39話 魔法使いにガラスの靴は必要ない。
その日は目が回るように忙しい日だった。
他国からの賓客のもてなしに王宮は数日前からてんやわんやで準備を進め、当日は厳重な警戒態勢を敷き、万全な状態で出迎える。
数日前の準備から雑用担当と化している私はあちこちから引っ張りだこだった。
「魔法使い様、ちょっとこっちに、」
「あ、デルフィニウム様こっちもお願いします!」
「デルフィニウム様、あとで見てもらいたいものがあるのでこちらにも寄っていただいて、」
使用人たちでは手の届かないところの掃除、手の回らない庭や廊下の微細な修繕、入り込んでいた妖精の追い出しに満身創痍であった。
そのうえ当日は警護担当として王太子妃、シンデレラの傍に朝から晩まで付いていた。
警護だけでなく準備、休憩時間のシンデレラの話し相手、身だしなみや振る舞いの指導まで込みであるため、一瞬も気が抜けない。王太子妃となっても相変わらず大らかで天真爛漫である。ピュアなのは大変結構なのだが、常識が著しく世間一般と離れている彼女がうっかり王宮に鼠や小鳥を招かないか、私は気が気ではない。いくら動物に好かれるお姫様であろうと、やって良いことと悪いことがある。
私が解放されたのは客も帰り、シンデレラの公務も終了した夜中だった。
王宮にあるシンデレラの私室から出て数分、魔法棟の待機所のソファで私は寝そべっていた。疲れすぎていて家まで帰る元気もない。
ずっと警護でついていたため公務終了と同時に解放された私と違い、他の宮廷魔法使いの面々は未だ王宮の後片付けに駆り出されている。
誰もいないのをいいことに3人掛けの質のいいソファを占領する。普段こんなことをすれば先輩方にひっぱたかれてしまうだろうが、今だけだ、と寝そべったまま机の上の飴やチョコレートを口に詰め込む。疲れ切った身体に糖分が染み込む。
だらしなく怠惰な格好でお菓子を貪り食う背徳感を味わっていると、いつの間にかうつらうつらしていたようで、誰かに揺さぶられ目を覚ました。
「何寝てる、カトレア」
「……うえ、お師匠……?」
「職場で寝るな。制服のまま寝転がるな。寝たまま物を食うな。甘いもの食べたら寝る前に歯を磨け」
「怒涛の小言……」
寝ぼけながら体を起こすとすっかり呆れたシモンの両目が私を見下ろしていた。
「だって疲れちゃったんですもん。シンデレラの傍にいると必然的に偉い人たちの目に晒されるから気を張ってないといけませんし、シンデレラは度々何かやらかしそうになるし、まともにご飯食べる時間もないし……」
「はあ……まあ今日はよく頑張ったな」
シモンが私をねぎらうなんて珍しい、と目を丸くすると大きな手が私の頭をかき混ぜるように撫でまわした。寝ぼけた頭で、意外と撫でるのが上手だと感じる。たぶんこの人は隠れて野良猫を可愛がっているに違いない。
「甘いもん食ってたみたいだが……腹は空いてるか?」
「えっ、空いてます空いてます! ごはん食べてないし、お菓子も食べ始めてすぐ寝ちゃったんで!」
散漫だった意識がしゃきっとする。これは完全にご飯をおごってもらえる流れではないだろうか。
以前、舞踏会の時も仕事が終わったらご飯を食べる、という話だったが私が昏倒してしまったため見事に流れてしまった。これはリベンジになるに違いない。そして高給取で王宮住のシモンが選ぶごはんがおいしくないはずがない。
さあどこへ! と期待に満ちた目で見ているとシモンは笑いながら私を抱き上げた。
「え、え? はい? 歩けますよ?」
「まあまあまあまあ」
「いやいやいやいや」
目を白黒させながらされるがまま魔法棟の外へ連れ出されると、入り口には美しい馬車が停まっていた。数頭の白馬は仄白く身体を光らせている。
「え、なんで馬車……、いやあれ馬じゃなくないですか? あれケルピーじゃないですか!?」
「先に帰ったものと思っていたからな。馬車で迎えに行くつもりだったんだ」
まるで会話になっておらず、相変わらず状況が把握できない。ケルピーの身体から滴る水が地面に落ちては光の粒になって消える。よくよく見れば御者も白髪にハット帽をかぶった背の高い精霊、アンクーだった。自分一人で会ったならどちらも出会った瞬間死が確定しているようなメンバー。しれっと呼び出して足にしようとしているその思考回路に戦慄する。
「ここのところ忙しくて食事に連れて行ってやれなかったからな。前にもいいもの食わせてやるって言っただろう。予約はしてある。行くぞ」
「あ、覚えててくれたんですね」
「好きなやつと話したことなら忘れんさ」
は、と声にならない感嘆が口から零れた。
紫色の目が楽しそうに私を見下ろす。
一度指を鳴らすと私の着ていた宮廷魔法使いのローブは控えめな装飾のドレスに変わる。
二度指を鳴らすと降ろしっぱなしだった髪が結い上げられ、髪飾りが添えられる。
シモンは私を抱えたまま馬車まで歩み寄ると、車内から靴を取り出した。
「あ、その靴って」
「前に欲しいって言っていただろ?」
それはシンデレラのガラスの靴を発注したブティックに置かれていた靴だった。
控えめな高さのヒール、可愛らしい刺繍の入ったショートブーツ。店頭で見た時よりも輝いて見える。
あの日確かに、舞踏会が無事に終わったら買ってやる、と言っていた。しかし舞踏会直後に昏倒していたことを考えれば買ってもらえる身分ではない。何より私ですらバタバタして忘れていたのだ。それをまさか覚えていて、本当に買ってくれるとは思ってもみなかった。
「覚えててくれたんですね……」
「当たり前だ。お前は王子が迎えに来るガラスの靴よりも、こっちの方が好きなんだろ? うっかり片方も落としてくれるなよ」
シモンは私を馬車の座席に腰かけさせると、履いていた仕事用のローファーを取っ払った。ごくごく自然に傅き、私の足を手に取り片足ずつ丁寧にショートブーツを履かせる。
視線を落とすとシモンの履いた革靴に皺が寄っていた。ああ、あんな高そうな靴で傅いては皮がだめになってしまう、なんてどうでも良いところに思考が飛ぶ。
「あの、お師匠、こんなにしてもらわなくても、」
「お前ももう気づいていると思うが、お前が無事だからと言って結婚の話をなかったことにしてやる気はない」
「え、え、なん、」
なぜ今その話を、と言おうとしたところで、目の前にシモンの顔が迫って言葉を飲み込む。
「流させてやる気も逃がしてやる気も毛頭ないってことだよ、カトレア」
「おししょ、」
真剣な深い紫色の眼差しから目が逸らせない。心音がうるさい。顔が熱い。
もう何年も近くで見てきた顔なのに、まるで知らない人のようだった。
「俺がお前をお姫様扱いしてやれてる間に、覚悟を決めてくれ。12時になったからって逃がしてやるほど俺は優しくないからな」
こんなに優しい表情をするなんて知らない。
馬車の扉が閉まると、ケルピーたちが走り出す。
「せめて帰りまでに俺のことを名前で呼べるようになってくれよ、俺のかわいい魔法使い」




