第二百二十五話
「――お待たせして申し訳ございません」
重ねた年月の長さを感じる外見とは裏腹な、澄み渡ったという表現が似合うその声に立ち上がり挨拶しようとするも、腰を浮かせる前に制止の言葉が響いた。
「どうかそのままで。すぐに参ります」
そうは言われたものの付き従うようなアーバー神官の行動と身に纏う純白の布に銀糸の刺繍という一際な豪華な衣が、この初老の男性こそが最大規模と名高いアグリクルトの大神殿の長なのだと示しており、本当にその言葉に甘えていいものか迷う。
しかしもう一度「そのままお待ちください」と優しく告げられてしまったので、俺は椅子に腰を落ち着けた。気遣いを頑なに固辞するのも失礼だからな。
少しばかり落ち着かない気分のまま待てば、あとから入室したアーバー神官の手によって橙色に染まった廊下に続く扉が閉ざされて室内が再び白色と銀色に戻る。
静寂の中、一歩一歩こちらに近づいてくる大神官様とアーバー神官から布ずれ以外の音が聞こえないのは長年この静寂に包まれた神殿で神に仕えてきた賜物なのだろう。白と銀の世界を静かに歩む大神官様には、これまで出会ったどの神官も比べものにならないほどの神聖さがあった。
神殿と大神官様が醸し出す荘厳な雰囲気に自ずと背筋が伸びる。それは俺だけではなかったようで、気が付けば椅子に背を預けてまどろんでいたリエスは身を正し、室内を自由に飛び回っていたラファールやアルヴィオーネも俺達の近くへ降り立っていた。
言い知れぬ緊張感に表情が強張っていたのだろう。ほどなくして俺達の元へ辿り着いた大神官様は少し困ったように微笑む。
「そのように緊張しなくて大丈夫ですよ。私など他の者達よりも長く神々にお仕えしているというだけなのですから」
大神官様にそう言われても……。
なんとも返答に困る大神官様の台詞にそんな感想が頭を過る。なにも知らぬ幼子でもあるまいし、長く神官職に就いていたからといって成れるものではないことくらい知っている。
そんな俺の心情が伝わったのか眉を下げたアーバー神官が悩まし気な表情を浮べて上司を見ており、なんとなく大神官様の人柄が窺えた気がした。
――さすが神々の代弁者といったところか。
謙遜でも卑下しているわけでもなく心の底からそう思っているだろう大神官様に、そんなことを思う。俗世を捨てたが故の善良性とでもいうのか、その身分に付随する影響力を知らぬわけではないだろうに誇示する気は一切なく、神に仕えるという役目だけを粛々とこなそうとしているのだろう。
欲を感じさせないその姿からは嘘や悪意の気配なく、この方からならば神々の言葉だと言われても信じられる気がする。そんな普通の人間とは異なる雰囲気が大神官様にはあった。
そしてそれは幼い頃に聞いた、父上と出会う前の母上の逸話と一致する。
慈愛深く清らかで美しい聖女セレナ様。
世間知らずで自由気ままな今の母上しか知らぬが故に上手く想像できていなかったが、書物に記されているような人物像のままであったならば、目の前の大神官様のようになっていたのだろう。過去の母上がどのような人だったのか、少しだけわかった気がした。
そう思うと同時に、俺は大神官様に取るべき態度を逡巡する。
母上と本質が似ているのならば、恐らくどれほど大神官という立場が持つ影響力を伝えたところでこの方の考えや行動は変わらないだろう。流れやすそうな母上もなんだかんだいって、自分の意見を曲げないところがあるからな。
しかし情には脆いので、話を円滑に進めるための糸口があるとしたらそこだ。
「大神官様というお立場も敬われて然るべきものではございますが、それ以前に貴方様は母上の育ての親であると伺っておりますから、無礼があってはと思うと気が気でないのです」
目の前の方が納得しやすいよう大神官という立場であることとは別の敬う理由があるのだと伝えたあと間髪入れずに立ち上がった俺は跪き、【上流貴族の気品】を発動させながら丁寧に拝礼する。
「挨拶が遅れまして申し訳ございません。お初にお目にかかります。私は雷槍の勇者アランと聖女セレナの息子、ドイル・フォン・アギニスと申します。この度はお招きいただき、ありがとうございました。こうしてセレオス様とお会いできたこと、誠に嬉しく感じております」
そう言って微笑みを浮かべれば大神官様は瞠目のあとためらいがちに口を数度動かし、やがて噛みしめるように言葉を紡ぐ。
「……親としてセレナのためにできたことなど、それこそ数えるほどしかありませんよ」
悲しみか喜びか追憶か。
大神官様の瞳が潤む理由を俺は知らない。
しかし母上に対してなにか胸に抱えるものがこの方にはあるのだということだけは、よくわかった。
だから俺は素知らぬ顔であえて明るい声で告げる。
「そうなのですか? しかし母上はセレオス様のことを大変慕っておられますよ。セレナという自身の名は貴方の名前を分けてもらったのだと、とても嬉しそうに仰っていたのが子供心にも印象的でしたから」
「そうですか――それは、嬉しいですね」
俺の幼き日の感想を聞くにつれ徐々に眉を下げたセレオス様はなにかを呑み込むように一度目を閉じると、小さく微笑んだ。しかしセレオス様の心を映したかのような儚い笑みは一瞬で、瞬きしている間に大神官様らしい慈愛に満ちた表情へと変わる。
「どうぞ席に。ご用件を伺いましょう」
「ありがとうございます」
この話はこれでお終いと言いたげなその変化に触れることなく、促されるままに先ほどまで座っていた椅子へ手をかければセレオス様も正面の席へ腰掛ける。アーバー神官はそんな俺達を確認すると、音もなく部屋の隅に置いてあった茶器の元へ向かいお茶を淹れ始めていた。
大神官様とそのお付きの神官にもてなされているという空恐ろしい現実からそっと目を逸らし、俺も静かに椅子へ座る。
大神殿という俗世とは違う秩序が存在する場所で敵意を抱かれるよりはずっといいが、好意的過ぎるのもそれはそれで怖い。そう感じるのは俺だけなのだろうかと思うも、口に出してその理由を問うことなどできるはずもなく。俺は僅かな戸惑いを胸に大神官様と向き合った。
大神官様という身分だけでも畏れ多いのに、母上の父にあたる方とくれば粗相はできない。そう気を引き締めつつまずはリエスやラファール達の紹介をと考え口を開くも、思い描いた言葉が声となる前に静かに俺を見据えておられたセレオス様が口火を切った。
「セレナから我が子は風の精霊や水の精霊様が見守ってくださっていると伺っていましたが、土の精霊様のご加護もいただいているのですね」
「……はい」
愛おし気に目を細めて告げられた内容に驚きかけるも、この方は神々の声を聞くことができる大神官様なのだということを思い出して頷く。マジェスタでは彼女達が器に入るか意図的に姿を現さない限り気が付かれることもなかったが、獣人や竜人は勘がいいのか何かを探すように辺りを見渡している者も多く、エルフはもちろん大神官様やアーバー様のように高位の神官達は当然のようにその目に精霊を映す。
それは少し新鮮であり、作戦を立てる上では気を付けなければならない点だと再認識しながら俺は大神官様に彼女達を紹介していく。
「二人はこうして側で、土の精霊殿にはエピス学園で俺のために力を揮っていただいてます。それからこちらはエルフのリエス。同じ目的を持つ者として協力してもらっています」
精霊達の真名は俺がいくら口にしたところで彼女達が認めた者以外には聞こえないようなので省き、リエスについて簡単に説明しておく。セルリー様が契約しているフィアのように愛称なら聞こえるし呼べるのだが、精霊の行動を縛ることができる真名を知るにはなんらかの制約があるらしい。
「長老ラングのひ孫、リエスだ。お初にお目にかかる」
「ご丁寧にどうもありがとうございます。すでにご存じかもしれませんが私はこの大神殿を任されておりますセレオスと申します。姓は遠い昔に捨てましたのでご容赦くださいね。それからあちらは私が最も信頼している神官でアーバーと申します」
「アーバーです。以後お見知りおきを」
大神官様から紹介されそう名乗ったアーバー神官は静かに五つのカップを卓上に置くと、お茶を注ぎそっと後ろに下がった。どうやら席に着く気はないらしい。
関所近くにあった廃墟からこの部屋に至るまでの道中を思い返す限り、彼も上から数えた方が早い方のはず。そんな方に従者のような態度を取られると恐縮どころではないのだが、神殿内の決まりなど知らぬ俺が余計な口を挟む訳にもいかず。
若干居心地の悪さを感じながら出されたお茶を呑みつつ話を切り出すタイミングを窺えば、そんな俺に気が付いたのか静かに茶器を置いた大神官様から優しく問いかけてくれた。
「それで、皆様は本日どのようなご用件で大神殿へいらしたのですか?」
神々からそこまではお教えいただけなかったのです、と悪戯っぽい笑みを浮かべて見せたセレオス様の気遣いに心の中で感謝しつつ俺は大神殿を訪れた目的を説明するべく口を開く。
「ある者達を捕らえるべく追っていたところブリオ殿下にお会いしまして、その際に手がかりになりそうな情報がこちらにあると伺い足を運ばせていただきました。単刀直入に申し上げますと、一月ほど前にハンデルにて大神殿が神々に捧げるために購入された『清らかな魔力を蓄えた木材』を何処から買い取ったのかを教えていただきたいのです。また売買記録を記したものなどが残っていればお借りしたく存じます」
お言葉に甘え俺達の目当てについて話せば、大神官様とアーバー神官の顔に微かだが驚きの感情が浮かんだ。しかしそれは一瞬のことで、大神官様はそれ以上問うことなくコクリと一度頷いた。
「わかりました。アーバー」
「すぐにお持ちいたします」
恭しく頭を下げたアーバー神官はスッと身を翻して廊下と繋がる扉へ向かう。
そんな大神官様の素早い決断と素直に従ったアーバー神官に驚いたのは俺達の方だった。
「……よいのですか?」
一体なにがどうなっているんだという疑問を隠しきれず、そんな言葉が口から零れ落ちる。いくら母上が有名な聖女で大神官様の義理の娘だったとしても、詳しい事情も聞かずに要求を快諾するなどさすがに異常だ。
『ご主人様。これはちょっと都合がよすぎるんじゃない?』
『そうなの?』
「ええ」
大神官様達の反応を危惧したのは俺だけではなかったらしく、眉を寄せたアルヴィオーネの言葉に首を傾げたラファールに、リエスが少し硬い面持ちで首肯する。
そんな彼女達の会話はもちろん大神官様の耳にも届いたようで、彼は困ったように笑っていた。
「皆様の求めに応えるよう神々から賜っておりますし、実は私からもお願いがあるのですよ」
「お願い、ですか?」
「ええ。正しくは神々からドイル君へというべきなのかもしれませんが」
サラッと告げられた事実に安堵すべきか戦慄すべきか迷う。
これまでの好待遇へちゃんとした理由があったことは変に裏があるのではないかと心配しないでよくなったのは喜ばしいのだが、神々からのお願いがどういったものなのか不安が募る。
断るわけにはいかないというのが、またな……。
聖木の情報を手に入れるにはこのお願いをきかなければならないのだろうが、この忙しい時に俺は一体なにをしなければいけないというのか。
「それは、また……」
「心配しなくとも今日中には終わります。お願いを聞いていただく代わりに、ハンデルまでは神殿の転移陣でお送りしますよ。ここからならば一刻もかからず王城近くの神殿へ着けるでしょう」
それは大変魅力的な提案だった。
噂の神殿の転移陣を使わせてもらえるならば早さはもちろん、身も心も安全だからな。
頭の隅で本当に各神殿を繋ぐ転移陣は実在したんだなと感心する一方、最高機密ともいえる情報を明かし使わせてでも俺にしてほしい事柄とは一体どんな内容なのか心配になる。
現在時刻は夕方。
大神官様が入っていらした時はまだ明るいオレンジだったが売買記録をアーバー神官が取りに出た時は赤みを増していたので、あと一時間もせず日が暮れるだろう。
大神官様の言葉通り今日中に終わり、転移陣を使わせてもらえるのならばラファールの力を借りて帰るよりも早くハンデルへ戻ることができるので損はない。神殿内に漂う空気からいって、危険極まりないことが待っているというわけではなさそうだ。若干の不安はあるがそう悪い話ではないだろう。
そう結論付けてリエス達へと目を向ければ悪い感触ではなく、アルヴィオーネから『悪くないかもね』という後押しもいただいたので俺は大神官様へと視線を戻した。
「承知いたしました。それで私は一体なにをすればよいのでしょうか?」
了承すれば大神官様の顔が綻ぶ。
しかし続いて告げられた言葉は不可解なものだった。
「ドイル殿は【神官】になるための条件をご存知ですか?」
「……回復魔法に適性があることだと教わりましたが」
唐突な問いかけに戸惑いつつもそう応えれば、大神官様は俺の困惑など見えないかのように穏やかな声でさらに話を続ける。
「では、【神官】と【聖女】や【聖人】と呼ばれる者達の違いはなにか判りますか?」
質問を重ねる大神官様の意図がわからない。しかし答えないわけにはいかないので、俺は疑問を一先ず心の隅に置いて答えを紡ぐべく、己の記憶を探った。
「神々の声を聞くことができるか否かではないかと思っております」
「その通りです。しかし特定の神から加護を賜っている方や国難に窮した国王などがふとした拍子にお声を拝聴したり、お言葉を賜ることが稀にあります。そのため神殿では神々へお言葉を乞うことができる【神託】のスキルを取得した時から、【聖女】や【聖人】を名乗ることを許すと決められております」
「……そこまでは存じ上げませんでした」
「神殿に勤めなければ知る由もないことでしょうからね。知らなくても当然です」
初めて知る情報に心から感心すれば、仕方ありませんと優しい言葉が返ってくる。
聖女や聖人と呼ばれる者に明確な線引きがあったことに驚いたが、それよりも大神官様がなにを伝えようとされているのかが気になった。しかし答えを急かすような真似をする勇気はなく、ただもやもやした感情が胸の中に積もっていく。
そんな俺の胸中を知ってか知らずか。
「では、【勇者】と呼ばれる者と呼ばれない【英雄】の違いはなんだと思いますか?」
大神官様は俺を見て穏やかに微笑むと、澄み渡った声でさらなる言葉を紡いだのだった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。




