8-1 最後の一葉 ◇
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最後の一葉という話を知っているだろうか。
それは少女の物語。
絶望の淵から希望を掴む物語。
主人公である少女は、重度の肺炎のために生きる気力を失くしていた。そんな状態でただ日々を過ごしていくうちに、窓の外を見ながら言うようになるのだ。
「そこに見える壁を這う枯れかけた蔦。あの最後の1枚が落ちる時、私も死ぬ」
と。
日数の経過と共に葉はどんどん減っていく。その上、激しい風雨が一晩中吹き荒れた夜があって、葉は残り1枚になってしまった。
気圧の不安定な時期というのは荒天が続くもので、次の日の夜も強い雨風が叩きつけた。
けれど、その1枚は耐えた。
その様を見た少女は自らの考えを改め、生きる気力を取り戻す。そうして、奇跡的な全快を果たしたのだった。
◇
ルチアはその話が嫌いだった。
ベッドで伏せているしか出来ない彼女に、両親や兄弟、使用人達がその話をしていくから。気力さえあれば病に勝てると、根拠もなく、無責任に呼びかけてくるから。
幸いルチアは選帝侯の1家、マラテスタの娘だ。延命に費やす金だけは十分にあった。
だから、致命的な病なのに死なない。死ねない。
それでも病は少しずつ進行し身体を蝕んでいく。幼少時は屋敷の中くらいは動けたものだが、思春期にもなるとベッドから出られなくなった。
そうなってしまっては、窓から見える幸せそうな日常も、家人の話すお喋りも、希望を持たせるために語る未来も、全てが煩わしくなった。
興味を惹かれる事もあった。
だけれど、その度に身体が足を引っ張る。
嫉妬と苛立ちだけがどろどろと胸に溜まり、けれど、それを発散しようと暴れれば心臓が悲鳴を上げ。いつしかルチアは無気力になった。
外の情報に傷付けられるのを嫌がって耳を塞ぎ、ほとんど言葉も喋らなくなり、それがルチアから益々生きる力を削ぎ落とし。
19歳のある日、彼女の意識は暗く閉ざされた。
◇
ベッドの上で寝返りをうったルチアはぼんやりと目を覚ました。
起き上がり額を手で拭うと、しっとりとした汗で濡れている。
(なんか、嫌な夢を見た気がする)
内容は覚えていないけれど、身体がこれだけ緊張しているのだから悪夢だったのだろう。最近体調が悪いせいで弱気になっているのかもしれない。
「大丈夫。病気はもう治ったんだから、再発なんてしないから」
自らに暗示を掛けるように呟きながら枕元のテディベアを抱き締めた。小さい頃からいつも一緒のこの子を抱いていると、不安がすっと小さくなる。
ベッドの上でしか暮らせなかったルチアの、たった1人の友達。
時計を見たら9時を過ぎていた。下手したらテオフィロが仕事に出かけている時間だ。
「いけない、朝ごはん!」
慌てて縫いぐるみを放し、部屋着に着替えて1階に降りる。
台所には既に先客がいて、挽きたての豆のいい匂いをさせていた。ルチアの足音に気付いたのか、テオフィロがこちらを向く。
「おはよ。ちょうど珈琲淹れてるとこだから、座って待っててよ」
「あ、うん」
返事をしながらもルチアは脱衣所に行った。洗濯機を回すつもりだったのだが既に動いている。
何も出来ないままダイニングに戻り、椅子に座ると珈琲が出てきた。パンとクッキーの用意もバッチリだ。
なんとなく釈然としなかったけれど、ルチアはマグカップに口をつけた。
ルチアが寝坊してもテオフィロは何も言わない。黙って朝の家事を片付けてくれている。けれど、それだとルチアのやる事がない。
お前なんていらないんだと言われているようで、身の置き所がない。
なのに、
「ルチア。きついんだったら今日は寝てたら? 簡単なものくらいなら俺でも作れるし、買い物も行くからさ」
そんな事まで言ってくる。
「そんなに気を使わないでよ!」
だん、と、ルチアはマグカップを机に置いた。思ったより大きな音が出て自分でも驚いたが、今更どうしようもない。
「あたしは元気なの! なのに、そんな病人扱いされると病気になっちゃうじゃない!」
違う、そんな事が言いたいんじゃない。
けれど、口は勝手に言葉を吐き出して――。
居心地が悪くなって、ルチアは壁にかけておいた鞄を掴んで玄関に向かった。
「ルチア?」
「買い物に行ってくる。ご飯もちゃんとあたしが作るから。帰ってきたらアイロンがけもするから置いといて」
振り向かずに言い捨てて家を出た。
足早に家から離れ、ある程度たったら歩を緩める。
「何やってるんだろう、あたし」
ぽつりと呟いた。
テオフィロにとった態度に自分が情けなくなる。
家事を代わりにやってくれていた彼だ。礼こそ言われても、文句を言われる筋合いなんて無かったはずだ。
なのに、感情がごちゃごちゃになって止められなかった。
最近のテオフィロはとても優しい。ジョエレが長期いない間に何かあっては大変と、少しでも体力を必要としそうな事からルチアを遠ざける。
それが、真綿で首を絞められていたような過去を思い出させるのだ。
もう大丈夫だと思いたいのに、またあの生活に戻るのではないかと、仄暗い不安が思考に染み込んでくる。
何も気にせず動けて、普通に暮らせる楽しさを知ってしまった。その分だけ、寝ているだけの生活は辛い。
重い曇り空が気持ちを更に陰鬱にさせる。
「っくしゅっ」
くしゃみが出た。
勢いだけで出てきてしまったので部屋着のままだ。寒い。けれど、啖呵を切って出てきたせいで、すぐには帰り難い。
行く宛など無いが、少しでも温まるように適当に歩いた。
しかし、今は真冬だ。雪はほぼ降らないヴァチカンとはいっても、寒いものは寒いのだ。
結果、2度目のくしゃみが出る。
ところが、今度のくしゃみは寒いだけで終わらなかった。暖かい物がふわりと肩から掛けられて、
「そんなに薄着で寒くないの?」
どこかで聞いた事のある声が聞こえてきた。
くしゃみの勢いで下を向いていた顔を上げると、橙色の髪の青年が笑っている。けれど、そんな事を言う彼だって薄着だ。
でも、彼の腕はルチアの肩に回っていて――。
自分の身体を見てみると男物のコートが掛けられていた。着ていた物を、彼はルチアに譲ってくれたようだ。
「メルク、これ」
さすがに悪いと思って返そうとしたけれど、メルキオッレは笑って首を横に振る。
「いいよ。僕よりルチアの方が寒そうだったし。それにほら、僕にはまだマフラーがあるから」
そうしてマフラーに首をうずめた。
「ルチアはどこか行く途中だったの?」
唐突にそんなことも尋ねてくる。
「ううん。なんとなく……散歩」
「そうなんだ? 僕も散歩中だったから、一緒に歩こうか」
そっちの方が温まるし。と、先程までのルチアみたいなことをメルキオッレが言い苦笑する。特に用も無いし、コートを奪ってしまったのは事実なので、ルチアはこくんと頷いた。
「近くに庭園があるし、そこでいいかな」
そう言って彼は歩きだす。横を歩きながらルチアは彼を見上げた。
「メルク、今日も旅行?」
「うん? 違うけど、何で?」
不思議そうに彼が見返してくる。
「メルクって、旧スイス領とか、あっちの人かなって」
橙髪の彼とは去年の夏に旧スイス領で知り合った。だから、こんな所で会うだなんて、年初の休暇か何かでこちらに来ているのかと思ったのだ。
「残念。僕はヴァチカンに住んでるよ。っていうか、クリスマスとか年始にサン・ピエトロ広場に来たりはしなかったんだ? そこで僕、仕事してたんだけどね」
「そうなんだ? どっちも行ってないんだ。クリスマスはバタバタだったし、年始は家にこもってたから」
クリスマスのサン・ピエトロ広場は巨大なクリスマスツリーが立って、夜には教皇が民衆の前で祝辞を述べる。年始もツリーが無いだけで同様だ。
普段はないイベントだし、行きたいと主張したらジョエレに振られた。
テオフィロと2人で行って来いとも言われたけれど、ジョエレを置いていくのもなんか微妙で、結局仲良く家にこもったのだ。
そうこう喋っていると目的の庭園がある丘の麓に着いた。入口でメルキオッレが入場料を払っている。ルチアも自分の分は払おうとしたけれど、いいよ、と、すげなく断られてしまった。
「ねぇメルク。散歩に付き合ってくれるのはいいんだけど、仕事の時間大丈夫?」
最近休みがちなルチアと違い、彼はきちんと働いているはずだ。
クリスマスミサなどで仕事をしていたというのなら、教皇庁の職員なのかもしれない。
何をしているかはともかくとして、遅刻などさせてしまっては申し訳ないと、入園してしまった後で気付いた。
若干慌てぎみなルチアに彼は苦笑を向けてくる。
「お陰様で。うちの職場は日曜休みだから」
「……今日って日曜だったんだ」
曜日すら忘れてしまっている。
最近は、ジョエレが家にいる日が日曜くらいな認識に成り下がっていたけれど、それでも大雑把には把握していた。
その彼がしばらく家を空けて、そんな事すら分からなくなっていたらしい。
それに気付いた。




