8-3 足止め
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猛烈な寒気でジョエレの意識が戻った。毛布に潜り込もうと手を動かすが、どれだけ探しても目的の物に触れない。
仕方なしに目を開ける。
そこに見えたのは、土と、どう見ても自然状態の木々。
身を起こして周囲を見回してみても、あるのは樹だけだ。手入れをされた様子が皆無なので、公園ではなく森にいるのだろう。
(なんでこんな真冬に外で寝てんだ? てか、どこだここ)
身体を解しながら立ち上がった。下になっていた部分が痛むので、長い間ここで寝ていたのかもしれない。
冷たい空気を呼吸するにつれ思考が鮮明になっていく。
イベリア半島から脱出できたは良かったけれど、その手段が聖母還幸会の潜水艦を使うというもので、乗り合わせていた《戦車》に首を絞められた。
ここで記憶は途切れている。
(これ以上連れ歩くと都合が悪くなって捨てられたかね)
首を撫でた。
殺されていてもおかしくない状態だったけれど、それは免れたらしい。けれど、そうなると、今度はルクレツィアの言っていた"借し"で要求されるものが怖い。
しかし、それはその時に心配すればいい話だ。
なんなら踏み倒せばいい。むしろ踏み倒す。
それより、まずはこの状況を脱しなければ、助かった命を失ってしまう。
持ち物は銃と財布。
人のいる所まで辿り着ければ必要になるが、今は何の役にも立たない。大型獣に出会った時に銃は役立つかもしれないが、この季節なら冬眠してくれているだろう。
というか、していて欲しい。
(まずは開けた場所に出ねぇと)
傾斜の緩い森を登り始めた。
開けた場所にさえ出れれば太陽が見えるだろうから、時間と照らし合わせれば方角が分かる。居場所が特定できる何かが見えてくれれば、どちらに行けばいいのかも決められるだろう。
暗くなれば動くのは危険になるだろうし、足掻くなら陽のある今のうちだ。
水、食料、暖をとる手段、居場所。心配事は色々あるが、じっとしていて解決できるものは1つもない。
通常なら水の確保が最重要課題なのだろうが、水場は見受けられないし、汲み置いておく道具も持っていない。今は放置するしかない案件だ。
進む方向がこちらでいいのかは賭けだが、山で遭難した時は稜線を目指すというのは不変の定理で、それを信じるしかない。
島に捨てられていたらどうしよう、とか。
高い山を登り始めてしまったのでは、とか。
不安は尽きないが、自分ではどうしようもない事柄は強引に思考から締め出す。
少しでもカロリーを消費しないように、無心になるよう努めた。
半日ほど経っただろうか。ふいに森が開けた。
希望を込めて先を眺めて、空以外でまず目に入ったのは海。首を巡らすと、見覚えのある火山と海岸沿いに続く無骨な防護壁が見えた。
運良く知っている地域だった安心感からその場にへたりこむ。
「よりにもよってナポリかよ。どうせなら北イタリアに捨ててけっての」
贅沢な愚痴だと分かっていたが不平を零した。
今いるのはヴァチカンの南に位置する都市ナポリ、それの面する湾を臨む森のどこかであると断定できた。
けれどだ。
暖かい地域に落としてくれたお陰で凍死を免れていたのは分かる。分かるが、ナポリは恐ろしく治安が悪いのだ。できれば近付きたくないくらいに。
しかし、ヴァチカンに戻るにはナポリ駅から電車に乗らねばならない。
飲み食いもしたいし、いい加減服を買い換えてエセ司教からも解放されたい。
「我儘言ってもいられねぇか」
腹をくくりナポリ周辺を眺めた。
迷子にならないには海岸沿いを進むのが確実だろうが、被曝を避けるならそれはできない。
(やっぱ線路沿いかね)
街へ続くように線路が延びている。少し内陸部を走っている路線なので放射線も気にならない。うっかり海に近付いたりしないためにも、沿線路を進むのが最良だろう。
「さて、と」
呟いて立ち上がった。夜を明かせそうな場所を求め再び森へ戻る。
人が凍死する体温は27度。と言いながら、35度を切った時点で方向感覚が狂い思考力が落ちる。こんな場所に1人なのに、そんな状態になったりしたら死に直結する。
外気温が下がる上に休んでいる夜は特に危険だ。
そろそろ陽が傾き始めている。ナポリに明るいうちに着くなんて無理だ。とりあえずは今夜を乗り切るのに全力を注ぐ事にした。
木の下で夜露はしのぎ、落ち葉を掻き集め、それで身体を包んで寒さは耐えた。
喉は渇いていたけれど、下手なものを口にして腹を壊したら動けなくなる。目的地はそう遠くないので我慢した。
明るくなるとすぐに動き出した。
線路の見えた方向へひたすら森を下り、やがて平野に出る。うまい具合に目的の道にもすぐに乗れた。
無心で歩いているとナポリ市街地に入る。
見つけた衣料品店に適当に入り服を改め、ホテルをとってその日の移動を終えた。
ゆっくりと休めた翌日。ナポリ中心区にある駅に行った。
――のだが、
「おい」
柵の閉まった駅舎の前でジョエレは呻いた。
電車が終わっている時間ならともかく、朝から柵が閉じている理由など1つしかない。
ストライキだ。
柵にはストライキの期間が書かれた紙が貼られていて、それによると、今日から4日は動かないらしい。
ヴァチカンまでは2〜300キロあるので歩くには怠い。それに、たぶん、ストライキが終わってからの電車に乗った方が早く着く。
いっそ開き直ってソレントかアマルフィあたりでゆっくりするかとバス乗り場に行くと、こちらにもストライキの張り紙がされていた。
「同じ日にやるんじゃねぇ!」
つい、時刻表のポールを蹴りつけた。
自分の足が痛かっただけで終わった行為に嘆息し、その場から移動する。
明らかに粗暴な行為ではあったけれど、誰もジョエレに注意を向けない。
理由は簡単で、この街では珍しくないからだ。
物乞い、スリ、強盗、恐喝、売春、麻薬売買に偽札製造。本来は裏の世界を牛耳るだけのはずのマフィアが表の権力も握り、暴虐の限りを尽くしている。
通りには大量のゴミが捨てられ、そこかしこの壁にあふれているのは落書き。教会といえども例外ではない。
そんな街で公共物をちょっと蹴りつけるくらい、悪事のうちにも入らない。
(冬だったからまだ良かったな)
ゴミの発する臭いに顔を歪めながら通りを歩く。
分別されずに積まれているゴミにはもちろん生ゴミも含まれ、夏場にはゴキブリの温床になる。10センチ弱にもなる虫が路面に溢れ、空を飛ぶような地獄だ。
その昔は大層美しい街で「ナポリを見て死ね」と言われたらしいが、いつの話だと言い返したくなる。今の惨状では、むしろ「ナポリを見たら死ぬ」だろう。
国務省長官時代、この街は悩みの種の1つだった。
どうにかせねばとは思っていたけれど、街が荒れているのは数世紀にも渡る問題で、住民の生活にも食い込み過ぎていて、簡単にどうこう出来る問題ではなかった。
いつか、とは思っていたけれど、在任期間があまりに短くて、結局手付かずで終わってしまった。
それ以来来ていなかったのだが、この様子だと何も変わっていないのだろう。
思うところがあり旧市街に足を踏み入れた。道は一気に狭くなり、ペンキの剥げたマンションの間に物干し紐が渡され、大量の洗濯物がはためいている。
(つけてきてるのは3人か)
後ろの気配を確認し、それとなく人気の無さそうな道を選んで進んでいく。袋小路に入り込んでしまったようで引き返すしかなくなった時、
「よー。ここを通りたけりゃ、通行料が必要だぜぇ」
チンピラの決まりセリフを吐きながら3人の若者達が道を塞いだ。
「ふーん?」
危機感の欠片もなくジョエレは振り向く。そうして不敵に笑った。
「その通行料って、俺が貰う側だよな?」




