26.社交界で妖精とうたわれるシルフィア嬢、今日も今日とて敬愛する義兄へ毒を盛る
【あらすじ】
美しいと評判の侯爵家令嬢シルフィアには、血のつながらない兄がいる。心から敬愛する義兄。お家のため避けられない縁談が迫ってくるなか、シルフィアは今日も義兄へ毒を盛る。
いわく、彼女のまわりは空気まで清らかなのだとか。
「シルフィア様、本日もお手紙がたくさん届いておりますよ」
「まあ、ありがとう。あとで確認しておくわ」
明るい廊下の一角。家令が差し出した手紙の束を、令嬢の横にいた侍女が受けとった。おそらく半分はお茶会や夜会への招待状で、もう半分がお近づきになりたい貴族や豪商たちからのラブレターだろう。
シルフィアは侯爵家のひとり娘だ。蝶よ花よとそれはもう大事に育てられた。同世代の令嬢のなかでも飛びぬけて美しく、16歳とは思えない落ち着きと上品なたたずまいから、社交界でささやかれる名はワーエンシュタインの妖精。周囲の人間が自然とかしずいてしまう雰囲気をもった貴族のご令嬢であった。
そんなシルフィアの瞳が少しさみしげに伏せられる。
「お兄さまはまだお帰りにならないのかしら」
「ハンス様でしたら、今日の正午ごろお着きになると聞き及んでおります」
「そう……」
シルフィアには血のつながらない兄がいる。名をハンスといい、かつて子宝に恵まれなかった侯爵夫妻が親戚筋から迎え入れた養子だった。その後夫妻は奇跡的にシルフィアを授かったのだが、ハンスもとても優秀だったため、ふたりそろって大事に育てられてきた。
シルフィアは窓の外へ視線を向ける。誰かを探すようなその様子に家令は思わず苦笑をもらしてしまう。
「お会いになるのが待ち遠しいですか?」
「……だってもうずっとお顔を見ていないのよ。七年前に学園の寄宿舎に入られて、やっと卒業されてまた一緒に暮らせると思ったら、今度は騎士になって忙しくされて」
避けているのかと思うくらい、ハンスは屋敷へ帰ってこない。シルフィアにはそのことがたまらなく寂しかった。誰よりも敬愛する義兄。彼はシルフィアが寂しいことを知っているのに、「すまない」と言って困ったようにほほ笑むだけだ。
「半年に一度は必ず帰って来られます。それは可愛い妹であるシルフィア様へ会うためだと、ハンス様はいつもおっしゃられているではありませんか」
シルフィアだってそう思っていたいけれど、会えない時間が多いとどうしてもイヤな方向に考えてしまうものだ。
ふと、遠くから馬のいななきが聞こえた気がした。はじけるように窓の方へ振り返ると、正門のあたりになにやらいくつか人影が見える。馬を預かる人に荷物を運ぶ人、その中に混じってひと際目立つ人物がいた。
「……お兄さま」
見間違えるはずがない。騎士服に身を包んだ凛々しい立ち姿。精悍な顔つき。長身なのもあって、誰よりも存在感を放っている。
「あっ、お嬢さま、走っては危のうございますよ」
侍女の言葉を背中ごしに聞きながら、シルフィアは玄関ホールへと急いだ。白いドレスのすそが可憐にゆれる。
「お帰りなさい、お兄さま」
「シルフィア」
出迎えた玄関ホールでシルフィアは義兄の胸にとびこんだ。幼い子どものようだと分かっていたけれど、嬉しさと喜びが勝つのだから仕方がない。六つも歳が離れた義兄は相変わらず大きくて、懐かしさで涙をにじませていると、いきなり視界が豹変した。ハンスはシルフィアを軽々と横抱きにしたかと思うと、その場でくるりと回ってみせたのだ。
「お、兄さま、重たいでしょうからお止めください」
「シルフィアには羽が生えているのかと思うほど軽いよ」
これでは自分が本当に子どものようだ。もう16歳のレディだというのに。床に下ろしてもらうとシルフィアはこほんと小さく咳払いをし、義兄と距離をとる。それから淑女らしくドレスをつまんでちょこんと頭を下げた。
「無事のお帰りでとても嬉しいです。外は寒かったでしょう? あとでぜひサロンへいらして。温かいお茶を淹れますわ」
ハンスと別れると、シルフィアは軽い足取りで自室へと向かった。そして侍女へ目配せをし、普段は隠してある秘密の扉へ手を伸ばす。元は非常時に逃げ隠れるための通路だったものだ。扉の奥は暗く、冷たく湿気を含んだ空気が漂っている。侍女からカンテラを受けとり、シルフィアはまっ暗な通路へひとり足を踏み入れた。
せまく暗い空間にコツコツと靴音が響く。目的の場所はそう遠くなく、しばらく歩くと通路の途中に重厚な扉が見えてくる。
ここはシルフィアの秘密の研究室だ。
少しばかり変わったものを調査・保管しているので、みんなを心配させないようひっそりと運営している。
ギィと音をたてて扉をあけるとツンとする薬品の匂いがした。
「お嬢さま、よいところに。先日手に入った魔毒キノコ5種についてのレポートを——」
シルフィアに気付いた男が勢いよく立ち上がる。白衣をまとった長身で痩せた青年だ。顔色はすこぶる悪いが声音からは機嫌のよさがうかがえる。
「ロベルト、お兄さまが帰っていらしたわ。この前完成したアレをだしてちょうだい」
「それはそれは。承知しました、すぐにお持ちいたします」
白衣の男はただちに身をひるがえし、部屋の奥から小さな小箱をもってきた。なかにあったのはガラス製の小さな保管容器がひとつ。E-12と手書きのラベルが貼ってあり、一見なにかの薬のようにも思える。これこそがシルフィアたちの研究の産物だった。
この世にはたくさんの毒がある。
植物の毒、生き物の毒、鉱石の毒。種類もさまざまで、口から摂取して害を及ぼすものもあれば、呼吸器を通して身を蝕むものもある。
さらにシルフィアが暮らすワーエンシュタイン領は《常闇の森》という巨大で不気味な森を内包しており、他所ではお目にかからないような珍しい毒性植物や生物が森に多数存在していた。
シルフィアはそれらを密かに収集し、調べている。
「お待たせいたしました、Eー12です。こちらを飲み物に三滴、これで常人ならば六十秒ほどで昏倒いたしますが……ふふっ」
ロベルトと呼ばれた白衣の男は怪しげに口角を上げる。差し出されたガラス容器の中身は無色透明のさらりとした液体だった。シルフィアはそれを丁寧に受け取ると白いハンカチで包み、サロンへ向かうべくただちに踵をかえす。義兄が待っているのだ。しかし研究室を去り際、シルフィアは立ち止まって振り向いた。
「戻ってきたらレポートを一番に読むわ、ロベルト。楽しみにしてる」
「……ありがたきお言葉」
◇
「シルフィアがなかなか結婚の話をさせてくれないと、叔父上が困っておられた」
サロンで再び顔を合わせると、義兄は困ったようにほほ笑んでそう言った。シルフィアの両親は揃って流行り病で亡くなってしまったため、現在は叔父にあたる人物が当主代理として取り仕切っていた。
「……わたしに結婚はまだ早いと思います」
「俺もそう思う。しかしきみは侯爵家の血を受け継いでいる唯一の姫だから、そうも言ってられないんだ。シルフィアの夫になりたいという男は多い。選ぶのは大変だろうが、俺も兄として精いっぱいの手伝いをするつもりだ」
「お兄さまだって侯爵家の一員で、とても立派な方だわ。後継者というならお兄さまが——」
「俺はいいんだよ」
その言葉にぎゅっと胸が苦しくなる。
ハンスに婚約を申し込む人たちが多いことをシルフィアは知っている。整った容姿に高い家格、おまけに人柄もよいので「ぜひうちの娘と」という人が後を絶たないのだ。しかし義兄はかたくなに縁談を断る。そんな話を聞くたびに「なぜ」という気持ちと「よかった」という安堵がごちゃ混ぜになり、シルフィアは自分を嫌悪するのだ。
複雑な内心を隠しつつ、ティーポットからカップへお茶をそそぐ。ハンスへ渡すほうのカップにはあらかじめアレを三滴ほど垂らしてあった。強い毒性を持つ毒だ。万が一シルフィアが口にしてしまったら無事ではいられない。さすがに無臭とはいかず、香りの強いものでごまかす必要があるが、この特別ブレンドの紅茶に混ぜれば判別はほぼ不可能だ。いれおわったお茶をハンスへ差し出し、シルフィアも席に着いた。
義兄はカップを持ち上げると優雅な手つきで自分の元へ近づける。口をつける直前に一瞬動きが止まった気がしたが、次の瞬間には何もなかったようにカップのお茶を口にふくむ。
「お兄さま、おいしい?」
にこやかに問うシルフィア。側からみるその姿は妖精のように神秘的で美しく、そして邪気がない。ハンスの目がわずかに細められた。灰色がかった青い瞳はいたって平静で、しかしどこか嵐のような激しさを秘めている気がする。この眼差しにはどういう意味が込められているのだろうか。シルフィアにはわからない。わからないけれど、とても引き寄せられる。
「……もちろん。シルフィアがいれるお茶は格別だ」
普段は見せない妖艶な雰囲気をまとい、ハンスは静かにほほ笑んだ。
六十秒たっても三百秒たってもハンスが毒に倒れることはなく、慌てるような扉のノック音とともに、ふたりだけのお茶会は終了したのであった。




