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甘く優しい世界で生きるには  作者: 深/深木
本編(完結済み)
246/262

第二百四十六話 サナーレ・テラペイア視点

 私が気を失ってからそんなに時間は経っていないようだった。

 ぼやける視界に映ったのは、蔓が走ったと思わしき抉れた地面と散らばる細切れになった魔獣の断片、ハルバートを構えるシオンさんと対峙しているゼーゲン兄さんの背中だった。

 目覚めるなり一気に吸い込んだ空気の所為でゴホゴホ咳き込んだ私にシオンさんが一瞬視線をくれた瞬間、ゼーゲン兄さんが指に挟み持っていた薬瓶の一つを魔獣の断片が散ばる方へ投げる。しかしその薬瓶が目標に届くことはなく。


「【薙ぎ払い】!」


 吠えたシオンさんが放ったスキルの風圧におされたのか宙にあった薬瓶は吹き飛び、ゼノス兄さんの横にあった岩に当たり砕け、魔法薬と思わしき液体が土にしみ込んでいく。それによって岩陰に生えていた苔が大きく成長し一気に生息域を広げていったところを見るに、栄養剤か成長促進剤みたいだ。


「さっきはそれで復活した魔獣使って上手いこと逃げられたが、同じ手はくわねぇよ。てめぇ自身で来い」

「武器を振り回すしか能のないくせに……」


 散らばった魔獣の断片を示し告げるシオンさんに舌打ちを零すゼーゲン兄さんをぼんやり眺めながら呼吸を整えていると、少しずつ回り始めた頭にリェチやレオの兄貴の姿が浮かぶ。


 ――そうだ。リェチと兄貴は!?


 二人の存在を思い出した私は首に緩く巻き付いていた蔓を投げ捨て、慌てて立ち上がった。

 気を失う前、リェチと兄貴は私を助けようと走りだしていた。こうして助かったってことは二人がこの蔓の本体を倒してくれたんだろうけど、一体どこに居るんだろう。

 グルッと辺りを見渡しても荒れた大地と木々があるだけで、森の中は雨の所為でよく見えない。森の中から戦っているような音は聞こえないけど、もしかしたら首を絞めていた魔獣だけでなく沢山の魔獣と対峙しているのかもしれないなんて不安が胸を過った。

 ゼーゲン兄さんとの再会や思い出した温かな日々、そして過去に殺されかけた時の記憶、今は敵対関係であり、戦わないと逃げることもままならない状況だということ。今の今まで私がゼーゲン兄さんを思い出さなかった理由と、すべてを知っていただろうドイルお兄様の考え。

 思うところも多く浮かんでくる様々な感情を上手く飲み込むことができなくて、頭の中はぐちゃぐちゃだ。自分がどうしたいのか、どうするのが正しいのかもわからない。

 でも、リェチが困ってるなら行かなくちゃ。

 私ばっかり助けられ守られるなんてごめんだし、沢山の秘密を抱えていた片割れには文句の一つでも言ってやらないといけないからね。

 兄貴達は無事なのかという不安や心配、なにもかも忘れていた自身への憤りと後悔、それから全部一人で背負おうとした片割れや密やかに守ってくれようとしていたドイルお兄様への不満と怒りと悲しみを胸に、私は生い茂る草木の中から蔓の続きを探す。


 リェチは兄さんのことを覚えてた。そしてきっと、ずっと前からゼーゲン兄さんが犯罪者へと身を落としていることを知り、こうして戦うことになるって覚悟していた。


 たぶん、ドイルお兄様と炎槍の勇者様の戦いを見ていた時には、もう――。


 思い浮かぶのは、真剣な表情でどこか遠くを見つめていたリェチの顔。

 あの頃に起こった出来事を振り返ると、色々と辻褄が合う。婚約式のために登城する前に行われていた実習でドイルお兄様が捕まえた悪質な薬師というのがゼーゲン兄さんで、その一件にシオンさんが所属する傭兵団が関わっていたのだろう。ゼーゲン兄さんに利用されたとシオンさんは言っていたからね。

 そしてその時、ドイルお兄様はゼーゲン兄さんと私とリェチの関係や私達兄妹がどんな状況であるのかを知った。

 ここからは想像だけど、ゼーゲン兄さんが見過ごすことのできない犯罪者であったために、私を守りたいとでも言ったリェチの言葉を優先することにしたのだろう。

 それできっと私に思い出させないまま、すべてを片づけようとしていた。

 なんて、勝手な。ドイルお兄様もリェチも、兄さんなんて存在しなかったように振る舞っていた両親や村の人達も私の気持ちなんて聞かずに勝手に決めて動いて、それで喜ぶとでも思っていたのだろうか。

 

 なんで教えてくれなかったの。

 なんで相談してくれなかったの。

 私はそんなに頼りなかった?

 私じゃ一緒に悩むこともできないの?

 

 そんな言葉が頭の中を巡り、私一人がのけ者だったという事実に苛だって、一緒に戦うのではなく守る相手だと認識されていたことが悲しくて、なにもできないのだと言われた気がして悔しい。


 ――でも、そうさせたのは私だ。


 ゼーゲン兄さんに拒絶されたことが辛くて信じたくなくて、忘れたいと願った私の弱さが皆の口を噤ませ、片割れ一人にすべてを背負わせ、ドイルお兄様に要らない負担を与えた。 

 そんな自分が情けなくて、泣きたい気分だった。

 あの時、私が激昂するゼーゲン兄さんに怯むことなく引き止めることができていたらこんなことにはならなかったと思うと、なおさら。

 募る後悔にギリッと歯を食いしばりながら見つけた蔓を両手で引っ張り、霞む目で魔獣の本体がいる方角を確認すれば木々に紛れて緑がかった黒髪と濃い目の金髪が近づいてきているのが見えて、ポロリと涙が一粒落ちる。

 二人が無事で、よかった。


「サナ! 大丈夫!?」

「頭痛や吐き気、手足のしびれはないか?」


 私に気が付き駆け寄ってきたリェチと戻るなりすぐさま問診を始める兄貴の姿は先ほどよりもボロボロで、泣きたくなった。でも今はそんな状況じゃないし、私にそんな資格はないから、込み上げる涙や嗚咽をグッと堪えて二人にお礼を告げる。


「大丈夫。異常もないです。助けてくれて、ありがとう」

「お前の判断を信じるが、酸欠はあぶねぇからなんか異変を感じたら言えよ」

「はい」

「なんかあっても対応できるように準備しておけ。お前もだぞ、リェチ」


 兄貴の言葉に頷き、新たな薬瓶を数本取り出す。そのついでに近くにあった蔓に例の魔法薬をかけておく。先程のシオンさんとゼーゲン兄さんのやり取りを思い出すに、この魔獣は蔓の断片があれば再生可能みたいだからね。

 そんな私の顔色を同じく準備を終えたリェチが窺うように覗き込む。


「サナ。その……」


 見慣れたに浮かぶのは黙っていた罪悪感と心配、しかしなんと声をかけるべきかわからないようでリェチはもごもごと言い淀む。

 兄貴はそんな私達を見てもなにも言わなかった。察しのいい人だからリェチやドイルお兄様を見て、いや、もしかしたらこの人も最初から知ってたのかもしれない。

 知らぬは私ばかり。

 でも元はと言えば私の所為。


「ちゃんと、わかってるから。大丈夫」


 魔獣の断片が散っている場所からじりじり離され苦々しい表情でシオンさんと対峙するゼーゲン兄さんを見つめながらリェチに告げたその言葉は、私自身に向けたものでもあった。

 皆が私をのけ者していたのは愛情故だとわかってる。だから大丈夫。怒りも悲しみもあるけれど、ここで自暴自棄になったりはしない。

 だって、私を傷つけまいと行動してくれたリェチも両親も村の人々もドイルお兄様も、それからゼーゲン兄さんもきっともっと悩んだし、苦しかったはずだから。



 あの日、薬草の採取道具でも狩りのための武器でもない、少し大きな荷を持ったゼーゲン兄さんが家族の目を盗むように家を出て行ったことに気が付いた私は、好奇心からそのあとを追った。

 こんな雨の中なにをするんだろう。ティムさんとどこか行くのかな。

 その程度の気持ちだった。

 でも兄さんが向かったのは森の中で、フラフラとした足取りで奥へ奥へと進んで行く姿に胸が騒いで思わず「ゼーゲン兄さん! どこに行くの?」と声をかけた。呼び止められた兄さんはとても驚いた顔をしていたけれど、私が近づこうと歩き出したら弾かれたように走りだしたから、追いかけた。

 どのくらい雨降る森を走ったのかは記憶にいない。息が苦しくて何度も足を止めようと思ったけど、見失ったら二度と会えない気がしたから必死に着いて行ったのを覚えている。

 でも、もう限界で。


『待って!』


 何度目かそう声を張り上げたら、不意に兄さんは足を止めてくれた。

 徐々に詰まる距離と大きくなる背中が嬉しくて、私は最後の力を振り絞って駆け寄った。でも、振り向いた兄さんの瞳は見たことないくらい冷たくて。


『――煩い! お前なんか、何もわかってないくせに!』


 そう叫んだゼーゲン兄さんは私の知る優しい兄ではなくて、息を呑む。

 そして伸びてきた大きな手が立ち竦む私の首を握り締めた。


『忌々しい。お前達がいなければ、俺だって認めてもらえた。お前達がこれほど薬学の才能を持っていなければ俺も、もっと必要としてもらえたはずなんだ! なのに、お前達が居るから俺がいくら努力したところで誰も見向きもしない! お前達が居るかぎり誰も俺を愛してくれない! そう思うのにっ! なぜ、こんなにも――』


 涙を零す兄さんを見たのは初めてだった。

 首を絞められた状態では息を吸うことができなくて苦しい。

 でもそれ以上に、降り注ぐ涙と苦悶に満ちた兄さんの顔に心臓が握りつぶされるような気がした。


『お前達が見ず知らずの他人ならば、弟妹でなければ、お前達が俺を慕わずにいてくれれば! 俺ももっと楽に憎み厭うことができたのに――頼むから、俺の前から消えてくれ。追いかけて来るな! 俺はもう、お前達の優しい兄ではいられないっ』


 そのあとのことは記憶にない。

 でも、あの時ゼーゲン兄さんに伝えたかった言葉は覚えてる。



  

「わかってんだろ、ゼノス。お前じゃ俺には勝てない。大人しく投降しろ」

「――ハッ」


 シオンさんの言葉を鼻で笑うゼーゲン兄さんの横顔を目に焼き付ける。

 記憶の中にあんな表情をした兄さんは居ない。口うるさく厳しい人だったけど、優しく面倒見のいい人だったから。私やリェチの才能を羨んでいたなんて思いもしなかったし、あんな風に苦しんでいたなんて言われるまでまったくわからなかった。


 ゼーゲン兄さんはリェチと私のことをよく知ってたのにね……。


 甘えるばかりで兄さんがどんな気持ちでいるかなんて、考えたこともなかった。他の大人達が私達を称賛するように兄さんも喜んでくれていると、誇らしく思ってくれていると信じて疑わなかった。 


「貴様らに屈するぐらいなら、死んだ方がマシだ」


 吐き捨てると同時に地面へ叩きつけられた薬瓶がパンッと大きな音を立てて割れ、紫の煙が辺りに急速に広がる。

 毒だ。それも即効性の強いやつ。

 これは発生源に居るゼーゲン兄さんもただでは済まないだろう。台詞どおり己の命などどうでいいといわんばかりの行動に眉を寄せつつ、解毒の陣が刻まれた布を巻いて自身の呼吸を確保する。兄貴もリェチもすでに対策しているようだが、シオンさんは無事だろうか。

 立ち込める紫煙の所為で先が見えず、解毒などを渡して支援しようにもどちらの手に渡るかわからないため動けない。兄貴もリェチも同意見らしく、もう少し離れるぞと身振りで示された二人と一緒に数歩下がった。

 刹那、地割れのような轟音が響き風圧によって紫煙が晴れる。

 再び姿を見せたシオンさんと振り下ろされたハルバート、そこから伸びた深い割れ目が魔獣の断片とゼーゲン兄さんの間を阻んでいた。


「同じ手はくわねぇって言ってんだろうが。なめんな」


 プハッと詰めていた息を吐き出しそう唸ったシオンさんに、兄さんが笑う。


「どうだかな――『起きろ』」


 兄さんの言葉に地割れの向こうに散らばる魔獣の欠片が一斉に蠢き、膨らむ。

 勢いよく伸びる蔓に表情を変えたシオンさんがハルバートを抜く。

 そして耳を掠める、山鳴りのような音。


「なんだ?」


 そう呟いたのは誰だったのか。

 不意に聞こえてきたその音に私達や兄貴だけでなく、今まさに戦おうとしていたシオンさんやゼーゲン兄さんの顔にも訝しげな表情が浮かぶ。そして。


 ――ビシビシビシ!


 高らかに亀裂が入る音が響き、蜘蛛の巣状に大地がひび割れる。


「げっ!? まずいっ。逃げろ!」


 そんなシオンさんの声が聞こえた時には、時すでに遅く。

 地面が激しく揺れる、というよりも先ほどハルバートによって作られた深い割れ目の中に大地が吸い込まれて、消えて行く――いや、違う。崩落してるんだ!

 現状を認識するのと走り出したのは、ほぼ同時だった。

 視界の端を掠めたシオンさんやゼーゲン兄さんの姿に安堵の息を吐く間もなく穴は広がり、逃げ遅れた体が傾くけれども浮遊感はやってこず。


「「サナ!」」


 兄貴とリェチに引っ張られ、勢い余って三人一緒に固い地面に倒れ込んだ。

 突然の出来事に硬直することしばし。

 下敷きになった兄貴のうめき声でハッと我に返り身を起こせば足先数センチに黒い穴が見え、思わず身を引けば靴に弾かれた石がコロコロ転がり落ちる。

 そして数秒後、ポチャンと水音が耳に届いた。


「……地下空洞があったみたいだな。危ないからもう少しこっちに来とけ」


 兄貴の言葉に従い、リェチと一緒に這い進む。リェチも私と同じように腰が抜けたらしい。


「……危なかったね」

「……うん。危なかった」


 リェチと顔を見合わせ、思わず出たのはそんな感想だった。


「命拾いしたな」

「まだ心臓バクバクいってます」

「僕も」


 兄貴も加わり互いの無事を噛み締めていると、ガサガサッという足音とシオンさんの声が聞こえてきたので三人で辺りを見回せば、その姿はすぐに見つかった。


「――無事か!?」

「ええ」

「「なんとか」」


 草木をかき分けやってきたその人に三人でそう返せば、シオンさんはしゃがみ込み心の底から安堵したような息を吐く。かなり、心配してくれたらしい。


「……ちなみに、見た感じ大丈夫そうだが怪我してねぇよな?」

「大丈夫です」


 目配せののち兄貴が代表して答えれば、シオンさんは「よかった。俺の所為で行方不明なんてことになったら、マジで若様に顔向けできねぇところだった……」なんて呟きと共に、立ち上がりハルバートを担ぎ直した。


「ここで待ってろ。ゼノスを回収してくる」


 真剣な眼差しでそう告げて歩き出したシオンさんに顔を見合わせた私とリェチは、今しがた言われたばかりの言葉を忘れて駆けだす。


「リェチ! サナ!」

「おいおい!?」


 兄貴の怒声と戸惑いを含んだシオンさんの声を背に穴を覗き込めば、底の見えぬ暗闇と岩陰にかろうじて掴まる兄さんの姿が見えて思わず手を伸ばす。


「「ゼーゲン兄さん!」」


 その声にゆっくりと上げられた顔は疲れ切った様子だった。

 しかしその浅緑の瞳に私達の姿を映すなり、兄さんの顔が憎悪に歪む。


「ふざけるな。貴様らの手など取るわけないだろう! 貴様らに同情され哀れまれるくらいなら俺は――」

「まって!」


 先の見えないそこに目を落とし、岩肌にしがみつく手から力を抜こうとした兄さんを呼び止める。

 ゼーゲン兄さんは私達を恨み憎んでる。

 それを思い知らされるはっきりとした拒絶だった。

 でも、私は。


「大好きだった! たとえゼーゲン兄さんが私やリェチを嫌いでも、恨んでいても大好きだよ! 尊敬してるし、誰よりも感謝してる! だってっ――」

 

 声を張り上げながら思い出すのは、温かく優しい思い出。

 青から紫、ピンクへと変化する色に夢中になって、何杯もお茶を飲むリェチと私に兄さんは穏やかな声で問いかけた。


『楽しいか?』

『『うん!』』


 力強い返事に兄さんはそうかそうかと嬉しそうに頷くと、少し得意げな顔で私達を手招く。そしてまるで内緒話をするかのように「実はな」と前置くと、ゆっくりと話しだした。


『これはただの薬草だが、魔力を帯びた植物や魔物の素材を使えばもっと驚くような変化が見れる』

『そうなの?』

『どんな風になるの?』

『急に固まったり途中で光ったり、薬の効能と一緒で色々だ。手順をちょっと変えただけでお前達が目を輝かせるほど美しい反応が、度肝を抜かれるような音を立てて爆発したりもする』

『『ほんとに~?』』


 疑わしい目を向ける私達に心外だといわんばかりの表情を浮べ「本当なんだぞ?」と呟き、苦笑する。


『まぁ、信じられないなら作り方を教えてやるから、いつか自分で調合してたしかめろ』


 そう告げて立ち上がった兄さんは部屋の端に置かれた棚に向かい、中に並べられた薬草や素材が見えるように扉を開け放つ。そして私達と同じ浅緑の瞳を輝かせると、熱の籠った声で私とリェチに語った。


『ここにある薬草や素材はほんの一握りだ。世界にはもっとたくさん薬の材料になるものがあるし、まだ見つかってないものもある。もちろん誰も試したことのない組み合わせもあるし、誰も見たことがない反応だってあるだろう。思い浮かべて見ろ。沢山勉強して、まだ見ぬ材料や組み合わせを誰よりも先に見つけて、それでいつか自分にしか作れない薬を作るんだ。それが人を助けられる薬だったらなおいい。誰も見たことないものを最初に見て、誰かの助けになって、感謝もされるなんて素敵だろう?』

『『うん!』』


 ゼーゲン兄さんがそう言ってとても楽しそうに笑うから、聞かされた夢がとっても素敵なものに思えて心弾んだことを覚えてる。

 

 ――勉強なんて大嫌いだったけど、そんなに楽しいことがあるんならもっと知りたいと思ったんだよ。

 

 夢を語った煌く瞳を思い出せば出すほど、今私達を見る冷たい眼差しが悲しい。

 優しかった兄さんとの記憶があるからこそ拒絶されて辛いし、正直、逃げたい。

 でも、伝えなければいけないことがある。


「――だって、薬学の楽しさを教えてくれたのは、ゼーゲン兄さんだもん。兄さんが薬草や素材にはたくさん種類があって、色んなことができるんだ、すごいだろって言ったから私もリェチも興味を持ったんだよ。地味な作業だってちゃんとできてすごいなって褒めてくれたから、最後まで頑張ったんだよ。兄さんが、居たから!」


 初めて兄さんの涙を見てその胸中を聞いて思ったこと。

 あの時は伝えることができなかったけど、ようやく言える。


「私達は薬学の道に進んだんだよ。兄さんが手を引いてくれたから、今の私達があるんだよ。皆が褒めてくれてくれた私とリェチの才能を育て気付かせてくれたのは、兄さんだよ。必要ないなんて思ったこと、ない。大好きだよ。どこにも行かないで」


 できるかぎり手を伸ばすけど、届かない。


 ――兄さんも伸ばしてくれたら、その手を掴めるかもしれないのに。


 もどかしい距離にいるゼーゲン兄さんの顔からはいつの間にか感情が抜け落ちていて、なにを考えてどう思っているのかはわからない。拒絶されてまた痛い思いをするかもしれない。それでも手を伸ばさずにはいられない。

 だって、ものすごく大切な人だったから。


「一緒に帰ろう。ゼーゲン兄さん」


 あの日、口にしたかった言葉を紡ぎながら手を伸ばす。

 崩れた足元がパラパラと岩肌を叩いている。

 これ以上無理したら崩れるかもしれない。

 でもリェチは止めないし、乗り出している私の体を支えてくれている。

 お蔭で、岩肌を掴む兄さんの手にもうちょっとで届きそうだった。


「俺に、触るな」


 けれども私やリェチと同じ浅緑の瞳に浮かんだのは、拒絶。


「俺の名はゼノス・ヴェルヒ。兄だかなんだか知らんがゼーゲンという男ではないし、貴様らのことも知らん。マリス様の僕として、貴様らの手など死んでも取らん」

「まって!」


 兄さんの指先から力が抜けるのが見えて止めようとするも私の言葉は聞き遂げられず、伸ばした手は宙をかいただけだった。


「ゼーゲン兄さん!」


 そんな私と声を上げたリェチを映した浅緑の瞳が細められ、その口元が綺麗な弧を描く。


「同情も哀れみも要らん。勝つのはマリス様だ!」


 叫び、岩肌を蹴ったゼーゲン兄さんは自ら底の見えない穴の中へと身を投じ、私達の前から姿を消したのだった。


   ***


 シオンさんが魔力を込めた草花の束を森の中に開いた大穴の中に放り投げ、目を閉じて耳を澄ませる。


 ――ポチャン。

 

 そして着水音が聞こえてからしばらく。

 ゆっくり目を開くと、苦々しい顔で首を横に振った。


「魔力を追った感じ、地下空洞に水が溜まってるんじゃなくて流れてやがる……。生死がわかんねぇのは痛いが、魔獣らしき気配もゼノスらしき気配もないしこれ以上ここにいても時間の無駄だな」


 ハーと長いため息を吐きながら立ち上がったシオンさんの陰に隠れて、胸を撫で下ろす。

 捕まえなければいけない相手だとわかっていたけど見つからなくて正直ホッとしたのは私だけでなく、目が合ったリェチと互いに唇に指をあてる。そんな私達に兄貴の口からもため息が零れたけれど何か言われることもなく、ただ髪の毛をぐちゃぐちゃにかき混ぜられた。

 シオンさんも私やリェチがゼノスを兄さんと呼び、助けようとした件に関して詳しく追及してくることなかった。必要なところには報告するけど、ドイルお兄様の都合もあるので先に相談してからにしてくれるそうで、私とリェチも悪いようにはならないだろうとのことだ。

 そう考えるとものすごくシオンさんが優しい人に思えるけど、そんなことはないらしく。

 故意ではないにしろエルフの住まう森に大穴を開けてしまったため、とてつもなく面倒な案件になりそうなのでドイルお兄様に丸投げするためだそうだ。この大穴も、ゼーゲン兄さんが連れてきた魔獣が暴れた所為にするとのこと。

 私やリェチの行動の所為でドイルお兄様に貧乏くじを引かせてしまうみたいなので、あとでちゃんと謝ろうと思う。それで今後私達がどうなるかまだ分からないけれど、このまま側に置いてくれるなら誠心誠意尽くす所存だ。


 話したいことも沢山できたし……。


 ゼーゲン兄さんやリェチのこと、今までどんな思いで私達を見ていたのか、とかね。こんな面倒な案件を抱えた兄妹をドイルお兄様はよく部下にする気になったなと思うよ。手元に置くにしても監視するにしても、色んな方法があっただろうに。


 ――放って、おけなかったんだろうなぁ。


 柔らかな笑みを浮かべるドイルお兄様を瞼の裏に描き、思う。

 兄さんが行方不明となりホッとする反面、ドイルお兄様に申し訳なく、また中途半端な自身が情けない。ゼーゲン兄さんや口を噤んでいた皆に対してまだ上手く感情が整理できてないし、ドイルお兄様に言いたい文句も浮かんでくる。

 でも、離れたいとは思わなかった。

 このまま側に居続ければいつかゼーゲン兄さんの訃報を聞くことになるかもしれないし、そのきっかけを作るのはこの手もかもしれない。

 だから、その時までにもっと強くなりたいと思う。

 後悔しないよう、リェチや兄貴と一緒に。


「そろそろ行くぞ。若様も待ってるだろうしな」

「「「はい」」」


 シオンさんに応え私達は再び荷を背負う。

 いつの間にか、雨は止んでいた。







ここまでお読みくださり、ありがとうございました。

次話よりドイル視点に戻りますのでお付き合いのほど、よろしくお願い申し上げます。

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