167 性別訂正申請の日 剣奈の涙 ボク、女の子になるの?
時間は少しさかのぼる。藤倉が淡路島冒険の提案を行い、LCP IIの実射訓練を行った日(118話)の翌日のことである。
「剣奈、行くわよ」
今日は剣奈の健康診断の日である。千剣破は剣奈を連れて宝塚病院に向かった。
刺すような日差しが二人に降り注いだ。アスファルトには揺らめく陽炎が立ちのぼっていた。蝉の声がにぎやかに聞こえた。
千剣破は日傘をさしながら剣奈の手をぎゅっと握った。
高台から坂を下りると、朝の陽射しがさらに強くなった。セミの声が響く中、二人は宝塚病院への道を歩いていった。
剣奈は汗をぬぐいながら、母の歩調に合わせて歩いた。胸の奥には柔らかな不安が広がっていた。
やがて宝塚病院の建物が見えた。建物が近づくにつれ、剣奈の鼓動はドキドキ速くなった。
二人は病院の建物に入った。正面に受付があった。千剣破は剣奈と手をつないだまま歩いた。そして受付の女性に言った。
「すいません。戸籍訂正を行いたいので検診をお願いします。性別取り違えの訂正をお願いします」
「えっ?」
受付の女性が戸惑いの声を上げた。
「取り違えはうすうす知っていたのですが、つい放置してしまいました。この夏、お風呂でしっかりと確認しました。間違いなく女性の身体だと思いました。そうであれば第二次性徴が訪れる前に戸籍変更しておくべきと思いまして、今回、検診をお願いすることにしましたな」
千剣破が平然と言った。
「そ、そうですか。それではこちらにご記入お願いします」
一瞬呆然とした受付の女性である。しかしすぐにしゃきしゃきと対応を始めた。
「戸籍訂正のための健康診断ですね?まずこちらの問診票にご記入をお願いいたします。性別取り違えのご事情について、メモ欄にご記入いただけますか?」
千剣破は静かにうなずいた。そして剣奈と並んで受付脇の記入台に向かった。
問診票には氏名、生年月日、現住所、連絡先のほか、「現在の健康状態」「既往症」「ご希望の診断内容」などの記入欄があった。
千剣破は「男女取り違えにより戸籍訂正希望」と記入して、必要事項を記入していった。
「こちらお願いします」
千剣破が記入を終えて受付に問診票を提出した。受付の女性は内容を確認しながら丁寧に言った。
「ご記入、ありがとうございます。マイナカード、あるいは保険証をお願いします。戸籍訂正の場合は、産婦人科での染色体検査と身体検診が必要になります。しばらくお待ちください。担当医から説明いたします」
千剣破は剣奈と待合所でしばらく待っていた。千剣破は剣奈がうかつなことを言い出さないように、受付では口を開かないように言い聞かしていた。剣奈はスマホを見ながら時間を過ごした。
「久志本様、お待たせしました。こちらへどうぞ」
しばらくして千剣破と剣奈が呼ばれた。そして診察室に案内された。
診察室で産婦人科の医師がカルテをめくりながら尋ねた。
「内容、拝見しました。性別取り違えということで、戸籍訂正手続きですね。外性器の所見と染色体検査を行い、医学的証明書として書面を発行する形になります。問題がなければ、本日中に検査と診断を進めさせていただきます」
「よろしくお願いします」
「ではこちらへどうぞ」
「はい」
剣奈は看護師に連れられて更衣スペースに案内された。
「こちらで衣服を脱いで、検査着にお着替えください」
「はい」
剣奈は上着とズボンを脱ぎ、検査着を身に着けた。そして再び診察室に入室した。
医師がカルテに眼を落としながら言った。
「外性器の観察をさせていただきます。リラックスして、そのまま横になってください」
「はい」
剣奈はドキドキしながらベッドに横になった。カーテンが引かれた。剣奈からは何をしているのか全く見えなかった。剣奈は緊張しながらも、診察台で横になって指示に従った。
「それでは膝を立てて足を少し両側に開いてください。衣服をずらすので少しだけお尻を浮かしてください」
「はい」
医師は剣奈の衣服を少しずらし、剣奈のお腹にタオルをかぶせた。少しして衣服が戻された。
「はい、確認しました。では次に、染色体検査のため採血を行いますね。あちらにどうぞ」
剣奈は椅子に座らされた。看護師が新しい手袋をつけて、慣れた手つきで剣奈の腕をゴムバンドで固定した。
「アルコールのかぶれはありますか?」
「えっと、多分大丈夫と思います」
看護師が脱脂綿で剣奈の腕を拭いた。消毒された肌が少しひんやりとした。
「少しちくっとしますね」
「はい。んっ」
「指先にしびれはありませんか?」
「大丈夫です……」
剣奈の腕に注射針が刺された。血液が静かにカテーテルを通り、採血ホルダーに溜まっていった。
「採血終わりましたよ。お疲れさまでした」
看護師は優しい声で剣奈に告げた。注射針が抜かれ、絆創膏が貼られた。
看護師が声をかけた。
「身長と体重を測りますね。こちらへどうぞ」
診察室の一角に身長体重計が設置されていた。剣奈は靴を脱いで、体重計に乗った。
ピッ
身長測定バーが静かに降りてきて、剣奈の頭にこつんと当たって止まった。看護師が数値を読み取った。
「はい、身長は百二十五センチ、体重は二十二キロですね」
看護師が丁寧に数値をカルテに書き込んでいった。
「次は血圧を測ります。採血したのと別の腕を出してください」
椅子に座った剣奈は左腕を差し出した。剣奈の腕に、自動血圧計のカフが巻かれた。そしてシュポシュポと空気が入れられた。
ブイーン
機械が作動して数値が表示された。
「血圧は百十の六十七ですね」
看護師がカルテに丁寧に記入した。
「それでは問診をおこないます」
医師が優しく言った。
「まずは、今までの健康状態について教えてください。何か気になることはありますか?」
「特にありません。元気です」
「元気なのね。いいことだわ。睡眠の状態や食欲などはどう?」
「よく眠れていると思います。食欲はすごくあります」
「食欲があるのね?素晴らしいわ。身長百二十五センチ、体重二十二キロ、血圧は百十の六十七。とても健康的な数値です。特に心配することはありません」
剣奈は問診で緊張していたが、会話に特に問題はなく内心ほっとしていた。
「それでは、追加でいくつかお伺いしますね」
医師がカルテを見直しながら、優しく切り出した。
「ご自身が、今の性別とは違うと感じ始めたのは、いつ頃からでしたか?」
剣奈はどきりとした。胸がどきどきしてるのが自分でもわかった。
この質問の答えは、千剣破がしっかりと考え、剣奈に予行演習させていた。
「幼稚園のときから身体に違和感がありました」
「そのことで、生活の中で何か困ったことや、戸惑いがあったりしましたか?」
「はい。体育の時間の着替えや風呂でほかの男の子と一緒にいるのが嫌で……、なんだか自分はみんなと違うような感じがしてました」
「そうなのね。ご家族や身近な方に、その違和感を相談したことはありますか?」
「ずっと黙ってました。なんだか恥ずかしくて。でも……、今年の夏、帰省でお祖母ちゃんと一緒にお風呂に入ったんです。そしたらお祖母ちゃんが、じーーっとボクを見てました。翌日、東京からお母さんが来て、二人で真剣に話していたのを覚えています」
「ありがとう。よく話してくれましたね。今後も、「おかしいな」って思ったら、すぐに相談して構わないんですよ。もちろん病院にも、いつでも相談してください」
「はい」
医師は確認のため、落ち着いた声で続けた。
「現在、ご自分の体や性別に関して、強い不安や辛さを感じていますか?日常生活で支障を感じることはありませんか?」
「いいえ。特にありません。でも、お母さんから、身体が変わりはじめるから、今年の秋に転校した方がいいって薦められてます」
「剣奈ちゃんは男の子、女の子、どっちがいいの?」
「お母さんとよく話し合いました。ボク、女の子として生きていこうと思います」
医師はやわらかく微笑んだ。
「わかりました。本日お話ししていただいた内容と検査結果から、診断書を作成いたします。ほかに気になることや、質問はありますか?」
「大丈夫です。ありがとうございました」
「本日の結果と今後の手続きについて、検査結果が揃い次第、後日、説明いたします。戸籍訂正に必要な証明はその時、病院で発行できます」
「はい」
「なにか聞きたいことはありますか?」
「いいえ。大丈夫です」
「はい。お疲れさまでした。それでは待合室でお待ちください」
千剣破は黙ってうなずき、剣奈の肩に優しく手をかけた。
着替えを終えた剣奈は、千剣破とともに待合所に戻った。
受付で支払いを済ませながら事務員の女性が言った。
「結果は後日、証明書と一緒にお渡しします」
「ありがとうございました」
千剣破は礼を述べて剣奈とともに病院を出た。夏の日差しが強く二人に降り注いだ。剣奈は眩しげに太陽を見つめた。
「ボク、女の子になるの?」
剣奈は涙ぐんで千剣破を見あげた。
「クニちゃとずっと居たいならそれが一番なんでしょ?」
千剣破が静かに言った。剣奈がギュっと唇をかみしめた。
千剣破とて、もう少し猶予があった方がいいとは思うのだ。しかし男の子の身体でいると徐々に身体が朽ちていってしまうかもしれない(九十四話)。
剣奈が自分の体が朽ちていく様子を目の当たりにし、悲しい思いをさせることだけはどうしても避けたいと千剣破は思うのである。
(やっぱり手続きを速く進めた方がいいわ。それに……、女の子コミュニティはすごくデリケートだもの。早めに馴染んだ方がいいわ)
千剣破はギュっと剣奈を抱きしめた。




