8-13 死の宣告
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無菌実験台の前面シャッターに頭をつけた姿勢でジョエレが動かなくなった。
それ自体は別にいい。ただ、経過時間が長すぎる。30分も微動だにしないのだから、完全に寝ているのだろう。
あんな不安定な姿勢で熟睡できるとは器用なことだ。
「ジョエレさん。休むなら横になった方が効率的ですよ」
エアハルトはジョエレの元へ行き彼の肩を軽く叩いた。すると、ジョエレの身体が傾ぎ、床に倒れこむ。
「そんなに強く叩いたつもりはなかったんですが」
この程度の力も流せぬほど深く眠っているのかもしれない。
ならば、尚更横になって休むべきだ。
今の衝撃ならさすがに目を覚ますだろう。その時言ってやればいいかと思って、自分の作業に戻る。
けれど、数分経ってもジョエレが起き上がってこない。
1度は目覚めたけれど動くのが面倒で、そのまま寝たのだろうか。それはそれで邪魔だ。
「ジョエレさん。寝るなら休憩室で――」
叩き起こそうと再び彼のもとへ行き、様子がおかしいことに気付いた。
体調が悪いながら作業していたようだが、もはや隠せないレベルで息が荒い。赤い顔に手を添えるととても熱かった。
「こんな状態になったら仕事できなくなるじゃないですか。それくらいなら、きちんと休みながらやれば良かったんですよ」
それとも、あと少しで作業が終了するので、そこまでは持つと思ったのか。
何にせよ、ここで寝こまれると色々都合が悪い。面倒だが休憩室へ運ばねばならぬだろう。
とりあえずジョエレから手袋を外す。途中で、左手の甲にある特徴的な痣に気付いた。
「これは――」
それの意味する事に、エアハルトの眉間に皺が寄る。
「《死神》を殺したのはあなたでしたか」
彼女の血に触れた部分には髑髏の痣ができるという特徴がある。だから、すぐに分かった。
2週間ほど前、ナポリで《死神》が殺されていて、犯人は誰だと組織内で話題になっていたのだ。
修道女の仮面を被りながら猟奇殺人に明け暮れていた彼女のことだ。どういう経緯でジョエレと会ったかは知らないが、衝動を抑えられずに襲いかかったのだろう。
そうして返り討ちにあい、けれど、血だけは付けたのか。
彼女の血は遅効性の猛毒だ。
触れただけでも皮膚から浸透して身体を侵す。すぐに拭き取れば大した害はないが、接触時間が長いほど毒は深く身体に入り込む。
幻覚を伴いながら身体を蝕み、最後には死に至らしめる複合毒。並の医者では毒の成分すら特定が難しい。
いつだったか。
髑髏の痣は死の宣告だと《死神》が嬉しそうに話していた。
「倒れたのがここで、運が良かったと言うんですかね」
エアハルトはジョエレの身体を起こし、脇の下に身体を入れて持ち上げた。休憩室まで運んでベッドに寝かせると、実験室にトンボ帰りする。
冷蔵庫から1本の注射を取り出し、消毒液も持ってジョエレの傍に戻った。眠る彼の左手の甲を消毒し、そこに、持ってきた注射器の中身を射ちこむ。止血テープを貼って布団の中に戻した。
「《死神》の毒の解毒剤なんて、ここくらいしかありませんからね」
苦しそうに眠る男に目を落とした。
汗で少し湿ったジョエレの髪を数本掴み、そのまま引き抜く。サンプル袋に入れ、ついでに口腔粘膜も回収しておいた。
「私の君に似過ぎてるんですよね、あなた」
世の中には似た人間が3人はいるというが、ジョエレの場合、見た目だけならほぼベリザリオだ。最初会った時も似ているとは思ったけれど、会うたびに彼の他の面も見え、それがますますベリザリオを想起させる。
ベリザリオは古い人間だし、葬儀にも出されていたから、本人という線は無い。
けれど、子供という可能性は高く思える。
ベリザリオは奥方を溺愛していたが、彼だって男だ。他の女と遊んで、隠し子がいても不思議ではない。
「まぁ、契約料は先に貰ってますし、まずはマラテスタの令嬢の件を片付けませんとね」
手に入れた試料の分析はその後だ。
ジョエレの言っていた退行催眠の実験もしてみたいし、これが終わればしばらく楽しい時間が続く。
鼻歌を歌いながらエアハルトは作業に戻った。




