5-13 レオナルド・ボルジア
◆
――30年前、ヴァチカン。
「あ、ほら。お父様が凱旋なさってきましたよ、レオナルド」
母に言われレオナルドは顔を上げた。
けれど、周囲の大人達が邪魔で、8歳のレオナルドでは前が見えない。
父の晴れ姿を間近で見るため、大人達をかき分け前へ進んだ。
父が出征した時はいつもの仕事だと思っていた。暴動の鎮圧なんて簡単だと。
なのに、途中で暴徒達に捕らえられてしまったらしい。報せを受けた時は、それはもう言いようのない不安に駆られたものだ。
その父がようやく帰ってきた。
鎮圧の成功を祝して、今日はヴァチカンのメインストリートでパレードが開かれている。
そこに父が現れたのだと聞けば見ないわけにはいかない。
何度か押し返されながらも少年は人垣を突破し、人波の最前列に到達した。
銃を携えた兵達が目の前を行進していく。しばらく見ていると馬に乗った者達の列に変わった。中ほどの騎手達は赤黒い服を着ていて、彼らに守られるように1台の車が走っている。
車の天井を開け笑顔で手を振っているのこそ父、クラウディオ・アミルカレ・ボルジアだ。
「お父様!」
久しぶりの父にレオナルドは呼びかけた。けれど父には聞こえていないのか、こちらを見もしない。それがもどかしくて、構ってもらいたくて、レオナルドは通りに飛び出した。
騎手が慌てた様子で手綱を引き隊列が乱れる。
周囲が騒がしくなった。ようやく父がレオナルドの方を向いたけれど、その顔は歪んでいるように見える。
父の口が動き、近くにいた騎手が父に寄った。
父と同じ色の服を着た騎手は周囲に指示をだしながら動く。そうして、レオナルドの前で馬から降りた。
彼を置いて隊は進んでいくけれど、深紅の服の人物は気にしていないように片膝をつく。
「君は、ボルジア卿の息子さん?」
金髪碧眼のその人に尋ねられレオナルドは頷いた。目の前の男はにこりと笑い手を差し出してくる。
「ここは危ないから、少し下がろうか」
指摘されて周囲を見回してみれば、確かに隊列が進む邪魔になっている。
レオナルドが男の手を掴むと、彼は馬を引き歩き出した。ふと見た手綱を引く手には包帯が巻かれている。
「おじさん怪我してるの?」
「うん? ああ、これか。私は鈍臭いからね、君のお父上のように無傷では帰ってこれなかったよ」
困ったように男が笑った。
傷を負ってしまうような普通の人。それが、手を引く彼を身近に感じさせる。
「お父様はいつも僕を出来損ないって怒るんだ。今も無視されたし、嫌われてるのかな?」
「そんな事はない」
柔らかく言いながら、男がそっと目を伏せた。
「こんな時はね、大好きな子供が寄ってきてても相手してあげられないものなんだ。私に君を安全な場所まで連れて行くように指示なされたのはお父上なのだから、嫌われてなどいないよ」
「そうかな?」
「レオナルド!」
道の端に着くと母が駆け寄ってきた。彼女はレオナルドを抱き寄せ、共に歩いてきた男を見上げる。
「確か、デッラ・ローヴェレ卿でしたね。先日枢機卿に叙階されたばかりの」
「奥方にまで顔を覚えて頂いているとは光栄です。では、私はこれで」
デッラ・ローヴェレ卿は一礼すると、馬に乗り隊列の中に消えた。
「お父様の姿も見たし、わたくし達は屋敷に戻りましょう」
「はい。お母様」
伸ばされた母の手をレオナルドは掴む。賑やかなパレードが続く中、母子は帰路に着いた。
その日は教皇庁で晩餐会が開かれたらしく、父は帰ってこなかった。
翌日、久方ぶりに帰宅した父は終始上機嫌で、それは夕食を囲んでいる時も変わらない。
「暴徒鎮圧の功で特別褒賞が出るそうだ」
父がグラスを一気に空けた。
「まぁ、そうなんですか? ですけど、危ない事は控えて頂かないと。暴徒の手に落ちたと聞いた時は、命が縮まるかと思ったんですよ?」
「心配などいらんさ。私には神の加護があるからな。今度だって、怪我ひとつしてきてないだろう?」
空になった父のグラスに給仕がワインを注ぐ。注がれたそばから父はそれに口を付けた。
「ヴァチカンの外で、お父様は何をなさっていらしたのですか?」
肉を切りながらレオナルドは尋ねた。
父は自信満々にグラスを掲げる。
「神を恐れぬ背徳者達に罰を与えてやってきたのだ。再び決起など起こさぬよう、奴らの拠点も潰してきた。だが、命はほとんど奪っていないぞ? 彼らにも更生の機会くらいはやらねばならんからな」
「あなたは慈悲深いですね」
「神に仕える者として当然の行動だ」
ふふっと父が笑った。母が上手に合いの手を入れるものだから、ほろ酔い気味の父は延々と武勇伝を語っている。
小さなレオナルドは話をそのまま受け入れ、なんと素晴らしい父なのだろうと誇りに思った。
◇
その時が、レオナルドの中で父の好感度が一番高かった時だろう。
ル・ロゼに戻ると人伝に様々な話が入ってきて、暴徒の鎮圧戦において、父は何もしなかったのだと知った。
それどころか、凱旋パレードでレオナルドの手を引いてくれたベリザリオこそが、身体を張って乱を鎮めた功労者だと聞いた時は、立ちくらみがしたほどだ。
「おいレオナルド。お前の親父、デッラ・ローヴェレ卿に功績返してやらないのかよ」
口さがない生徒達が連日レオナルドをからかってくる。
「うるさい、黙れ!」
嘲笑から逃れるようにレオナルドはその場から去った。足音も荒く廊下を歩く。
(奪い取った功績を家の中で自慢するだけでなく、教皇庁にまで正式に報告するとか、どれだけ面の皮が厚いんだ!)
純粋に誇らしく思っていた反動か、父に騙されていた事を知った時の落胆は大きかった。落胆が過ぎ去ると嫌悪感だけが積み重なる。
(従軍していた兵卒から真実が漏れると考えていなかったのか? あの人は)
最初こそ話を否定していたレオナルドだが、話を聞けば聞く程に否定できなくなった。
父の話してくれた内容はとてもリアルで格好良かったけれど、だからこそ父には似合わないのだ。けれど、それをやったのがベリザリオだったのだと言われれば納得がいく。
パレードの日に見た金髪の枢機卿はとても毅然として見えた。何より、手に負っていた傷。あれこそが、実際に戦場を駆けた者だからこそ持つものだろう。
(あのひと格好良かったな)
なれるのであれば、父ではなくベリザリオのようになりたいと思った。
それが漠然とした目標になり、レオナルドは自らを甘やかすのを止めた。ベリザリオの修めていた成績には及ばなかったものの、勉学にも励んだ。
からかいの言葉は極力無視するようにしたら、からかわれる事も減った。
人々の興味はあっという間に他の話題に移り、レオナルドには平和な日常が戻ってきた。
◇
レオナルドも暴動の事を半分忘れながら2年が過ぎる。
けれど、突然に事件が起こった。
新聞記事を穴が開くほど読み返し、
「なんで今頃になって」
レオナルドは呻く。無意識に紙を握り込んでしまい、新聞が皺になった。
『チヴィタで決起を起こした首謀者を処刑』
そんな見出しが紙面に踊る。後に続くのは、一欠片の深みも無い父の言葉だ。
『一般市民の生活を脅かし教皇庁に刃を向けたのに、軽い罰のみというのは犯罪抑止としてよろしくない。彼には主のように皆の罪を引き受けてもらった』
こじつけのような、正論のような、そんな事が書かれていた。
納得しろと言われればできないこともない。けれど、腑に落ちない事柄の1つとしてレオナルドの記憶に残った。
◇
22歳。学生生活は終わりを告げ、レオナルドは教皇庁に入庁した。
職務の合間を縫って裁判所に通い、気になっている事を調べる。
決起の首謀者だけ極刑になった件が引っかかったままになっていたのだ。
最初、暴徒のほぼ全員に軽い刑が言い渡されていた。中心人物に近付くほど重くなりはしていたけれど、処刑の処の字も出ていなかった。
それが突然翻されたのは、なんともおかしい。
裁判記録や資料を読み漁り、関わっていた者を探して話を聞いた。
関係者の口は一様に重かった。それでも根気強く事件のピースを集め、事の真相が見えた時、レオナルドは誰もいない場所で壁を殴りつけた。
「何を考えておるのだ、あの下衆は!」
思わず怒鳴り声まであげてしまった。
急に判決が覆るだなんておかしいと思っていた。
蓋を開けてみればどうだ。
年若いベリザリオの意見に丸々流されるのが嫌だった父が、権力を振りかざして判決を捻じ曲げただけだ。
(我が父ながら、器の小ささが極まってるな)
溜飲が下がらずもう1発壁を殴った。
謝罪したくとも被告はとっくに処刑されたし、ベリザリオも既にこの世にいない。
何より、一番楽な場所で甘い汁だけ吸ってる男がのうのうと暮らしているのが我慢ならない。
(当主の座、譲り渡してもらうぞ親父殿)
決意を込め、血が流れるのも構わず壁を殴り続けた。
この後、レオナルドがクラウディオをヴァチカンから追い出すのに、長い時間を要することになる。




