7-24 古都グラナダ 後編
寝返りを打ったジョエレの身体に柔らかくて温かいものが触れた。気持ちいいので抱き込むと、それが腕の中で動き、唇に柔らかいものが当てられる。
ぼんやりとだが、キスされている気がする。
感触をしばらく楽しんだ後、
「そんなに攻めないでくれアウローラ。今晩は疲れ気味なんだ」
含み笑いをしながら彼女を組み敷いた。
何も考えず続きに移り、細い首筋に唇を這わせ――ていたところで急に意識がはっきりした。
アウローラはとっくに死んだ。
それにここはホテルの3階で、寝る前に戸締りだけはしておいた。
なのに部屋に侵入してベッドに潜りこんでくるだなんて、明らかに不審者だ。
絡みついてくるそいつを強引にベッドから追い出し、忍ばせておいた銃を向ける。
「いった〜い。楽しんでたはずなのに急になんなの? それに、他の女の名を呼ぶなんて失礼じゃないかしら?」
どこまでも舐めた言葉が飛んできた。床から起き上がったルクレツィアをジョエレはねめつける。
「どうしてお前がここにいる。鍵はかけといたはずだぞ」
「そんなのちょいちょいって開けてね」
そう言って笑う彼女の手には細い針が握られている。
「そしたらあなたが気持ちよさそうに寝てるじゃない? 暖かそうだから横に入ったら抱きしめてくれるし。キスご馳走様。続きも最後までやっていいのよ?」
毒を含んだ笑みを向けてくるルクレツィアにジョエレは発砲したけれど、弾は彼女の面前で止まり、下に落ちる。
やはり還幸会の連中に銃は通じない。それでも銃を下す気にはなれない。
「ふざけた事ばっか言うんじゃねぇ」
「あら、ふざけてないわよ。男の人って、1度やれば態度が軟化したりするじゃない? そのままアタシに溺れて、組織に入ってくれれば手間が省けていいんだけど」
「溺れねぇよ。それに、お前が俺に溺れるの間違いだろ」
「自信家さんね。嫌いじゃないわよ、そういう人。どっちが溺れるか試してみない?」
「くどい!」
直接弾は当てられないので、あらぬ方向に向けて銃を撃った。跳弾になった弾が部屋を回り、置物の1つに当たってそれを弾く。弾かれた置物はルクレツィアの近くを掠めたけれど、残念ながら外れた。
転がった凶器をちらりと見た彼女は肩をすくめ、ジョエレに顔を向けてくる。
「そんなに怒らないでちょうだいよ。せっかくいい話を持ってきてあげたんだから」
「いい話?」
「歩き以外での、この半島からの脱出手段」
思いもしていなかった提案にジョエレは反応に困った。
還幸会が脱出手段を保持している可能性は早い段階から気付いていた。そうでなければ、こんな時に支部に戻ろうだなんて思えないはずだからだ。
最悪それを奪う事も考えていたが、最初からそれありきで動くと無かった時が辛い。だから、自力でもどうにかできる手段を求めたのだ。
「それが本当だとして、なぜ俺を助ける?」
「だってあなたはエアハルトが欲しがっている人ですもの。愛する上司の願いは叶えてあげたいじゃない?」
ルクレツィアがソファの肘掛に腰を下ろした。先ほどから持っている赤い針をくるくる回し指遊びをしていたかと思うとジョエレに向けてくる。
「それにね、アタシ、クラウディオ様からあなたの殺しも請け負ってるの。こんな所で殺しても有耶無耶にされて報酬渋られそうだし。どうせなら、ゆとりのある時がいいわよね」
(それを殺害対象の俺に教えるのはどうなのかね)
思ったけれど、彼女の話はまだ続いていたので黙って聞く。
「あとは、今のうちに恩を売っておけば、後で返してもらえるかなって」
もの言いたげな視線をジョエレに向けてルクレツィアが立ち上がった。そのまま出口へ歩きだす。
「宮殿で待ってるわね。あんまり遅くなると先に行くから気を付けて」
言葉だけ残し、扉が開閉した音がした。
暗い部屋の中、ジョエレはしばらくベッドの上で膝を抱えていたけれど、やがて動きだした。浴室だけ明かりを点け、温度設定をわざと高くして頭からシャワーを浴びる。
ここにきて、周囲に蜘蛛の糸を張りめぐらされている感じが一気に強まった。
エアハルトやユーキはまだいい。あいつらもムカつきはするが、力技ではね返せる。
けれど、あの女は駄目だ。
周到に動いて罠をはり、こちらが身動き取れなくなるよう仕向けてきている。どこかで悪循環から抜け出さないと、昔を繰り返してしまいそうだ。
湯気に曇った鏡が目に入った。
手で曇りを取り、写った自分の顔を眺める。
ディアーナが指摘していたが、髪の色が明るくなっている気がした。髪につられてか、瞳の色まで薄くなっているように見える。
こうなってくると、ベリザリオのそっくりさんになっていたはずの顔も、以前の顔に寄って見えるので胸糞悪い。また不幸な出来事が起こってしまうのではと、いらぬ錯覚まで覚えてしまう。
「もう、あんな思いはしたくねぇんだよ」
奥歯を噛み締めながら、鏡に拳を打ち付けた。
浴室から出たら夜中の3時だった。
それから寝直し、もう眠れないというまでベッドに潜り続ける。嫌々ながら起きたら昼前になっていた。
寝汗を流し簡単な食事を摂る。栄養の偏った食事が続き過ぎているので、事前に失敬しておいたビタミンとミネラルの錠剤も飲んでおいた。
「熱烈なご招待も受けたし、行くかね」
いらない荷は全て置いてホテルを出た。
指定されたアルハンブラ宮殿は1キロ弱に及ぶ丘の上にあるので、グラナダにいればどこからでも見える。むしろ、アルハンブラ宮殿と括られる建物群のどこに行けばいいのだと毒づきながら丘を登った。
建物の立ち並ぶ平野地帯に着くと屋内を巡りながら進む。
細い柱の上部に施された鐘乳石を彫り込んだ微細な装飾や、タイルを敷き詰めて描かれている緻密な模様。イスラム建築の粋を凝らして建造された建物は、ヨーロッパ文化とはまた違って面白い。
今では数少ない他文化の建造物だというのに、地震の影響で柱が折れ、タイルが剥がれている部分が散見されるのが残念だ。
直線や四角形になるよう生垣や池が配置された庭を歩いていると、向こうからルクレツィアがやってきた。
「随分ゆっくりしたお越しね」
「誰かさんが途中で起こしてくれたもんでな。寝直したらこんな時間になったんだよ」
「ふぅん。なんていうか、肝、据わってるわよね? もっと地震に怯えて神経張り詰めててもよさそうなのに」
身を翻した彼女にジョエレも続く。
ルクレツィアはジョエレの肝が据わっているととったようだが、それはちょっと違う。命に対する執着が薄いのだ。
どうせ1度捨てた命だ。何か、為になる事と引き換えに出来るのであれば惜しくはない。
だから、やらねばならぬ仕事の中で、一番危険度の高い役割を引き受けられた。
今そんなに慌てていないのは、駄目だったらそれまでと、達観している部分が大きいからだろう。
「で、ここに来たかった用は終わったのか?」
「お陰様で。だからあなたも誘いに行ってあげたのよ」
「そりゃぁどうも」
半壊している建物の横を通り、たまに回廊を突っ切ってルクレツィアは進む。
「誰とも会わねぇな」
ふと気になって尋ねた。
支部の1つだと言っていたし、これだけ広大な宮殿を維持管理するには相当の人手を必要とすると思うのだが、誰一人としてすれ違わない。
「それはそうよぉ。みんな避難させた後だもの」
そうか、と、ひとり納得して、それ以上問いはしない。
答えとしては予想の範疇だった。ただ、ここに残っている避難手段というのが大規模輸送できるものではないのだろうと、不確定要素の選択肢を狭めておく。
「ねぇ、凄いこと教えてあげましょっか」
歩みは止めずにルクレツィアが振り向いた。
「なんだ?」
「この街の住人ってね、実はほとんどがうちの組織の人間だったのよね」
彼女の発言に、ジョエレは丘の下に広がる市街地に視線を向けた。
眼下の街には大学や大聖堂も見うけられ、一般的な街と何も変わらない。住人のほとんどが凶悪な還幸会の構成員だと言われても、納得するには常識が邪魔をする。
「ここには教皇庁から派遣された司教もいたはずだぞ。彼らの目もすり抜けていたってのか?」
「そんなの余裕よぉ。生活はあなた達と変わらないもの」
広い円形広間の中心にあるライオン像の口の中にルクレツィアが腕を突っ込んだ。中から鎖を引っ張ると、音を立てて床の一部がずれ、下り階段が現れる。
それを下り、感知式の明かりが灯る通路を彼女は進む。
「気付かなかったの? イベリア半島は聖母信仰が強い。だから、表向きは聖母を崇めているアタシ達とは親和性が高いの。暮らしやすい場所に落ち着くのは人として普通でしょう?」
気付けるはずなどない。
ただでさえイベリア半島は遠くて本庁の目が届きにくく、細かい事は見落としがちなのだ。
けれど、この地に聖母信仰が根強いのは確かだ。
街として経済活動を行っていたから資金も安定して調達でき、金を食う技術開発も独自でできた。
彼女の話は頷ける要素が多過ぎて否定などできない。
同時に、自らが潰そうとしている組織の大きさに、ジョエレの背を冷たい汗が伝った。




