思いと国民たち 3
◇
◆
ハーシェは“夜のおやすみ”のために波打ち際を歩いていた。
彼女は毎日ファムとおはようとおやすみの挨拶するのを習慣にしている。
どんな時も、それこそファムの意識がない時でもハーシェは挨拶をしているが、意識がある時はちゃんと言葉を交わしたいと思っている。これはまだ言葉をうまく扱えない頃からファムが色々と好き勝手に話しかけていたのが始まりで、今でも一日の始まりと終りはファムと一緒に語らうのが彼女の日常になっている。
加えて今日は鳥の姿をした仲間の影霊五名も一緒におやすみを言いたいというので、騒がしくなってもいいようにと船から降りてきたのだ。
船から離れすぎない距離まで歩いてくるとハーシェは立ち止まり、持っていた小型照明ごと手をのばす。それを目印に小柄なザウトとラオリエルが腕に、サユカとペーペルが足元に降り立ち、一番身体の大きなカニールは少し離れた場所に降り立つと、鋭い爪のついた足で砂を蹴りあげながら歩いてくる。
羽毛の小さな塊をそれぞれ両肩に乗せ、ハーシェは一つ思いついて持っていた照明を消した。ヴェール越しに空を見上げるとたくさんの星がきらめいている。
その光は国の会合に出向いた時よりもどこか近くに感じて、思わず手を伸ばしてみるが、ナハトの衣装越しに感じたのは夜の海風だけだった。
「何をしてるんだ、こんなところで」
声に振り返るとマルハレータだった。明かりの消えた状態だがヴェールのおかげで日中と同じ格好をした彼女の姿ははっきりと見ることができ、肩には少し眠たげな銀の子竜のブルムもいるのがわかる。
「おれは夜の見回りだ。明かりが消えたから何かあったのかと思った」
ハーシェがファムとの挨拶の話をすると、そんなことしてるのかとマルハレータはブルムと顔を見合わせる。
「ならさっさと済ませて船に戻れ。オマエ達だけで人間と会わせるとまだ何が起きるかわからんからな」
影霊の代表者としての役目はハーシェの担当だが、全員を取りまとめ、必要に応じて危険から守ってくれているのはいつもマルハレータだった。そっけない物言いでも心配してくれているのだとハーシェは理解しているので、素直に従いたかったのだが……。
「それが、ファムさまがすごく混乱していたので、少し待っているんです」
「混乱?」
マルハレータはハーシェの足元にいる羽毛の塊その一ことサユカに目をやる。国との通信の一切を担当しているこの影霊は白に近い銀灰色なので、夜の砂地の上で浮いているように見える。
「通信可能なくろやみ国内の精霊の反応、現在は二つ。夕方の定時連絡以降の変化はないです」
二つの大きな瞳でマルハレータを見上げ、サユカは落ち着いた声で答えた。
「ベウォルクトの回収には成功したようだな」
「今は調整中ですが特に異常なしとのことです」
「じゃあ一体何なんだ? あっちはもう寝ているんじゃないのか?」
「ファムさま、まだ起きているんですが、あ……少し落ち着いてきましたね」
ハーシェの言葉にマルハレータはわずかに目を見開く。
「もしかして、アンタはおれ達以上に女王と繋がっているのか」
「ほんの少しだけですよ。強く意識しないとわからないくらいのものです。……ファムさま、夜のおやすみの挨拶をみんなで言いたいのですが」
向こうと通じたらしく、ハーシェは微笑んだ時の声になり、くろやみ国の島がある方角を向いて言葉を発する。
内容的に自分とブルムも巻き込んでいるなとマルハレータは気付いたが、すぐに終わるだろうと隣で待つことにした。
「ええ、ローデヴェイクさんはいませんが、残りの影霊はみんないます。ええはい、マルハレータさんもここにいますよ」
「おれがどうした」
どうも呼ばれたらしいのでマルハレータも創造主に話しかける。基本的に一対一の会話になるためハーシェに対するファムの言葉はマルハレータには届かない。
『……ちょっと意見を聞かせてほしいの』
珍しく弱々しい声での物言いに、マルハレータは思わず暗い夜の海を睨んだ。
「手短に話せ」
「白箔国に異変か。たしかにあそこは遠方で直接の取引もない国だが、ベリャーエフがいるんだ。異変が起きているなら積極的に情報を集めた方がいいだろ」
『レーヘンが他の国精霊に確認してもらってるんだけど、朝になったら黒堤組にも聞いてみるつもりよ』
「精霊に海賊か、他の情報も欲しいな。実はこの演習が終わり次第、おれはベリャーエフ回収準備の話をするつもりでいたんだが、このまま軽く調査に向かうのはどうだ? この島からなら大陸にも近い」
『そうしてくれると助かるわ。朝にサヴァ達とも一緒に話をしたいのだけれど、時間は作れる?』
「朝食の前後なら大丈夫だろ」
『わかったわ。それまでにもう少し情報を集めてみるわね』
「それよりもさっさと寝ろ。いや、ハーシェ達と挨拶があるんだったか」
そう言ってマルハレータは隣のハーシェに会話を譲る。
ハーシェが羽毛達と、ついでに子竜のブルムも一緒になって一言ずつファムに就寝の挨拶をしているのを横で聞きながら、マルハレータは自分の組んだ両腕を見下ろす。
マルハレータはファムとの会話の中で明らかに話題に出てこない存在を感じていた。白箔国を気にしているおそらく一番の理由。だが結局会話の中でそれを指摘するべきなのか判断できなかった。
生前の自分はそれをどうすることも出来なかった。それに関する自分の感情が何なのかすらもわからなかった。
それに囚われていたのに、手を伸ばすことすらできなかった自分がいたから、今こうしてへんてこな存在になり、闇夜の波打ち際に立っている。それがマルハレータだ。
ファム女王はどうやらそれを諦めようとしているらしい。マルハレータにもそれは理解できた。だが同時にそれに同意してはならないという感情も抱いてしまう。
自分の中で発生した煩雑な思考をどう言葉にまとめるか考えていると、隣でヴェールが揺らめいた。
「挨拶は終わったのか?」
「はい。“マルハレータにもおやすみを伝えておいて”だそうです」
「ふぅん、当然なんだろうが、喋り方を真似ると同じ声だとわかるな」
ハーシェ自身の穏やかな響きが混じりつつも、元になった人物とほぼ同じ声だった。
「声帯は同じ形のはずなんですが、お城の声紋判断では別人だそうですよ」
「そうなのか。……少し訪ねたい事がある」
「なんでしょう」
「ヴィルヘルムスという男についてどう思う」
ハーシェはマルハレータの問いにすぐには答えず、言葉を探すように漆黒の海の、その先を見つめる。
「わたし自身はあの人とほとんど直接やりとりしていないんです。混乱させるだろうからとずっとヴェール姿で過ごしてました。ですが、わたしはファムさまがくろやみ国へ来る前までの記憶を“ファムさまの情報”として持っています。あの人はファムさまにとってとても重要です」
「それは今でもか?」
ヴェールで表情は見えないままハーシェは小さくうなずく。
「楽しいことも悲しいことも、嬉しいことも苦しいことも、多くの情報があの人物と繋がっているんです。先ほどのファムさまの混乱、本当は不安と恐怖でいっぱいの感情でした。ファムさまのあんな思いが伝わってくるなんて初めてで、わたしも怖かった。ヴィルヘルムスさんというのはファムさまの一部なんです。あの、白箔国に何かあったんですか?」
「まだ正確にはわからないが、内乱が起きている可能性が高いな」
ファムには明言までしなかったが、マルハレータは自分の仮説をハーシェに述べた。
「ヴィルヘルムスに何かがあったとして、助けたいか?」
「ファムさまはそう思うはずです。けれどそれはくろやみ国とは関係ない事だから、それをしないと思います」
「そこまで割り切る事は出来ていないだろうな。その矛盾がさっき伝わってきた混乱の大元だろう」
黒いヴェールが揺れる。
「矛盾なんて、なくていいんです。そんなもの」
ハーシェは足元を見て、その少し前方のかすかに見える波打ち際を見つめ、それから顔をあげた。
「そんなもの……ぶっとばしてやります」
「なんだって?」
予想外の言葉にマルハレータは思わず隣の影霊を見た。ヴェールの中の顔は見えない。
「もしかして怒っているのか?」
「怒ってないです」
ハーシェが反論しながら胸元で強く両の拳をにぎりしめたので、両肩の小さなザウトとラオリエルが転げ落ちそうになり身をかがめて踏ん張っている。
「ファムさまを守りたいんです」
「それは女王に創られたからか?」
「いいえ。ファムさまは影霊にそういったことを課していません。わたし自身の考えです」
最初の影霊はマルハレータをまっすぐ見つめる。
「あの二人、傍から見てもどかしいって思いませんか?」
「おまえそんな事考えていたのか。……そのあたりはおれの不得意領域だから、何も思いつかない」
マルハレータはやや目をそらしながら答えると再び両腕を組んだ。
「わたしは何とかしたいです。だからぶっとばしたいんです」
「そうか……」
マルハレータはハーシェの話を聞くうちに、自分の目の前にある問題が至極簡単なものに思えてきた。そしてそう思って向き合うと本当に単純なものだった。
「そんなことだったのか……確かにぶっとばせばいいだけの話だな。くっ」
マルハレータはあまりの可笑しさに声をあげて笑った。肩のブルムが驚いて飛び立つのも構わず快活に笑い、そのまま弾けるような感情の流れが静まってくると、様子を伺っていた影霊達を見る。
「そうだな、おれもハーシェの考えに同意しよう。そのためにはこっちでも出来ることをやっていくか」
晴れ晴れとした声でそう言うと背後を振り返り、離れた場所にある岩場へと迷いなく歩きだす。
「お前ら、ちょうど良いところにいたな」
◆
◇
その笑みにメールトは思わず見惚れていた。
暗闇から現れた鋭さのある視線がまっすぐ二人を見据え、歩くたびに銀色の髪が揺れ背後からの明かりで輝く。
装飾の少ない中性的な装いだが手足の細さや頬から顎にかけての曲線で女性だとわかる。それでも柔和さとは無縁の空気をまとい、さらには精度の高い法術の気配。
「幸運だなあお前ら。おれは今とても楽しい気分なんだ。半殺しにちょい足し程度で済ませるぞ」
女は法術師のグローブをはめた手を前に出す。
「さ、探ってたんじゃなくて、くろやみ国に頼みがあってお話が終わるのを待ってたんです! どうか聞いてください!」
メールトは射すくめられたように動けなかった。
だが隣りにいたエクレムが転がり出て声が裏返りつつも叫ぶように上司からの要望を告げる。
「料理か」
「ジェスルさんなら好き嫌いありませんし、あれならまだあったはずなので聞いてみましょう」
女の背後から遅れてやってきたヴェール姿のナハト代表はあっさりと要望を聞き入れ、地面にいた灰色の鳥に小声で何かを告げ始める。
「それだけか?」
二人が必死に頷くと、女はゆるりと人差し指を動かし、逃げられないようにと法術で手足を固定してきた。
「よし、次はこっちの話だ。そっちから一人連れてこい。他とは法術の色が違っている奴だ」
「い、色?」
メールトが理解できずにいると銀髪の女はわずかに目をすがめる。
「識別方法が違うのか……あー、お前たちの仲間で、おれの事を始めから監視してた奴いただろ」
メールトはエクレムと顔を見合わせるが、お互い心当たりがいない。
「ラオリエルがわかるそうです」
ナハト代表の言葉に女が頷く。
「そうか、なら頼む」
「ブルムとザウトも一緒に行ってください」
小さな影が三つ飛び立ち、暗闇の中へ吸い込まれるように消えていった。
「これについてはこっちで勝手にやるから、お前らの上司に伝えておけよ」
そう言ったきり女は腕を組んで海の方を見る。
手足の拘束は解かれることもなく、二人は残った三羽の鳥とナハト代表に見守られながら大人しく待っていると、風が変わる気配がして闇の中から黒い竜が現れた。




