090.【行動】の功、「【成功】」の虚(第2回)(2023.02.11)
いつもご覧いただきまして、誠にありがとうございます。中村尚裕です。
私、このところ『【行動】に宿る【価値】』というものについて【考察】を巡らせております。
『【成功】を望む人』というのはいくらでも見かけますが、しかしながら【行動】が伴わないことには、【成功】なるものが手に入る道理はありません。
その一方で、『【行動】そのものを【恐れる心理】』というものは、確実に存在しています。
ですが、ゆえにこそ小さくとも【行動】で【恐れ】を退けていく、という【過程】に私が小さくない【意義】を感じているのもまた【事実】です。
今回はこの厄介な『【行動】そのものを【恐れる心理】』の【背景】について、【考察】を巡らせてみるとしましょう。
◇
さて、ここで。
私の【経験】からすると、『【行動】そのものを【恐れている】』状態の【背景】として思い当たるものが存在します。
・「【失敗】したくない」という【心理】
・「どう【行動】したらいいか分からない」という【心理】
このうち前者は『【成功】して当たり前、【失敗】は許されない』という『【余裕】のない【価値観】』に苛まれると陥りがちな【心理】です。
後者はそもそも当然のことで、『分からないから【実行動】にて【観測】するしかない』というのが【現実】です。そもそもの話、「“【自分】という【個性】”に合った生き方を教えてほしい」などと願っても、“【自分】という【個性】”のコピィなど存在するわけがないわけで。詰まるところ『“【自分】に合ったやり方”は、最終的には“【自分】で【開発】”するしかない』ということになりますね。つまり【試行錯誤】は【大前提】なわけです。
が、ここで前者、「【失敗】したくない」という【心理】が絡んでくると、さてどうでしょう。
【試行錯誤】は【錯誤】、つまりは【失敗】があって当たり前です。正確には【失敗】というより『【試行】という【観測行為】』を通して得られた【経験】、言うなれば【観測結果】を元にして、“【自分】に合ったやり方”を構築していくものです。そこで【失敗】を【忌避】してしまうと、「【成功】以外の【行動】は取りたくない」ということになりますね。
ところが【試行錯誤】以前の【状態】では、『どうすれば【成功】できるのか』、それどころか『【成功】とはどういう【状態】を指すのか』すら分からないのが当然です。となると『【失敗】しないために』、「どう【行動】したらいいか分からない」という『【堂々巡り】の【論理】』が成立することになります。これではいつまで経っても【行動】などできませんね。
詰まるところ、「【失敗】したくない」という【心理】が、『【行動】そのものを【恐れている】』【心理】の根底にありそうだ――という【推測】が、ここに成立することになります。
さて、「【失敗】したくない」【心理】に考えを巡らせるとき、頭に浮かぶ【言葉】があります。
・『【失敗】は許されない』
【創作】はもとより、【現実】においても、非常によく接触する【言葉】であり【概念】と、私は【認識】しております。何なら日本人の多くはこの【概念】が大好きなのでは――と勘ぐりたくなるほどに。
これで『【行動】そのものを【恐れている】』【心理】について【記述】を試みるなら、『【失敗】は許されない』という【概念】が『【結果】の分からない【行動】に【抵抗】を覚える、【抵抗感】をブーストする』という【状態】を招いている――という【推測】が成り立つことになります。
では、そも『【失敗】は許されない』とは、どのような【概念】か――というところに興味が及びます。
『【失敗】は許されない』を言い換えてみましょう。
これはまず『【絶対に】【成功】しなければならない』ということになります。
が、これだけでもありません。これに加えて『許されない』とまで強い【表現】を入れるからには、『許されないがために【罰】が与えられる』、という【意味】も込められている――と捉えることもできますね。
要は『【成功】を【絶対に】【要求】する』のみならず、『【失敗】したなら【罰】を与える』という【概念】なわけです。
ここから読み取れるのは、『【実行者】を【見下し】、なおかつ【徹底】して【寛容】を【拒否】する【姿勢】』です。これでは『【実行者】が重い【罪】でも背負っている』かのような扱いですね。でもなければ、(『【失敗】は許されない』との)【発言者】は何をやって、これほどまでの【格差】を、言い換えれば『【罰】を与える【権利】』を、【獲得】するに至ったのでしょうか。
さて、ここで【持論】を。
【絶対に】という【概念】を多用することは、容易に【不誠実】な【姿勢】に繋がります。
上記『【失敗】は許されない』、つまりは『【絶対に】【成功】しなければならない』という【論理】に合わせて、【考察】を展開してみましょう。
まず『【絶対に】【成功】しなければならない』という【論理】に含まれる【絶対に】とは、『(望む)【結果】(のみ)ありき』という【概念】を内包します。
つまりは『望む【結果】以外のものを見ていない、考えていない【要求】』であるわけで、これは即ち『【過程】も、【想定外】の【可能性】も、致命的に軽んじている』ことを露呈する【概念】――ということになりますね。
つまり『【失敗】は許されない』とは、『【結果】が全てを決定付ける』という【概念】に基づき、さらには『【過程】の【検証】も【正当性】も含め、あらゆる【前提】を【無視】する』、しかも『【失敗】は【罰】に値する』わけですから『いかに【不当】であっても【手段】は問わない』わけです。
要は『いかなる【犯罪的手段】を用いてでも、【絶対に】望む【結果】を【実現】せよ。【前提】条件など知ったことではない。さもなくば【実行者】を【罰する】』という【発言者】の強烈な【意図】が、『【失敗】は許されない』の背後には覗いているわけです。
◇
さて、今回は一旦ここまで。
個人的な【観測】の範囲内とはいえ、これほど強力な【概念】が横行しているとなれば、「【失敗】したくない」、「(【失敗】を避けるために)どう【行動】したらいいか分からない」という【心理】が喚起されるという【現象】にも【説得力】が伴います。
しかしながら『【行動】なくして【成功】なし』という【事実】は、それ以上に揺らぎません。
ではこの『【失敗】は許されない』という【概念】が、それほどまでの、つまり【強権的】な【正当性】を持っているのか――という点が【焦点】として気になるところです。
次回は、この【正当性】に【考察】を巡らせてみるといたしましょう。
よろしければまたお付き合い下さいませ。
それでは引き続き、よろしくお願いいたします。




