第二十八話 格上殺し(1)
何処までも続くような闇を引き裂くように峻烈な青い光が進む。それは木々が密集している辺りの中空でふんわりと滞空すると一層と強い輝きを放った。突然現れた青の色彩を帯びた輝きに驚いたのか、驚愕と狼狽の声が暗闇の奥から響き、すぐにそれは抑えられたざわめきに変わっていった。
ロルフは照らされた闇の奥に目を凝らす。発光弾の特徴的な刺激臭が微かにロルフの元まで漂ってきていた。そんな中、明かりに照らされたその先にまだ狼狽から立ち直り切れていない獣鬼達の姿が映る。醜悪な獣の顔。ヒューマンの子供ほどの身長。人型の魔物としては最下級と云っても良い獣鬼の特徴はそのままだが、手に持っている武器は様々だ。その中には原始的だが金属製のものも見られる。リタの言葉で判っていた事だが、ロルフは微かに眉を顰めた。
「行くぞっ!」
駆ける。
ロルフを先頭として、その後ろにリタとイーナが続く。マウリだけは三人とは僅かに距離を取って先行していた。獣鬼達が潜んでいる密林まではそこまでの距離は無い。そして一度接近してしまえば最も厄介な投石は使えない。だが、獣鬼の立て直しは予想以上に早かった。
「きぃぁ!」
悲鳴とも怒声ともつかぬ金切り声を上げて、獣鬼達が突っ込んでくる。武装は石器が中心だ。木製の柄と石の穂を備えた槍や石斧などだ。そしてその後列では、投石紐を振り回している獣鬼の一群が見える。
「ちぃっ!」
舌打ちと共にロルフが左手に握ったカイトシールドで、真っ正面から叩き付けられてきた石斧の一撃を右に流す。綺麗に受け流すと云う訳にはいかなかったが、弾き返すようにして相手の体勢を崩す事は出来た。隙が出来た顎へ、引き付けていた右手の小盾を正拳のようにして叩き付ける。獣鬼が悲鳴と共に仰け反り、一歩後ろへと後ずさった。
邪魔だ。ロルフは獣鬼と仲間に意識をやりながら、目の前の獣鬼を据わった瞳で睨みやった。右横では、リタが斧槍によって獣鬼のだらしなく膨らんだ腹を斬り払った所だった。リタは間髪入れずに、続く刺突で二匹目の獣鬼の喉元を刺し貫く。吹き出した血が人工の青白い光に照らされ、まるで闇夜を凝縮したような色合いを帯びて見えた。ならばそれを頬と云わず、胸と云わず、上半身全体に受けたリタは呪いを掛けられたようなものか。益体もない思考がロルフの頭を一瞬巡る。
「はっ!」
そんな時、声がした。
自らの暢気な思考を嘲り吐き捨てたロルフの声ではない。それはもっと澄んだ響きを持っていた。――イーナだ。
獣鬼の懐に入り込み、脇腹から臓器めがけて一気に斬り裂き、返す刃でその首筋を斬り裂いている。血が噴き出している。距離が近い分、返り血はリタより更に激しかった。
夜の冷えて澄んだ空気が、血と臓物、そして獣臭に侵されていく。獣鬼の叫び声が響き渡る。微かに湿り気を帯びた土が血で染まり、不快な生温かさを伝えてきた。
「おい、こいつら、何かの精神干渉を受けてるぞ」
横合いにやって来たイーナが低く抑制の取れた声で告げる。その白皙の肌は血で汚れ、美しい金髪の長髪も顔と同じく粘ついた血糊がこびり付いていた。だがその澄んだ青い瞳だけは変わらない。イーナはその双眸を細め、厳しい表情で獣鬼達を睨んでいる。長い髪から飛び出た耳も、イーナの戦意と緊張を示すように真っ直ぐに張っている。
「……やっぱり変異体の眷属か。本命の場所は判るか?」
「いや、見えない」
「じゃあ状況は同じだ。――突っ込むぞ!」
リタにも聞こえるように大きめの声で告げて、ロルフは再び獣鬼の方へと突っ込む。リタも無言で一つ頷き後に続いた。変異体と一言で云っても様々なタイプがいる。そして獣鬼という魔物にしてもそれは大して変わらない。
基本的に全ての存在は魔素を吸収すれば位階が上がり、力を増す。
それは種族に依らない。
ヒューマンであれ、エルフであれ、そして獣鬼のような魔物であれ、例外はない。
だが魔素を吸収する事による変化というものは、多面に渡り、行き過ぎた魔素の吸収は決して良い事ばかりではない。だが同時に、魔素の吸収がそれまで使えなかった『力』の使用を可能とする事も事実だ。
獣鬼のような低級の魔物にしたところで、この法則は当て嵌まる。魔素を吸収していけば上位の魔物より厄介な事になる事も充分に考えられる。その最も判りやすい例が変異体だ。何らかの要因によって本来の種族の位階を飛び越えたもの。その性質上、それらは特殊な力を持つ事も多く、その中には同種の魔物を中心にある種の支配力を発揮するものも存在する。更にこの中の一部には、辺り一帯を縄張りとし、地脈からの魔力をある程度操る事も可能とする存在――俗に『主』などと呼ばれる存在へと成り上がる。
今回の相手はまだそこまでいかないが、少なくともその段階を目指して動いているらしい。
厄介と云えば厄介とも云える。だが所詮は獣鬼だ。ロルフは向かってきた獣鬼の脳天に右手に握った小盾を叩き付ける。特注で作った小盾は盾と云うよりも寧ろ鈍器に近い。人間に比べても頑丈な獣鬼の頭蓋が完璧に砕け、中の脳髄ごと完璧に潰された。
やはり、雑魚の獣鬼はそれほど怖くはない。
戦術のようなものもやって来た。確かに厄介だ。だが一匹の脅威度が低い。爪猿の時に感じた一つ間違えば死人が出るような恐怖、それどころか全員あそこで死んでいたかも知れない恐怖。突如足下が無くなったような、そんな不安。そう云ったものを今は感じない。
獣鬼達がそこまで戦術的に洗練されている訳でもない。個体の能力が高い訳でもない。これならば、四人の中の誰にしろある程度対応できる。それがあの爪猿達を相手にした時とは大きく違う。
ならば問題は――。
ロルフは眼前の獣鬼の相手をしながら視線を辺りに巡らせる。闇夜の中、最初の頃に比べて僅かに小さくなった青白い輝きに照らされ、獣鬼達が蠢いているのが見える。そしてすぐ近くにイーナが、やや離れた場所にリタの姿が見える。マウリの姿は見えない。一撃離脱が主な戦法のマウリは、このように遊撃として戦う事が多い。それはある意味で予定通りと云える。問題はない。
問題なのは、この獣鬼の集団を統率している個体が見えないと云う事だ。
居ない筈がない。変異体そのものがいなくても、現場の指揮を任されている個体が必ず居る筈だ。確かに高位の存在の中には遠く離れた場所からその場にいるように指揮を執ることが出来るような存在もいるが、この変異体がそのような階梯に辿り着いているとは考えられない。
「指示出している奴、判るかっ!?」
カイトシールドを使い、押し退けるようにして獣鬼を弾き飛ばす。空いた空間を鈍い風切り音と共に投石が襲う。防ぐのは難しくない。だがどうしても歩みは遅くなる。中々距離が詰められない。
「判らないっ!」
返答と共に、リタが薙ぎ払うようにして斧槍を一閃。獣鬼がまた一匹腹を割かれ、地に伏す。流石に疲労したのか、リタが肩で息をする。リタの周辺には獣鬼は残っていない。だからほっと一息、と云ったところだったのだろう、その隙を投石が襲う。対応が疾い。
「リタっ!」
ロルフに出来たのは警告の声を上げる事だけだった。それが功を奏したのか、それともリタの実力か、大きく横に飛び退きながら斧槍を振るう事で殆どの投石をリタは防いだ。
「……?」
それと同時に空気がざわめいた。獣鬼達の間に動揺が走っているように見える。リタが投石を防いだ事による動揺、と云うには余りに大きすぎるように思えた。
「……なんかあったか?」
「さあ」
イーナの呟きにロルフは簡潔に言葉を返す。ロルフ自身何が起こったかは判らなかった。だが可能性自体は幾つもない。そしてどの可能性であっても取るべき選択肢など大して変わらない。
「今だっ!」
ロルフは全力でカイトシールドを体当たりのようにして叩き付ける。獣鬼に与える負傷よりも相手を弾き飛ばす事に重点を置いた一撃だ。元々浮き足立っていた獣鬼はそのまま大きく後ろへ弾き飛ばされた。
「イーナは俺の右に! リタはその間!」
獣鬼が密集しているような状況では斧槍は使いにくい。それならイーナの鎌という武器の方がマシだろう。元々農具などにも使われる鎌だが、イーナの物はそれほど上質とは云えないが純粋な戦闘用だ。獣鬼の骨くらい簡単に切断する。
「しぃっ!」
中心にいるリタが斧槍を振るい、道を切り開く。ロルフが左からの獣鬼をカイトシールドで押し退け、中心にいる獣鬼を右手に持った小盾で牽制する。そして右から来る獣鬼はイーナがその鎖鎌で捌いていった。
「…………」
ロルフは視界の端のイーナへ意識を向ける。元々イーナは徒党の中の立ち位置で云えば、探索などを中心とする役割だ。戦闘そのものは余り訓練を積んでいない。このように敵が密集しているところへ突撃などと云うのは、どちらかと云えば苦手分野に入る。しかも武器もそれほど敵の突進を止めるのに向いているものとは言い難く、いざという時の為の援護も現状では難しい。
獣鬼の陣はもうそれほど残っていない。もう少しで抜ける。後はこの場を些少の損耗で通り抜ける事が出来れば――。
「……っ!」
そんな事を考えていたロルフの耳に苦悶の声が届く。イーナのものだった。見れば左手を庇うように動いている。石斧の一撃を腕に受けたようだった。鎖で一応は防御したのか、幸いな事に重い怪我では無さそうだ。だが動きに支障が出る事は否めない。イーナに負傷を与えた獣鬼が再びその石斧を振り上げる。イーナの鎌は他の獣鬼へと突き刺さったままだ。ロルフでは距離が遠い。援護は無理だ。
「ちっ」
反応したのはリタだった。舌打ちと共に石斧を振り上げた獣鬼へ向かって腰に差したナイフを抜きざまに投擲する。狙いは過たず、ナイフは獣鬼の胴体へと突き刺さった。それだけでは獣鬼を仕留める事は出来ない。だが怯ませるには充分だった。イーナは顔を苦痛に歪めながらも鎌を力尽くで獣鬼から引き抜き、駆け出す。
いつの間にか、投石は止んでいた。発光弾の青白い光も大分小さくなっていた。立ち塞がる獣鬼たちも殆どいない。
ロルフ達は発光弾の明かりが照らすほんの僅かな空間を走り抜けた。時折風が吹いてきた。少し肌寒いほどの風だ。だが空気はどこか生温かく、同時に生臭かった。リタが身体についた返り血を乱暴に腕で拭いながらも、落ちきらない事に不快な表情をしているのがロルフの視界の端に映る。イーナも大して変わらない。苦痛に僅かに表情を歪めているが、それよりもその不快さの方が大きそうな程だ。
性別の所為だろうか、それとも盾で大分返り血を防げたからだろうか、ロルフは返り血についてはそれほど不快ではなかった。寧ろ自らが冒険者だという妙な実感が湧いてきて、ほんの僅かだが心地よさのようなものすら感じる程だ。
「はっ」
馬鹿らしい、とロルフはほんの僅か吐き捨てるような笑みを零す。そんな事で経験者ぶるのは如何にも素人臭いではないか。みっともないのにも程がある。
イーナが僅かな不審と共にロルフを窺う。それに何でもないと返しながら、ロルフは前方へと視線をやった。何とかまだ発光弾の明かりが届いているぎりぎりの場所に、全身を返り血に染めたマウリがロルフ達を待っているのが見えた。




