2-1 貧民街の青年 前編 ◇
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旧イタリア領ヴァチカン。
時の権力者と反目したことから、独立して国家樹立まで成し遂げてしまった宗教の総本山である。
時は流れ――
5度に渡る世界大戦の末に主要大国が滅び、奇跡的に戦火を免れたヨーロッパだけが人類の生存可能域となっている28世紀現在。行政の中心地にまでなっている。
機能が多くなれば集う者も増える。
ヴァチカンと呼ばれる地域は拡大していき、その過程で職を求める者も数多く流入した。彼ら全員が職を得られるはずもなく、貧困層が生まれ、貧民街が形成された。
そうしてできたゴミ溜めのような場所が青年にとっての全てだった。
物心ついた頃には貧民街の孤児院で暮らしていた彼にとって、小綺麗な中流街や、厳粛な教皇庁周辺は遠い世界だ。
普通は、そちらの住民になりたいと望むのかもしれない。けれど、貧民街しか知らない彼は、そんなこと欠片も望まなかった。
ひたすら自堕落に、暴力に明け暮れながら過ごす日々だけが流れる。
それすらも面倒臭くなってくると、やる気なく路地で座り込む日が増えた。
そんな青年を見ている視線が現れたのはいつからだろう。
気が付けば、肩より少し長い所まで黒髪を伸ばした女が青年を見ていた。彼女との距離は遠い。それに、姿を確認したと思った次の瞬間には去っている。
ただ、日に日に、彼女が近付いてきている気がした。
「ねぇ、あんた」
そして、ついに彼女が話しかけてきた。
青年は地べたに座り込み俯いたまま、少しだけ視線を上げる。
「犯すぞ。消えろ」
普通に威嚇した。
丁寧にアイロンがけされた服を着ている彼女はどう見ても貧民街の住民ではない。あまり話をしたい人間ではなかった。
けれど女は退かない。それどころか、しゃがみこんで青年の顔を覗き込んでくる。そして言ったのだ。
「やっぱりあんたがいいかもね。磨けばそこそこ光りそうだし」
と。
人身売買の商人かと思った。
孤児院の子供が突然いなくなることはたまにある。大人が拐われるなんて聞いたこと無かったが、どうやら、自分にお鉢が回ってきたようだ。
命や身体に未練も執着も無い。ただ、大人しく拐われてやるのは癪だった。
だから、頭突きを食らわしてやるつもりで、急に身体を前に出した。
それを女はひらりとかわす。
「危ないわね!」
さすがの彼女も機嫌が悪くなったようだ。けれど、すぐに口元に指を添え、
「あー、でも。これくらい元気な方がいいのかな」
ぶつぶつ言い始める。黙ったかと思うとこちらを向き、腕を後ろで組んで上半身を横に傾げた。
「ねぇ、あたしのペットにならない?」
「は?」
女が何を言っているのか理解できず、青年は惚けた。こちらの困惑など無視して彼女は近寄ってくる。
「3食昼寝付き。ついでに勉強も教えてあげる。こんな所で腐ってるより生産的じゃない? 返答は?」
「……」
美味い話に聞こえた。だから即答できなかった。
美味い話には裏がある。子供だって知っていることだ。自分は大丈夫だとたかを括って、身を滅ぼした馬鹿も見てきた。
断ろうと口を開きかけた時、ガンっと、鈍い音が鳴った。
音の方に目をやると、女が青年の股の間の壁を蹴りつけている。
「返事は?」
幾分低くなった声で彼女が答えを求めてきた。
「……はい」
青年の意思など無関係に口が勝手に返事をしてしまった。
女は満面の笑みを浮かべ、くるりと身を翻す。
「引き受けてくれて良かった。他の候補探すのも面倒だったし。じゃ、帰りましょ。先ずはシャワーね。それが終わったら髪を切って、服も買いに行かなきゃ」
こちらのことなど見もせず、彼女は楽しそうに予定を上げていく。
(わけが分からない)
女に付いていきながら青年は思った。
彼女の上げる今後の予定を実行すれば、随分と人並みな外見になれるだろう。食事と教育までついてくるというのだから、孤児院での生活よりずっと恵まれている。
だからこそ不安が拭えなかった。
信じて裏切られるのは辛い。それが身に染みていたから、彼女の善意なんて信じられなかった。
(折を見て逃げればいいか)
それまでは、彼女に隙を作らせるために従順な振りをしていればいい。




