第4章 第32話 NTR
瀬田絵里。
花美高校三年生で、女子バレーボール部OG。元セッターで、超ヘタクソ。
そして何より。梨々花先輩の大切な人。だった。
それなのにこの人は梨々花先輩を嫌っている。異常に、とてつもなく、ひどく凄惨に。そして試合でわざと負けるという手段をとって関係性を終わらせた。
だからもうこの人は関係ないんだ。あたしたちには関係ない。
なのに、なんで、ここに――!
「それにしてもいい格好だね、環奈。とっても似合ってるよ」
楽しそうに笑ってあたしの髪を撫でてくる瀬田さんの手を首を振って払いのける。だが顎を軽く指で持ち上げられることによってそれすらもできなくなる。この人にこんな姿を見られるなんて。最悪なんて言葉では足りないほどに気分が悪い。
「むぅぅぅぅっ! うぅぅぅぅっ!」
「なーに言ってるのかわからないけど、ある程度は想像つくね。まぁ見てなよ、いいものが見られるから」
それだけ言うと瀬田さんはあたしから離れ、すたすたと前方に広がる紗茎学園の正面広場に歩いていった。
ていうかここ正面広場前だったのか……。その名の通り校門から真っ直ぐ進んだところにある芝生しかない広場。その立地のよさとは裏腹に、校舎や体育館に行くルートに面していないので人通りは少ない。
今あたしが括られているのは広場を取り囲むように作られたレンガ造りの道。後ろには木々が生い茂っており、広場が少し盛り上がっているおかげでどこからもあたしの姿は見づらいはずだ。高海さんのせめてもの優しさか……何か裏があるのか。
そもそもなんで瀬田さんがここにいるんだ。瀬田さんと紗茎はなんの関係もないはず。絶対におかしい。なにかがある。たぶん、あたしが関係しているなにかが。
その理由を考えていると、広場の頂上で姿勢よく立っていた瀬田さんの元に誰かが走ってきた。奥にある電灯のせいで少し見づらいが、かなり背が低い。髪型はポニーテールで……いや、もういい。本当はもうわかっている。シルエットだけであたしには十分だ。見間違えるはずがない。
梨々花先輩。
あたしが一番会いたい人で、今一番会いたくなかった人。
その人が。
「絵里先輩っ!」
あたしが一番嫌いで、梨々花先輩を一番嫌っている人に抱きついた。
「梨々花……ひさしぶりだね」
だいぶ目が慣れてしまったせいで二人の表情がよく見える。二人とも笑顔だ。梨々花先輩は心の底からの笑みを浮かべ、瀬田さんは心の底からの笑みに見える笑みを浮かべている。
「絵里先輩……絵里先輩だぁ……ほんとに、ほんとに……!」
ここと向こうの距離は結構開いている。本来なら声なんて少ししか届かないはず。それなのにあたしの耳に二人の声が嫌にはっきりとへばりつく。蕩けるような甘い声と表情があたしの鼓膜と網膜を焼き尽くす。
「わたし……ずっと絵里先輩に会いたかったんです……! ずっと辛くて……しんどくて……絵里先輩なら……わかってくれるから……!」
「うん。わかってるよ、梨々花。おいで」
瀬田さんが腕を広げると、なんの躊躇もなく梨々花先輩はそのない胸に顔をうずめる。その瞬間。梨々花先輩が瀬田さんの顔を見ることが物理的にできなくなった瞬間。
瀬田さんはこっちを見た。
勝ち誇るような、それでいてとても気持ち悪そうな形容しがたい表情で。
そして梨々花先輩の宝石のような美しい髪を撫でると、梨々花先輩は安心したのか次々と言葉を漏らしていく。
「わたしだめなんです……全然ヘタクソで……みんなに迷惑をかけて……」
「そんなことないよ。梨々花はちゃんとがんばってるよ」
「ルーティーンもずっとがんばってるけどできないんです……!」
「大丈夫だよ。梨々花ならきっとできるよ。梨々花はがんばってるから」
「わたしなんて全然才能ないのに勝手に持ち上げられて……もうやめたいんです……!」
「梨々花はすごいよ。だってがんばってるじゃん。天才だよ。梨々花は天才だから大丈夫だよ」
なんだこれは。
梨々花先輩のまったく具体性のない泣き言に、瀬田さんの大丈夫としか言わない雑な慰め。
内容がない。吐き気を催す会話だ。あたしが瀬田さんの場所にいたらちゃんと梨々花先輩の苦しみを解消してあげられるのに。
それなのに梨々花先輩の顔は満足気で、とても幸せそうだった。
あたしがどれだけ話しかけても、想っても、誘っても。そんな顔は見せてくれなかったのに。
なんでこんなくそみたいな言葉で満足してるんだ。あたしなら……あたしなら……!
「あぁ……。やっぱり絵里先輩だ……。絵里先輩しかいないんだ……」
梨々花先輩の瞳から涙が零れる。梨々花先輩だけじゃない。あたしも。泣いている。だって。
「環奈ちゃんじゃだめなんだ……。わたしのことを本当にわかってくれるのは絵里先輩だけです……!」
梨々花先輩は、あたしを裏切ったのだから。
「ごめんなさい……! 本当はわかってたはずなのに……! 絵里先輩を裏切って環奈ちゃんなんかに頼ろうとしてました……!」
なにを言っているんだ。なにを謝っているんだ。誰に謝っているんだ。
この人は――!
「絵里先輩。もう一度、あなたのためにバレーをやってもいいですか……?」
「うん、いいよ。でも私が近くにいると甘えちゃうだろうから遠くから見守ってるね」
今のあたしの全てが。
こんな適当でくだらなくてどうしようもない関係に掻き消された。




