8-16 招ぶ幻
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時間は少し遡り、エアハルトがディアーナのもとへと赴く前。
開いたジョエレの目に映ったのは無機質な天井だった。自宅、ではない。
寝起きの回らぬ頭で、自分が何をしている途中だったのか必死に思いだす。
(ちょっと休むつもりで椅子に座ったまま寝た気がするんだが)
休憩室、それもベッドの中にいた。
無意識にここまで来たのだろうか。意識が落ちる直前の記憶が抜け落ちているため、自分がどう動いたのか全くわからない。
気だるいながらも身体を起こすと空腹を感じた。喉もカラカラだ。
(ガッツリ寝てるくらいだから作業はキリのいいとこで止めてるんだろうし、今のうちに何か食っとくか)
珈琲を淹れ、冷蔵庫に入っていたパニーノで小腹を満たす。
足元が若干ふらついたのは身体が起ききっていないからだろうか。
寝足りないけれど、作業をあまり遅らせるわけにもいかない。食事を終えたら実験室に行った。
けれど、そこには誰もいない。
製作中だったものも全て無くなっていて綺麗なものだ。作業が終了している空気すら感じる。
「目が覚めたんですか」
背後から声が聞こえた。
振り返るとエアハルトが立っている。ジョエレと違って白衣は着ていない。
「なーんか、色々終わってるように見えるんだけど?」
「終わりましたよ。あとはオルシーニ卿にでも届けるだけで、そろそろ持って行こうかと思っていたところです」
近寄ってきたエアハルトがジョエレの左手を握る。ジョエレは驚いて眼鏡の手を振り払った。
「何しやがる!」
「随分元気になったようで結構です。ですが、痣の様子を観察したいので、左手の甲、見せてもらえませんかね?」
「痣?」
エアハルトが何を言っているのか分からない。ジョエレがなんとなく左手の甲を見てみると、見覚えのないくすみがあった。エアハルトも今度は触れず、首だけを伸ばしてくる。
「だいぶ薄くなりましたね。もう一押しというところでしょうが。体調はどうです?」
「さっきから何言ってんだ? てか、運び屋ウィルスさえ完成してれば俺がここにいる必要はねぇな。帰らせろよ。ベクターも俺が持って行く」
「まぁ、そう急がずともいいでしょう。きちんと説明しますよ。ここでは何ですから休憩室に行きましょうか」
そう言って彼は身を翻す。
仕方がないのでジョエレも続こうとしたけれど、相変わらずふらつきがある。壁に手を付きながら身体を支えていたら、いつからかエアハルトがこちらを見ていた。
「手を貸しましょうか?」
「いい」
妻の仇の手など借りたくない。それに、少しふらついているだけだ。
休憩室にも1人で戻れた。
けれど、短い距離を歩いただけなのに息が乱れかけていて、何かがおかしい。
椅子に座ったまでは良かったけれど、身を起こしているのがだるくて、机に突っ伏してしまった。
そんなジョエレをエアハルトが見下ろしてくる。
「あなた、《死神》の血に触れたでしょう? あれは猛毒でしてね。蝕まれて倒れたんですよ」
「《死神》の血?」
そんな物に触れただろうか。
(そういやちょっと付いたな)
左手の、ちょうど色が悪くなっている辺りだった気がする。
「血で汚れた部分には髑髏の死斑が出るんですがね、あなたの左手にそれがありました。解毒剤を打ったので大分薄くなりましたけど、あと1、2回射っておいた方がいいでしょうね。ある程度回復するまでゆっくりしていってください。ベクターを持って行った後でまた来ます」
言い置いてエアハルトが去ろうとした。
「待てよ」
その背にジョエレは呼びかける。そうして、首からネックレスを外し、差し出した。
「ディアーナのことだから、お前が普通に持ってっても受け取らねぇよ。こいつを見せて俺からだと言えば多分信じる。これもベクターと一緒にあいつに渡せ」
「随分と年期の入った品ですね。よく分かりませんが、そうするとしましょう」
エアハルトがポケットから透明なチャック付きポリ袋を出しネックレスを入れた。扱いは正直微妙だが、あの方が傷付かなくて良い……かもしれない。
「なぜ俺を助ける。お前達の仲間を殺したのは俺だし、復調すれば、お前を本気で殺しにかかるぞ」
「同じ組織に属しているからといって愛着などありませんよ。それに、私は、まだ、あなたの勧誘は諦めてませんし。死なれては困るんですよね」
どうということなく彼は返してくる。途中で、「ああ、そうそう」と、呟いた。
「幻覚には注意してください。視えるのは弱っている時ですからね。あっちの世界に引きずり込まれますよ」
その言葉を最後に今度こそエアハルトは去った。
意地を張りたい相手が消えたので、ジョエレはベッドに転がる。
(あっちの世界に招ぶ幻覚? 俺が視たのはそんなんじゃなかったぞ)
無理をしているジョエレを気遣ってくれる、優しくて懐かしい幻覚だった。彼らなら、幻だとしても、いつも近くにいて欲しいと思ってしまうような。
◇
それから1週間弱拘束され、謎の施設に連れて行かれた時と同じ要領で外に帰された。
もう遅い時間だけれどルチアの面会時間終了までには間がある。といっても時間ギリギリなので、ジョエレは急ぎ足で病院に向かった。
身体はすっかり軽い。病院にも疲れずに着いた。しかしながら、以前いた部屋にルチアがいない。
(治療が順調なら無菌室辺りかねぇ)
そんな気がして院内地図で目的の部屋を探す。
治療のためとはいえ、異物を体内に入れると拒絶反応が出る。それを抑えるために免疫抑制剤を併用するのだが、今度は、病原菌に対して身体の防衛機能が働かなくなるという不都合が出る。
そんな患者を収容するための部屋が無菌室だ。
廊下を歩いていると白衣姿のステファニアがいた。
向こうもこちらに気付いたようで、
「アモーレじゃん! 2週間以上もどこ行ってたの!?」
病院内だというのに大声で叫びながらすり寄ってくる。
「どこっつってもなぁ。ルチアの薬作るための研究所?」
「何その答え。全く答えになってないよ」
全くもってその通りなのだが、ジョエレもどこにいたのか分からないのだから答えようがない。困ったジョエレが鼻の頭を掻いていると、ステファニアが溜め息をついた。
「いいよもう。どうせ教えてくれないんだろうし。ルチアに会いに来たんでしょ?」
こっち。と、彼女は先導して歩きだした。行き先は予想通り無菌室で、病室に入るには滅菌が面倒臭い。なので、前室に備え付けられていた電話を使った。
透明なガラスの向こうにはルチアがいて、彼女もこちらに気付いている。内線を掛けるとすぐに受話器を取り、
「お見舞いに来るの遅いよ!」
ジョエレが喋る前に苦情が飛んできた。最後に会った時と違い声に力がある。作ったウィルスはきちんと仕事をしてくれているようだ。
「風邪こじらせて来れなかったんだよ。下手に近付いたらお前に移すだろうが」
「部屋に入らなきゃいいだけだじゃない」
「他の患者さん方の迷惑も考えてさしあげろ」
言った後で、病院だから病人が来てもいいのか、と思ったけれど、どんな状態だろうと近くに病人がいるのは嬉しくない。だから、言ったことは間違えていない。
いつもの通り普通にくだらない言い合いができて、ジョエレの口元に笑みが浮かんだ。
しおらしいなんてルチアらしくない。憎まれ口を叩いてこそルチアだ。
「また明日来る。夜更かしすると治るもんも治らねぇから、さっさと寝ろよ」
そう言って受話器を置こうとしたら、
「待って」
静止の声が聞こえた。
「何だ?」
「あたしのクマさん持って来てよ」
(……クマ?)
最初何の事だと思ったけれど、すぐに、ルチアがいつも抱いて寝ている巨大なテディベアだと思い至る。
ずばり言って雑菌の塊だ。その上、大きさのせいで滅菌が非常に手間だ。やりたくない。
「あんな滅菌できんもん入れられるか!」
「それをどうにかするのがジョエレでしょ!」
「病人だからって、我儘が何でも通ると思うんじゃねぇ!」
乱暴に受話器を置いて通話を終了した。
結局最後は言い合いになるらしい。




