの方が新しいクラスになじみやすいと思うわ。いいから起きなさい」
「ちぇっ、はーい」
「ん…… んんん……」
金狐が大きく伸びをした。
シュン
金狐が人型に変化をした。たおやかな美女が立っていた。
「あらぁ?おでかけ?私もついていきましょうか?」
玉藻が尋ねた。
「玉藻さん、おはようございます。玉藻さんはまだ人間社会に慣れてらっしゃらないと思います。今日はお家でゆっくりしていてください。母と話し合ってどのように人間社会に慣れていっていただくか考えますので」
「わかりましたわ。じゃあもうちょっと眠るわね。剣奈ちゃん、いってらっしゃい」
シュン
玉藻が再び金狐に変化した。そして座布団の上に気持ちよさそうにくるまった。
「ちぇ。きゅうちゃはいいなぁ。ボクだって今日はゆっくりしたいのに……」
「あら?いいのかしら?今日は宝塚ホテルのアフタヌーンティーを予約していたのだけれど…… じゃあお出かけは明日にして、アフタヌーンティーは私と玲奈さんでいただこうかしら……」
「あ!いくいく!やっぱいくよ」
パタパタパタ
剣奈が慌てて洗面台に走っていった。
――――
「行ってきまーす」
千剣破と剣奈は手を繋いで宝塚病院に向かった。じりじりじり。太陽の照りつける暑い夏の日だった。
千剣破は白い日傘をさして歩いた。右手を剣奈とつないでいた。二人は前回と同じ坂を下り、川を渡って住宅街を歩いた。
田んぼの稲が青々と輝いていた。ほどなく宝塚病院が見えた。
「すいません。久志本と申します。診断書を受け取りにまいりました」
「久志本様ですね。お待ちしておりました。診断書できております。しばらくお待ちください」
千剣破と剣奈は病院ロビーの待合室に腰かけた。
「お母さん、今日、また診察とかあるの?」
「いいえ。今日は病院では診断書を受け取るだけ。このまま裁判所に向かう予定よ?」
「久志本様、お待たせしました」
「はい」
「五千円になります」
「はい。お願いします」
「お預かりいたします。それでは、こちらお受け取りください」
「ありがとうございます」
千剣破は病院事務の女性から封筒を受け取った。そして中身を確認した。
白い用紙には「外性器および染色体検査の結果、女性の所見に一致」と明記されていた。書類の末尾には、担当医師の署名と病院の公印があった。
千剣破はほっと一息吐いた。外性器が女性なのは千剣破も確認していた。しかし、染色体検査の結果が心配だったのである(百話)。
(ほんと神様のなさることは不思議だわ。男の子だったものを染色体レベルで女性に変えるなんて…… そうであるとすると…… 剣奈はその気になれば子を産めるのね…… 生理もそのうち来るということね。いろいろ教えてあげないと…… あ、でもまずは目の前のことから)
脳内会議が始めそうになった千剣破である。しかし今は、やるべきことを優先的にやろう、そう心を切り替えた。
「この診断書は戸籍訂正申立てのために使用できますか?」
「はい。家庭裁判所への提出用になります。もし控えがご入用でしたら、複写をお作りします。どうなさいますか?」
「お願いいたします」
シュイーン
病院事務の女性がコピーをとった。剣奈は千剣破の横で静かに立っていた。
廊下の向こうには、夏の陽射しが白く反射していた。剣奈は黙ってその光を見つめていた。
「剣奈、行くわよ?」
「え?あ、うん。どこへ?」
「神戸家庭裁判所よ」
「どこにあるの」
「伊丹。逆瀬川からいったん宝塚に出るわ。そこからJRに乗り換えましょ」
「はーい」
「ありがとうございました」
「お気をつけて」
千剣破は剣奈の手を握って病院を出た。今は朝の九時過ぎである。夏の日差しが眩しかった。
千剣破は逆瀬川を渡って阪急逆瀬川駅の階段を登った。乗車した電車は武庫川を渡り、ほどなく宝塚駅に到着した。
「剣奈、いくわよ」
千剣破は剣奈の手を引いてJR宝塚駅に向かった。そしてJR宝塚線の尼崎・大阪方面の電車に乗車した。およそ十分ほどで伊丹駅に到着した。時刻はまだ午前十時前だった。
今、剣奈の住民票の住所は宝塚市になっていた。本来、東京都武蔵野市(吉祥寺)が彼女の住所である。しかし夏休みの期間中は様々な手続きを行う必要があること、また転校の際に宝塚からということにした方がスムーズなこと、などから千剣破の実家の兵庫県宝塚市に剣奈の住民票を移していた。
夏休み中は宝塚で暮らすし、場合によっては宝塚で転校させることも検討してのことだった。
千剣破は伊丹駅北口バスターミナルからバスに乗った。そして裁判所前で降りた。
目の前に裁判所が見えた。無機質な感じの二階建ての建物だった。その無機質さが剣奈を不安にさせた。
「お、お母さん、ボ、ボク……」
剣奈が涙ぐんで千剣破を見上げた。
(剣奈…… 涙ぐんで。無理もないわ。私だって小学校三年生の時にいきなり「今日から男の子だ!」って裁判所に連れてこられたら不安になるわね)
千剣破は剣奈をぎゅっと抱きしめた。
「大丈夫よ?全部お母さんに任せて?来くんと剣奈がずっと一緒にいられるようにしてあげる」
さすが千剣破である。攻め所をわかっている。
「そうだった!ボク、クニちゃとずっと一緒にいるために女の子になるんだったよ。ごめんなさい。目的を思い出したから…… もう大丈夫……」
「いいのよ?不安になるのは当たり前だから。無理しないで?お母さんに甘えていいのよ?」
剣奈は千剣破にぎゅっと抱き着いた。千剣破は剣奈を見つめた。顔は胸に隠れて見えなかった。けれど剣奈が泣いているのがわかった。
千剣破はしばらく剣奈をぎゅっと抱きしめていた。
「ボク、行くよ?」
剣奈が顔をあげた。タイル張りの二階建ての建物を見上げた。
剣奈はぎゅっと千剣破の手を握った。そして裁判所に向けて歩き出した。




