二種目
翌日俺は学校内に設置されたミーティングルームにて新コーチの前ではっきりと宣言する。
「自分の走りで行きます」
彼女の小さな身体から発するオーラの様な物を感じつつも、俺は精一杯の反論を用意しそう言った。
立ったままの俺を前に、座りながら両肘を机に置き組んだ手を口の前に添え裁判官の様じっと見つめている。
「ふーーん、そっかそっか……」
そして彼女はそう俺に言うと、にこやかな表情で今度は値踏みするかの様に全身を見つめて来る。
「…………」
俺は黙って彼女の言葉を待った。
「私はねこのコーチ話を聞いてね、貴方の事を調べたの。でね、いてもたっても居られず直ぐに日本に帰ってきたわ……一応来年はかなりの契約オファーを貰ってたんだけどねえ」
「す、すみません」
プロのコーチしかもメジャークラス、一体それがいくらのオファーなのか想像もつかない。
「私はねえ、貴方の走りを買ってたの、いや掛けたと言ってもいい……ただどうしても気にくわない事があるの」
「──俺の走り……ですよね」
ここから始まる論争、俺は彼女に勝てるだろうか? いや、勝たなければいけない
「ううん」
身構える俺を見て彼女は大きく首を横に振った。
「──え?」
「うーーーん、あのさ、どうしてさあ、君……走り幅跳び辞めちゃっの?」
そう俺の100m復帰の始動は走り幅跳びからだ。
彼女はそれを知っていた。
「え? そ、それはあくまでも100の走りの練習の一環で跳んでただけで」
「それ! それよ、貴方のあの走り方は幅跳びがあっての走りでしょ? だったら辞めたら意味無いじゃん」
手の平を上に向け俺を指差し彼女は真剣な眼差しでそう言った。
「……あ」
そう言われ俺は自分が基本的に間違っていた事に気付く。
「確かに2種目は難しい、でもそれが貴方の本来の姿じゃ無いのかな?」
その問いに俺は少しだけ考え彼女が言っている意味を理解する。
「……俺の走りに失敗は許されない……つまり練習だとしても真剣にやらなければならない……走り幅跳びの踏み切りの様な集中力が必要って……事ですか……」
「それ、それよ」
「し、しかし……」
100mと走り幅跳びの両立は特に珍しい話ではない。
現世界記録保持者も両立していた。
しかし、それには圧倒的な力が必要……。
そんな考えを見抜く様に彼女はじっと俺の目を見つめながら言った。
「私はね、出来ると思っている。ううん、出来なければ貴方の走りは完成しないと思ってるの、もしも両立出来ないと思うなら……普通の走りに戻した方が良いってね」
「だから……そう言ったんですか」
「そうね、只でさえ100mにかなりの労力を割いているのにこれから2種目となると」
「──1日24時間では足りなくなりますね」
「あははは、わかってるわねえでも時間ってのは長くも短くも出来るって私は思ってる」
「ふ、相対性理論ですか?」
俺は冗談とばかりに苦笑しながら言った。
「そうね、それが私の仕事よ」
しかし彼女にとっては冗談では無かった様だ。
「……成る程」
俺は少しだけ考えると彼女をチラリと見た。
彼女は俺をじっと見つめニヤリと笑みをこぼした。
そして俺は椅子を持ち出し彼女の前に腰掛けると、そのまま二人で悪巧みをするかの如く陸上談義が始まる。
今まで俺の知り得ない知識を隠しもせず話しまくる彼女……いや新コーチ。
俺も自分の考えや知識を彼女に話しまくる。
お互い否定はせずに延々と……今まで経験した事の無い議論が続く。
その彼女の言葉で情報が繋がり知識へと変換されていく。
それは俺の中で快感となって行った。
「ところで……学校はどうするの」
一段落すると彼女は今後の話を始めた。
「……ですよね」
コーチは俺の事を全て知っていた。
俺の履歴も学力も学校の事もそして足の状態も。
「辞めるって事も選択肢に加えても良いと思う……」
「……それは」
「恐らく貴方は来年脚光を浴びる……スポンサーもかなり付くと思うわ」
「そうですね……でも」
「でも?」
「やっぱり高校生ランナーってのが一番の箔じゃ無いかなって、しかもうちの学校は文武両道で有名ですしね」
「かなりの茨な気もするけど」
「時間は増やしてくれるんですよね?」
「仕返し?」
「信頼です」
「貴方結構浮気性ね」
「まさか、俺は一途ですよ」
そう言うと二人同時に笑った。
その彼女の笑顔に昨日迄の不安が一掃された。
そしてこの日から……俺の地獄が始まる。
まあ、ある意味天国と言っても良いだろう。
陸上での地獄は俺にとっての天国だから。




