079.【上手】の【呪縛】、「好き!」の【救済】(2021.03.06)
いつもご覧いただきまして、誠にありがとうございます。中村尚裕です。
私、よく眼に(耳に)する疑問があります。
『【上手】って何だろう?』『どうしたら【面白く】なるのか解らない』
この疑問、発しておいでの方の中には、ある程度以上の好評価を周囲からいただいている作者さん――というケースもよく見られます。ですが作者さんご自身では、評価されるその背景に納得していないと申しますか、「同じような好評価を、別作品ではもらえなさそうで怖い」と感じておいでな節を私は感じ取ります。
ここで技巧を持ち出して【上手】や【面白さ】の存在であるとかその実現方法であるとかを語ったり、あるいは作品が備える美点の数々を褒めたりするのはよく見かける光景ですが。
最近になって、私が思い至った【仮説】があります。
【仮説】『【上手】とは、決して自ら成れるものではない』
なぜかと申せば。
【理由】『【上手】とは、【他人の主観】であるから』
【他人の主観】、即ち他人の心は操れません。ある程度“誘導”はできますが、他人はあくまで他人です。心と心の間に隔絶を抱えているからこそ【多様性】や【個性】、それに【思考の自由】は成立する道理です。
なので【上手】とは、作品などの過程はともあれ、最終的には【他人の主観】に委ねるしかないことになります。
この辺り、【他人からの評価】にも通ずるところがありますね。獲得できるように作者側は努力を積み重ねるとして、それでも最終決定権を持つのはあくまで【他人である観客】というわけです。
つまり【上手】とは、操ることのできない【他人の主観】であって、「自分の力『だけ』で手に入れて確定しよう」と足掻けば足掻くほど沈んでいく底なし沼――とも言い換えることができそうです。
では救いの道はないのか――といえばそうでもなくて。
私の考えますところ、まずは「【他人】は【他人】、【自分】は【自分】」という認識を大前提として持つのが第一段階。
要は『心の相互不可侵』とでも申しますか。【思考の自由】を【互いに認め合う】スタンスが大切であろう――と私は考えるのですね。
その上で。
「『自分はこれが【好き】』という思考は、他人に侵略されない【自分の主観】」という認識を持ってみるわけです。なにせ【思考の自由】を認めているわけですから、他人に自分の【好き】を侵略される理由など、これっぽっちも存在しないわけです。
そして『【好き】こそものの【上手】なれ』と申します。【好き】で磨けばこそ、他人から【上手】に観られることもありましょう。
そのためには【観客としての自分】を鍛えてみるのもまた一手。
【作者】としてだけではなく【観客】という立場からも自作を眺めてみた上で、その上で「【上手】」と思えたのなら――という考えです。しかもその審美眼が、自ら厳しく鍛えてあるとしたならば。
言葉にしてみるなら『自分に対する【承認】』ですね。
自分に嘘は通用しませんので、評価基準が低かろうと高かろうと自分自身には筒抜けです。逆に自分を全力で鍛えてみたなら、その時は『自分と【戦友】になれる』と申すもの。自分に対して引け目がなければ、【他人】に対しても胸を張れるであろう――という目論見です。
そうやって『【観客】として鍛えた【自分】』に自作を認められたなら。その時こそ【他人】の語る【上手】の基準に振り回されない【信念】を胸に抱けるのではないか――などとも考える私なのでした。
よろしければまたお付き合い下さいませ。
それでは引き続き、よろしくお願いいたします。




