8-9 眠り姫の経歴
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ヴァチカンまで戻ってきたジョエレだったけれど、家に入れずにいた。
キーケースがダンテに預けたトランクの中で、鍵が無いのだ。
ルチアかテオフィロ、どちらかがいてくれる事を祈って呼び鈴を鳴らしているのだが、全く反応がない。
(2人とも仕事かね)
今日は水曜日。それも明るい時間となれば、その可能性が高い。
それならどこに行こうかと考えてみるが、選択肢は多くない。帰還報告もしなければならないし、教皇庁に向かった。
まっすぐ保健福祉局局長室に行き扉を叩く。
「どなたかしら?」
「俺」
「どうぞ」
部屋には運良くディアーナ1人だった。
「ジブラルタルに行った割には早かったわね」
ペンを置いた彼女は流しで珈琲を淹れ始める。ジョエレはソファに荷物を放り投げ、それをクッション代わりに半分寝そべった。
身体が妙にだるかった。
最近は時間を潰すのに困っていたくらいな気がするのだが、身体は重い。
思えばずっと敵陣だった。神経を張り詰めていたせいで気疲れしたのかもしれない。
それが、珈琲の香りで気が抜けて、表に出てきた。そんなところだろうか。
「ミルク多めで頼むわ」
「注文までしてくるなんて、いい身分ね」
皮肉を言いながらも彼女の出してくれた珈琲は注文通りのもので、優しい味だ。
「あなた、顔色が少し悪いけど大丈夫なの?」
「疲れてるだけなんじゃねぇかな。んで、ダンテは帰って来たか?」
「お陰様で。ああ、お土産ありがとう」
「どういたしまして」
ディアーナも自分の珈琲を持って対面のソファに座る。そうして、カップを両手で包んだ。
「帰ってくるなら使徒アンドレイナ達と一緒かと思っていたんだけど、あなただけみたいね」
「流れによっては合流するつもりだったんだが、そうにもいかなくなってな」
ジョエレは珈琲を飲んで一息つき、最後に連絡をいれてからの事を掻い摘んで話す。
あらかた話し終わった頃に電話が鳴った。
ディアーナが出ていたけれど、二言三言喋っただけで受話器が置かれる。
「病院に行くからあなたも来なさい」
唐突にそう言った彼女は珈琲カップを回収し、流しに置いた。
「なんだよ急に」
「こっちはこっちでごたついてるのよ」
車を回すよう手配し、棚から鞄を取り出す。
「ルチアが倒れたの。しばらく意識が無かったんだけど、目を覚ましたらしいから様子を見に行きましょ」
◇
重度の心臓病なら集中治療室にいても不思議ではない。けれど、個室だったのは意外だった。
中にはテオフィロとステファニアがいて、ルチアと何やら話をしている。ジョエレ達が来たのに気付くと、若者2人は黙って場所をどいた。
酸素マスクをしたルチアが力無い笑顔をジョエレに向けてくる。
「ジョエレ帰ってきたんだ」
「ついさっきな。あれほど無理はすんなって言っておいたのに、何してんだお前は」
「無理なんてしてないよ。ちょっと薬忘れただけ」
彼女の緑の瞳がすうっと細められた。
いつの頃からかカラーコンタクトを入れるようになって、最近ではめったに見ていない裸眼だ。染め直しの時期に倒れたのか、髪の生え際も地の金色が覗いている。
「あたしね、2人でテヴェレ川沿いのお祭りに行った時の夢見てたんだ。またどっか行きたいな、お祭り」
「起きたとたんにお得意のわがままかよ。……祭りねぇ」
こんな状態で行けるはずがないのだが、楽しみは病と闘う力になる。なので、耳当たりのいい答えを返してやりたい。
しかしながら、クリスマス、年始、公現祭と大きな祭りがあったばかりなので、ヴァチカンでの催事はしばらく無い。
「2月か3月にヴェネツィアで謝肉祭がある。それに連れてってやるよ」
「本当? 約束だからね。テオと2人で行って来いとか言わないでよ。3人でだからね」
「ああ。だから、大人しく寝て、さっさと治せ」
「……うん」
安心したように笑ってルチアは目を閉じた。その後は規則正しく胸だけが上下している。無理をして起きていたのかもしれない。
「これって、大丈夫な寝方なのか?」
「バイタルは安定してるし問題無いと思うわよ。喋り疲れたんでしょうね」
看護記録らしきファイルを見ていたディアーナがそれを元に戻した。
「ルチアの様子はもうしばらくあなた達で見てて。ジョエレ、話があるわ。部屋を変えましょう」
彼女が身を翻したのでジョエレも続く。
廊下に出ると隣室の扉が開いた。出てきた2人にジョエレの目が細まる。
随分と老いているが、30年前はマラテスタ家の当主であった夫妻だ。
マジックミラー越しにルチアの様子を見ていた。両室の位置的に、そんなところだろうか。
(あいつ、家の事は絶対口を割らなかったけど。仲違いでもして飛び出してたかね。んで、両親も顔を合わせ辛くて隠れ見てた、と)
ルチアの家族関係が見えた気がするが、家庭事情に口を挟むのは野暮なので黙っておく。ただ、この部屋に収容された理由は納得できた。
「ディアーナ、あの子は」
「容態は落ち着いたので大丈夫です。少し休まれないと、あなた方まで倒れてしまいますよ」
「娘を……ルチアを頼む」
マラテスタ夫妻はディアーナに頭を下げ、互いに寄り添いながら去って行った。
その後連れていかれたのはディアーナの私室だった。2人とも入ると彼女は鍵をかける。それから、段ボール箱から水のペットボトルを2つ取り出して、1つはジョエレに寄越してきた。
「本当はルチアが自分から話すまで待ちたかったんだけど。そうも言っていられないから、聞かれた事には答えるわよ」
ディアーナがソファに座る。
向かい斜めにジョエレも座った。
「あいつがマラテスタの人間なのは、まぁ、想定内だったんだが。喧嘩でもして家出中か?」
「家出かと言われれば微妙ね。ルチアの生活費にって、あなたに毎月渡してるお金があるでしょう? あれ、出元はマラテスタよ」
「公認かよ。だったら直接会えばいいだろうに、意味わかんねぇな」
ルチアだって両親の顔を見れた方が喜ぶはずだ。それをしないのなら、何か理由がありそうな気がする。
「あの2人、ルチアを娘って言ってたよな? 年齢的に無理がないか?」
マラテスタ夫妻は共に80を超えている。ルチアの年齢は今22。60を超えてからの子の可能性が高い。
旦那はともかく、奥方の年齢的に厳しい気がする。
「そう思うわよね。ルチア、あれで46よ」
何ともない事のようにディアーナは言ってくれたが、信じられない言葉にジョエレの思考が止まった。
彼女は手にしたままだったペットボトルの蓋を開け、ひと口含む。
「どこから話せばいいかしらね」
そうして、視線を宙に漂わせた。
「彼女が12の頃から私も治療に関わっていたんだけど、なんとも厄介な病気でね。延命はできても完治できなかったの。だから、彼女は年々弱っていってた。なんだけど、19の時だったかしら。急に快方に向かいだしたのよね」
(19……)
言われた歳は、ルチアと暮らし始めた時、彼女が申告してきた年齢だ。奇妙な一致がなんとなく気にかかる。
「マラテスタ夫妻が何か手を打ったんだろうと思ったんだけど、いくら聞いても教えてもらえなくて。でも、彼女が元気になったのなら些細な問題でしょ? 深くは追求しなかったの。だったんだけど、そのうち問題が出てきた」
「歳をとらなくなったのか」
そうとしか思えなくてジョエレは呟いた。
ディアーナの視線がジョエレをとらえ、頷く。
「そう。あなたと同じ。で、どうにかしてくれって泣きつかれたんだけど、原因も分からないのに手の打ちようがないじゃない? 何もできないでいる間にルチアが荒れちゃって、親子関係にもひびが入りだしてたから、一時的にうちで預かったのよ」
「なんでそれを俺に預けたんだよ」
「あの頃のあなたって、汚れ仕事ばかりし過ぎたせいか、1人が長過ぎたせいか、荒んでたじゃない? 誰かと一緒にいれば何か変わるかなって」
荒んでいた覚えのないジョエレとしては余計なお世話だ。それに、ルチアの意思は一切考慮されていないように聞こえる。
「あいつが道具みてぇじゃねぇか」
「ほら。本当のあなたは私なんかより優しいのよ。だから、上手く作用し合えば、互いのためになると思って。賭けではあったのだけどね」
苦笑したディアーナが肩を竦めた。
色々と反論してやりたい気がするけれど、ルチアが来てくれてから私生活が明るくなったのは確かだ。ジョエレは何も言わずに肩を落とし、背もたれに体重を預けた。
「ルチアが19の時の事、お前は何も知らないんだな?」
「残念ながらね。それが?」
「俺は、たぶん、そこの秘密に関する情報を持っている」
昔のルチアを治療したという男を知っている。殺してやりたいくらいの相手だが、そんなことも言っていられない。
「そうなの?」
「まだ分かんねぇ。けど、ひょっとしたら、あいつの治療ができるかもな」
ジョエレは重い身体を背もたれから起こし、少し前のめりになった。
「ジュダと話がしたい。刑務官無しで話ができるよう取り計らってくれ」




