第二百二十八話 マリス視点
険しい山脈に囲まれた森の中で、弱肉強食という掟に従い生きる動物や魔獣達。魔石や希少な薬草などが採れるわけでもなく精霊が住処を作るような場所もない、さしたるものはない森であるが故に人間や亜人などがやってくることは滅多にない。そんな静かな土地で俺は生まれ落ち、同族達と暮らしていた。
ドライアドの魔王を祖に持つ我々は頑丈で病気や怪我を負うことはほとんどなく、腹を満たすために獲物を追い詰めることはあれど頻繁に行うことは大人達によって禁じられていたため基本的にすることがない。年に二回ほど選ばれた者達が服などの生活雑貨を買い付けに人間の国に行くのだが、その代表者決めや悪天候などによって他の種族が森の中に迷い込んだ時などはちょっとしたお祭り騒ぎだった。
穏やか、と称するにふさわしい日々。
じれったくなるほど時間の流れはゆっくりで、暇なのは平和で良いことだと大人達に笑いかけられる度に心の中でなにかが燻ぶり、増していく。しかし幼き俺は己が内にある漠然とした想いを理解できず、その感情を言葉にすることもできないまま時が過ぎて行った。
そうして数年。
成長し七歳を超えた頃には皆と同じ食事は物足りず、常に空腹を感じていたように思う。大人達からは先祖返りだと言われるようになり、向けられる視線に憐憫と畏れが混じるようになった。
しかし俺は、先祖返りがもたらす力や皆の視線の意味を理解できずにいた。
自身の能力も正しく認識できておらず、じわりじわりと真綿で首を絞められているような閉塞感を感じながらもそんな自身の感情の意味を知らず、違和感にただ首を傾げている無知な子供だったのだ。
大人達はそんな俺の在り方をよしとした。
力の使い方を知った俺が飢えを満たすために人の国に降り、欲望のまま暴れることを恐れていたのだろう。彼らは黙し、俺に祖たる魔王や一族が持つ能力の真の使い方、我々と他種族の差異をなにも教えなかった。
それは村のためであり、また俺のためでもあったのだと思う。
生を謳歌する他種族の姿を知らなければ満ちぬ己の腹に疑問を抱くことも、村での日々に不満を覚えることもなかったのだから。
しかしそんな俺の日常は、ある時を境に急変していく。
契機は、好奇心とほんの少しの悪戯心だった。
ある日、暇潰しがてら生み出した眷属を動かして遊んでいたところ、ふと視界を共有できることに気が付いた。そして眷属の新たな可能性を知ったその日は、奇しくも年に二回の買い出しが行なわれる前日。
俺はなんとなく、彼らの荷に眷属を潜ませてみようと思った。
大変遠い場所に行くらしいので眷属が途中で力尽きてしまうかもしれないが、上手くいけば人間の国々や普段は見られない皆の姿が見られるかもしれない。
その程度の好奇心とささやかな悪戯心だった。
そしてそれは、取り返しのつかない変化を生むこととなる。
はじめて見た外の世界は、村とは比べものにはならないほど発展した文化と活気で満ちており、眷属越しに見るものすべてが新しくて俺は息を呑んだ。
声は聞こえないが生き生きとした表情を浮べる人々の姿に胸を掴まれ、親とはぐれたのか少女が流した涙に心臓が跳ねる。
そして思ったのだ。
あそこへ俺も行きたいと。
無知な子供だった俺は脳裏に映る光景へ抱いた感情を理解しきれなかった。
しかし今ならわかる。
俺はあの時、活気溢れる人々の姿を羨み、悲しみにくれる少女に歓喜したのだ。そして人々の営みで活気づくあの場所を蹂躙して腹を満たしたい、と本能的に喉を鳴らしたのだろう。
自身の中で広がる感情を理解できないまま、皆が帰路に着くまでの間食い入るように人間の国を見詰め続けたあと、どうしたら買い出しの代表者に決めに参加できるか母や大人達に尋ねた覚えがある。
そして幸か不幸か。
俺の変化に気が付いた者はいなかった。
刺激の少ない村で若者が買い出しに参加したがることはよくあることであり、俺が無知であったが故に抱いた欲望を上手く言葉にできずにいたこと、また眷属を偵察に使うことができる者がいなかったことなどが重なり合った結果、人間の国に行きたいという願望の真意を誰も考えなかったのだろう。
あの時、誰かが気が付いていたのなら俺はとっくの昔に殺されていたはずだ。
しかし内に宿った欲望は露見することなく俺は成長し、力を付けた。それに伴い進化した眷属のお蔭で情報を自力で集めることができるようになり、外の世界や皆が秘匿していた一族の秘密について理解した頃には感情を隠し、他者を欺くことを覚えていた。
――貴方がもう少し大きくなったらね。
村の外に出れる日を問うた俺の頭を撫でながら微笑んだ母の言葉が、優しい嘘だったと知ったのはいつだったか。大人達は俺を村の外に出す気などなく、この身に宿った先祖返りと呼ばれるほど強い力の使い方を覚え周囲に振るうことを危惧していた。
俺を殺そうとしなかったのは、数を減らしてしまった一族への愛情か憐みか。
返り討ちに遭う危険性を畏れていたのかもしれないが、村を捨てた俺にはもはや知る由もない。そして知る必要のないことだった。
母も、父も、村人達も、誰一人として俺のことなど覚えていないのだから。
――なにも知らぬまま、朽ち果てればいい。
穏やかな時が流れるあの村で。
共に暮らしていた同族達へ覚醒した魔王の力を使い、俺のことを忘れて一族の終焉の時を待つよう命じてから二十年以上経つが解けた様子はない。魔王の有する能力は高く、深淵の森のアラクネ達のように他種族の干渉は条件が厳しく個体の成長によっては解けることもあるが、同種族への支配力は絶大だ。村の外でユリアを発見した時は驚いたが、彼女は俺のことを知らぬようだったし、己が欲望よりも同族の安穏を取ったのであの時の命令はちゃんと根付いている。ならばわざわざ手を下す必要はないだろう。
村での暮らしは悪くなかった。
皆を見守りながら穏やかな時間を過ごし眠るように死に行くのも悪くないと思った。
しかし抱いた欲望を消すことなどできず、村を捨てることを決めた。
衰退した一族の再興は、一度たりとも考えたことはない。
畏れながらも俺を慈しんでいた優しく愚かな彼らに、戦いの日々は相応しくない。
喜びも、悲しみも、充足感も、痛みも、なに一つ知らぬまま静かに逝け。
――カラーン。カラーン。
厳しい自然に囲まれた森の中に置いてきた同族達に想い馳せていると、アグリクルトの大地に祝福の鐘が鳴り響く。人ならざる者達が奏でる澄んだ音にそっと目を開ければ、天から迸っていた力の残存が光の粒子となって降り注ぎ、暗闇の中で白亜の神殿を浮かび上がらせていた。
「力を得たのか」
遠くに見える大神殿に、輝く金の髪と強い光を携えた紫色を思い描く。
世界に愛されし者。
マジェスタでドイル・フォン・アギニスを一目見た瞬間、そうだとわかった。
同時に魔王としての本能が、殺しておけ、と囁く。
村を捨ててすぐの頃、アグリクルトで見かけた勇者にも聖女にも抱かなかった激しい嫌悪感に従い子供のあとを追えば、地面に叩き付けられてへし折れた槍と空気を震わす悲痛な叫喚。
滑稽だと思った。
災厄の象徴としていつか打ち倒されるだろう俺と真逆の位置にいながら、同じく己の運命を恨み世界を呪うその姿に興味が湧いた。この人間が、ファタリアの王のように世を破滅へと導く存在となったらこの世界はどうなるのだろうか。
彼の願いを叶えるべく終末を迎えるのか。
本来の役割を果たせるよう彼を導くのか。
その答えは後者だったようだ。俺が植え付けた悪意の種は確かに芽吹き、順調に育っていたはずなのに、いざ駒として取り込もうと思いマジェスタヘ足を運べばいつの間にか綺麗さっぱり彼の中から消えていたからな。原因不明の病にかかり死にかけたかと思えば別人のようになったと聞いたので、なんらかの介入があったのだろう。
その上、こうして新たな力を与えられている。
忌々しくて、羨ましいかぎりだ。
「待ち伏せて討ちますか?」
光り輝く大神殿から目を逸らし、聞こえてきた枯れた声の主へと視線を向ければ愉悦を含んだ笑みが目に映る。加虐の喜びを隠すことのないエラトマは、俺が用意した舞台に立つに相応しい男だった。
一族の栄華と没落を第一線で経験しながらも、望むのは純粋な享楽。辛酸を舐めさせられた復讐や一族の再興などの正義感を持たず、ただ自分の欲を満たすために里の外で人間に紛れて生きてきたこの男は、なにを思ったのか今は俺の部下の真似事をして楽しんでいる。
仲間意識など皆無で他者を蹴落とし踏みにじることが生き甲斐なエラトマが、なぜ俺と行動を共にしようと思ったのかは不明。しかし役には立つので、好きにさせている。
「好きにしろ」
「よいのですか? 勇者の力を手に入れて間もない子供など、簡単に屠ってしまうかもしれませんが」
謳うようにそう告げて俺の反応を楽しむエラトマは至極愉快そうで、性格の悪さが窺える。しかし目の前の同族を駒として捉え、使い捨てようとしているのは俺も同じなので、咎める気はない。
「ああ。今ここでお前が行っても行かずとも、恐らく結果は同じ。ドイル・フォン・アギニスとは近いうちに相見えることになる」
俺の返答が意外だったのか目を瞬かせるエラトマにそう答えれば、詰まらなそうな表情が浮かぶ。
「魔王として目覚めた貴方がそう仰るのならば、やめておきましょう。魔王と勇者の繋がりは切っても切れぬものですからね。ようやく竜の国やエルフの里が面白くなってきたというのに、結末を見届けずに死ぬのは悔しい」
自分本位な答えだがそれでいい。
同族ではあるが村の者達のようにエラトマを支配する気はない。
そして彼もまた俺を魔王として崇める気はない。
ただ俺が作り上げてきた舞台がエラトマの趣味嗜好に一致しただけのこと。
互いの目的は知らぬし、邪魔になれば躊躇いなく屠る。
エラトマと俺はその程度の関係だ。
そうでなければ、いけない。
「さて。それでは待ちくたびれた王子が勝手に動き出しそうなので、そろそろ失礼します。あの子供を巻き込んだ方が楽しそうなものが見られる気がしますから、頃合いを計らねば」
「好きにしろ」
「勿論、好きにしますとも。折角与えられた命ですからね。精一杯、楽しみませんと!」
舞台役者のように両手を大きく広げてそう言ったエラトマは、仕込んでいた魔道具を取り出して転移陣を展開すると皺が刻まれたその顔に狂気じみた笑みを浮かべる。
――いざ、我が楽園へ。
その言葉と共に姿を消したエラトマとは、もう顔を合わせることはないだろう。
ドイル・フォン・アギニスと初めて会ったあの日から考え続けた舞台は整い、すでに開幕している。
悲劇となるか、喜劇となるか、はたまた次の物語に続くのかはまだわからない。
しかし生き残るのは俺かドイル・フォン・アギニスのどちらか一人であろう。
勇者と魔王とはそういうものなのだから。
光が収束し沈黙した大神殿を眺めたあと、俺もこの場から去るべくゼノスが待っているだろう隠れ家を転移先として思い浮かべた。
――楽園への入り口か、地獄への入り口か。
エラトマの最後の言葉に触発されたのか脳裏を過った馬鹿げた台詞に唇を歪めながら、終幕の時を待つべく魔力の渦へと足を踏み入れたのであった。
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。




