第十八話 初めての迷宮探索(6)
地面に降り立っていた爪猿が、二度三度と左右に歩く。近付くでもなく遠ざかるでもなく、一定の距離を保ちながらゆったりとした歩調で。だがその琥珀色の瞳は、一瞬たりともロルフ達から離れる事はなかった。
「相手の数は恐らく五匹か六匹。場所は俺には判らん。――そっちは?」
爪猿に視線を向けながらも、周りにも警戒を向ける。だが何となくその存在は感じ取れるのだが、はっきりとした場所はロルフには見破れなかった。それは他の三人も同じだったのだろう。それぞれ否定の言葉が返ってくる。
「イーナ」
後ろにいるイーナへ向かって端的な言葉を投げる。それだけで充分意味は通じたのだろう、僅かな沈黙の後、応えが返ってくる。
「……目の前にいる奴に限って言えば位階は3の上。属性に特別な偏りは見受けられない。ギルドの知識と合わせると、使ってくるスキルは【隠身】と【軽業】、それに【反撃】に【突撃】くらいだ」
イーナの口調は厳しい。そしてそれを聞いたロルフの顔にも自然と厳しいものが浮かんだ。
「ははっ……変異体じゃなかったのは、まあ不幸中の幸いって云えるのかな」
そんな風に笑うリタの顔もどこか引きつっている。
位階が3の上という事は、通常の魔物としてはこの区画の中では最高位だ。位階だけで判別できる事ではないとはいえ、厄介な事には違いなかった。特にこの爪猿という魔物は、この位階の魔物の中でも特にバランスが取れた能力をしている。それ故に駆け出しの冒険者の間では、ある意味災厄扱いされていると云っても過言ではない
「ちっ、無理して攻めてはこないか」
周りには木が生い茂っている。相手はその木を自由自在に飛び回る事が出来る。そして上空から不意を打っての致命の一撃。躱すのは至難だ。そしてこのまま睨み合いを続けていけば、先に耐えられなくなるのはどう考えても此方の方だ。ならば――。
「俺が【挑発】で何とかあいつをもう一度突っ込ませてみる。仕留めるのはリタかイーナに任せた。マウリはいざという時の援護を」
ロルフの言葉に三人がそれぞれ肯定の返事を返す。それを受けてロルフは武器の間合いからはやや外れた場所で様子を窺っている爪猿に【挑発】のスキルを行使した。
【挑発】とは、相手の不愉快になる魔力をぶつける事によって、相手を苛立たせるスキルだ。鍛え上げていく事で、自分以外の相手に攻撃をする時に様々な妨害を掛けるような事も出来るようになる。だがロルフの挑発の練度はまだ1に過ぎない。
「…………」
爪猿がその眉をぴくりと震わせた。大きな琥珀色の瞳に苛立たしげなものが浮かび、獲物を見定める目でロルフの事を射抜くように見詰める。しきりに左右に動いていた動きも止まり、その場に静止する。
「……っ」
だが動かない。冷静さを失わせ、此方に向かってこさせる事は出来なかった。そんな中、先に動いたのは別の個体の爪猿だった。狙いは――。
「ふっ!」
ロルフの後方から鋭い呼気が聞こえる。それと同時に何かが枝を蹴り、葉が擦れる音が辺りに響く。ロルフの視線が思わず一瞬後ろへ向いた。視界には右横から二匹の爪猿に襲われているマウリの姿があった。その瞬間、ロルフの脳裏に様々なものが駆け巡った。後悔。戦術。恐怖。だがそんなものに耽溺するような余裕はなかった。
「ロルフっ!」
注意を喚起する声が飛ぶ。
それと同時に姿を現していた爪猿が駆けた。狙いは先程不快な挑発を行ってきたロルフだ。地を這うようにして、爪猿は駆ける。疾い。そしてそれ以上に、左右に小刻みに動くその動きは非常に予測が難しい。ロルフは腰を低く落とし、左手に持ったカイトシールドを前方へ差し出すようにして構えた。
だがロルフの持つカイトシールドは、下端が尖った形になっている盾だ。叩き付けるのには丁度良いが、極端に低い高さへの攻撃を防ぐのには向いていない。かと云って、横向きにするなどして極端に体勢を低くしてしまえば、首筋などの急所を晒す事になる。盾をよじ登られ喉を掻ききられるなどと云う事になったら最悪だ。
一人だったならば、その危険も甘受しなくてはならなかっただろう。どこかで賭けに出る必要があっただろう。
――だが今のロルフは独りではない。
「しっ!」
ロルフはタイミングを見計らって、カイトシールドの下部を爪猿の頭上から叩き付ける。狙いは爪猿の頭上よりも僅かに右横にずれた場所だ。当然の如く、爪猿はその一撃を避ける。頭上に目が付いているのか、視線を動かしもしない。小刻みな足捌きで横へと飛び、次のステップでロルフの足下へと飛び込んでくる。上半身はまだ右手に構えられた小盾が守っている。だからだろう、爪猿が代わりに狙ったのはロルフの右足、その足首だった。次の瞬間、甲高く厭らしい爪猿の鳴き声と共に、ロルフの太腿から足首辺り鋭い衝撃が走る。
何の防具も装備していなければ、少なくとも歩行は困難になっていただろう。だがそこはロルフの身体の中で念入りに最も念入りに守られている場所だと云って良い。勢いをつけた【突撃】でもない攻撃で打ち破れるほど、甘くはない。
金属の固い感触に、攻撃が思う通りにいかない事に気が付いた爪猿の瞳に苛立ちが浮かび――そして倒れた。悲鳴、というには短すぎる、すぐに掻き消えた鳴き声を残し、爪猿の頭が弾き飛ばされたように後ろへぐらつく。そのぐらつきは全身に回っていき、まるで尻餅をつくように倒れ込んだ。
そんな爪猿の額から、ゆったりと黒い小物体が自らの主の元へと引き上げていく。イーナの鎖分銅だ。爪猿の額に叩き付けられた視認すら難しい行きに比べて、その動きはゆったりとしており、まるで何がそれをなしたのか見せびらかしているようでもあった。その一撃は見た目に比べれば充分な破壊力を秘めたものだったが、爪猿を仕留めるには足りない。
爪猿はふらふらとしつつも、まだ戦闘力を完全には失っていない。横目で確認すれば、リタはマウリの援護に行っているようだ。この場にはいない。ならばロルフがやるしかない。
鋭い呼気と共に、カイトシールドの下端を爪猿の首辺りを狙って叩き付ける。頸椎のへし折れた感触が盾を通じて伝わってくる。爪猿は口元からどろりと粘着質な血を吐き出しその場に力なく倒れ込んだ。
まず一匹。
軽く息を吐き、体内に溜まった熱を排出する。だがすぐに我に返った。
――リタとマウリはっ!?
焦りと共にロルフは後ろを振り返る。そして思わず眉を顰めた。四匹の爪猿が視界に映ったのだ。最初マウリへ向かっていった爪猿は二匹。二匹、増えている。リタが援護に入っているが、形勢は不利だ。二人とも身体のあちこちに傷が見える。特に防御を受け持っているマウリはかなり酷い。一刻も早く援護に入らなくては――。
「まだだっ!」
ロルフが援護の為にマウリ達へ向かい駆け出そうと、一歩踏み出した正にその時だった。声がした。イーナの声だ。視線を向ければ、イーナは警戒と共にマウリ達とは反対の方向を鋭い眼差しで睨んでいる。
釣られるようにして、ロルフも視線をそちらへと向けた。そこには、一匹の爪猿がこれ見よがしに樹の上から姿を現している。丁度挟み撃ちにされている形だ。ロルフの顔に愁眉と焦燥の色が浮かぶ。
「ききぃっ!」
それが判ったのか、樹上の爪猿が顔を歪ませ鳴き声を上げた。甲高い耳障りな声だ。それはロルフ達を嘲弄し、挑発しているようでもあった。
「……っ」
後ろから、リタの押し殺した苦悶の声が聞こえてくる。そして断続的に聞こえる戦闘音。イーナが指示を求めるようにロルフの事を見ているのが、視界の端に映る。そしてそんなロルフの視界の正面には、口を大きく歪ませた爪猿の顔が映っている。
……どうするっ?
歯噛みしつつ、ロルフは思考を巡らす。あの正面の爪猿を仕留めるには時間が掛かる。かといって無視しておく訳にもいかない。イーナだけで爪猿を相手させるのには不安が残る。爪猿の【突撃】を凌ぎきれる技量は、恐らくイーナには無い。ならば――。
「リタっ! 交代だ!」
イーナ以外の誰でも、爪猿一匹を抑えておく事くらいは出来る。ならばここにロルフが居なくてはならない理由はない。中距離においては最も決定力に長けるが、懐に潜り込まれると脆いリタが、ここを抑えておくべきだ。
肩越しに視線を向けると、リタが頷くのが見えた。その太腿と上腕に傷が見える。致命傷では無いが、軽い怪我ではない。まだ血も止まっていないようだ。
ロルフはイーナと視線を交わし合う。戦闘中に魔物と戦う相手を変更する、俗にスイッチなどと呼ばれている技法は、それほど簡単なものではない。タイミングを逸してしまえば、戦線そのものの崩壊を招きかねない。それ故にその時には細心の注意が必要となる。じりじりとロルフは後ろのマウリ達との距離を詰めていく。無論、後ろにいる爪猿からの不意打ちにも、前にいる爪猿の樹上からの突撃にも注意を払う必要がある。
――今っ!
それはほぼ同時だった。リタが大振りの横薙ぎを放った後に、ロルフの方へ駆け寄る。マウリが注意を引き付けるように強引な攻めを見せる。イーナが緊張と共に立ち位置を調節する。そしてロルフがマウリが相手をしていた爪猿の一匹へ向かって駆け出す。
後ろが気になった。樹上にいたあの爪猿の行動が気になった。突っ込んでくるのか、それとも様子見か。
突っ込んできた時、リタは間に合うのか、凌ぎきれるのか。イーナは無事なのか。
様々な疑問が浮かんで消える。だがそんな事を気にしている余裕はない。ロルフは腰を深く落とし、カイトシールドを横にする形で爪猿に叩き付ける。浅い。だが隙は作れた。その隙に包囲を抜け出し、マウリがロルフの隣へとやって来た。
「大丈夫か?」
あちこちから血を流しているマウリに、思わずといった感じでロルフは問い掛ける。
「……余裕」
返ってきたのはそんな言葉だった。
強がりにも似たそんな応えに、ロルフは口元に一瞬だけほんの僅かな笑みを浮かべた。
「俺が何とかシールドバッシュか何かで相手を怯ませる。その隙を仕留める。マウリは援護を頼む」
結局の所、この四人の中でロルフが最も守備力に優れている。レンジャーであるイーナは兎も角として、戦士であるリタとマウリも純粋な守備力で云えばそれほどある方ではない。ならば必然的に最も危険な場所にはロルフがいるのが相応しい。
【挑発】のスキルと共に、ロルフは突っ込む。相手は四匹。離れた場所に、もう一匹。結局の所、まだ一匹しか仕留められていない。なのに此方の負傷は軽くはない。このまま時間が過ぎれば不利だ。そう考えてのロルフの行動。決して間違ったものでは無かった。だが――。
「なっ!?」
ロルフの口から驚愕の声が漏れた。誰も挑発のスキルに引っ掛からない。それどころかロルフの方を見向きもせずに、爪猿たちが散開する。驚愕の為か、それとも単純な実力不足か、ロルフはその動きに対応する事が出来ない。四匹が四匹とも、ロルフの横を擦り抜けていく。嘲るような、甲高く耳障りな鳴き声が唱和するように響く。まるで鼓膜を伝わり脳髄に浸透してくるようだ。不吉な予感に、ロルフの胸の奥が寒くなった。
それと同時、勝機と見たのか、樹上に残っていた最後の一匹の爪猿が勢いを付けて突っ込んでくる。狙いはリタだ。ロルフの横を抜けた爪猿も背後から一匹、リタに狙いを定めている。前後からの挟み撃ち、防御力に欠けるリタでは不利は否めない。
がりっ。
そんな音が聞こえた気がした。飴玉を強引に噛み潰したような、そんな音だ。決して大きな音ではなかった。だがやけに耳に残った。
「はぁっ!」
次の瞬間、鋭い呼気が響いた。リタのものだった。普段の雰囲気とは一線を画すような鋭く厳しい眼差しと共に放たれた一撃。斧槍の斧の部分を薙ぎ払うようにして、放つ。正面から突撃してきた個体、そして背後から襲い掛かってきた個体。その二匹を独楽のように回転しつつ放った一撃で、割断する。
――【強打】。
スキルとしては有り触れたものだ。だがリタは本来の【強打】に、【増強】、つまりは特殊な秘薬を内服する事によって一時的に自らの力を底上げした分も乗せる事が出来る。
それ故に認められた練度4だ。
本来、スキルの練度は位階よりも一つ上が精々。どんなに力を洗練させても、単純な力の総量が足りなければ練度を高める事は出来ないのだ。それを考えれば位階がまだ2に過ぎないリタの【強打4】というのは、例外とすら云える。
リタの一閃は、正にそんな例外扱いが相応しいと思えるような一撃だった。
「あはっ」
リタが、艶やかに笑った。大きな金色の瞳を輝かせ、汗ばむ肌に銀糸の髪を張り付かせ――。
「しぃっ!」
その時、既にイーナとイーナに向かっていた爪猿は動いていた。本来なら、この両者の接触は爪猿の方が圧倒的に有利だ。まともにぶつかればイーナの負傷は免れなかっただろう。だが、偶然が味方した。リタの一撃に気を取られたのか、一瞬だけ爪猿の動きが止まる。そしてそれが丁度、イーナの乾坤一擲の一撃の瞬間と合わさった。イーナの右腕が振るわれ、鎌の刃が完璧な軌道を描いた。
「……ははっ」
信じられないといった顔で、イーナが笑う。爪猿の喉元には鎌の刃が深く突き刺さっていた。
これで四匹目。
残りは二匹だ。
ロルフは視線をマウリへと向かっていった二匹の方へと滑らす。一匹目は弾き返されたのか、地面の上でたゆたっているようにふらついていた。だが残り一匹がマウリの太腿部分へ斬撃を浴びせたようだ。その長く鋭い爪が太腿へ突き刺さっている。そんな爪猿の頭部にしなやかにマウリの両手が伸びた。
――こきっ。
間が抜けたようにも聞こえる音が響き、爪猿の首があっさりとへし折られる。命の灯火が吹き消されたかのような鮮やかな手並みだった。糸が切れた人形のように爪猿は地面へと崩れ落ちた。
残りはふらふらになった一匹だけ。
ロルフがカイトシールドを叩き付ける事で、片は付いた。
最後の方でロルフが成功率六割の挑発に四連続失敗し、五割あった駆け抜けの阻止にも四連続失敗した時はどうしようかと思いました。
イーナのクリティカルが無いと結構危なかった気が。。。




