070.創作を好きで居続けるために(2022.12.10)
いつもご覧いただきまして、誠にありがとうございます。中村尚裕です。
私、Twitterで開設中の質問箱へご質問をいただいております。
ご質問の内容は『どうしたら書くことを好きで居続けることができますか?』と申すもの。
このご質問、私としても重く受け止めております。
恐らくは当てはまる方も多いでしょうし、同時に決して軽くないお悩みでもあるからです。
別途私なりのご回答を差し上げた内容ですが、その内容を以下にご提示します次第です。
創作を好きで居続けるための考え方、ご参考にしていただけましたら幸いです。
◇
ご質問ありがとうございます。
以下長文ですが、お悩みに対する上では必要な内容となりました。
よろしくお付き合いのほどを。
一時は、私も書くに当たって義務感に足を引かれたことがあります。
私の場合は、主に『書きたい内容』を繋ぐ『隙間』に当たる部分でのことでした。シーンや要素など、『書きたい内容』は頭にあるわけですが、そこに必然性を持たせるためには『隙間』もしっかり埋めなければならないものです。
この『隙間』、往々にして書く気力を著しく消耗するもので。
今にして振り返ってみれば、理由は大きく二つあるように思われます。
一つには、『書きたい内容ではないこと』(※1)。
一つには、『そこで書いた内容が、面白く映らないこと』(※2)。
『書きたい内容』の周辺を書くには、相応の労力を要するものです。例えば知識の仕込みも然り、例えば周辺事実の整理も然り。これが地道であったり横道へ逸れたりと、なかなか『書きたい内容』に至りません。
これが初心者のうちならば、全体的な整合性など考えもせず『書きたい内容』だけ書いていれば済んでいた話です。それはもう楽しいはずですが、他人から見て面白いとは限りません。例えば整合性がないから、というような問題を内包したままだからです。まとめてみるなら『ご都合主義一辺倒』というのがこれの一つに該当しますが、詰まるところは『作者の独りよがり』というわけです。
なので上達を志すなら、『他人を楽しませること』という課題を意識することになります。ですが他人の心は、覗くことも思い通りに操ることもできないものです。
そこでよく考えられるのは、『他人である観客自身に訊く』という行動です。直接に対話する場合もあるでしょうし、あるいは評判を表す指標に頼る場合もあるでしょう。私の見るところ、大別して以下の二つですね。
(1)観客の意見を元に、『「つまらない」と言われる原因』を推定して排除する(これが『ご都合主義』の排除に繋がる)
(2)観客に対して、『どうしたら面白くなるか』を訊く(あるいは評判を元に内容を変える)
ですがこれ、作者として『面白くなる』かといえば、必ずしもそうとは限りません。
よくよく考えてみて下さい。上記(1)は『作者として面白い、と思っていたものを削ること』ですし、(2)は『作者自身が持つ“面白さの基準”を無視すること』です。作者として『書きたいこと』(※1)の比率をどんどん減らしていくこと、下手をすると『面白く映らないこと』(※2)を書かされる状況になっていくこと、これらは傾向としてまず間違いないわけです。
それはもう、作者として『書いていて楽しくなくなる』のも無理はありません。
では上達のためには、作者として『書く楽しさ』を犠牲にしなければならないのか――というと、必ずしもそうではありません。
要は『作者として楽しいこと』を、『観客も巻き込んで楽しめるように、作品へ詰め込むこと』ができればいいわけです。
私の持論で申し上げれば、作品の【面白さ】は、以下のような内訳を持っています。
『作品の【面白さ】』=『【発想】のワクワク』×『伝達【技量】』
『作者がワクワクする【発想】』を、『観客を巻き込んで楽しむための【技量】』でもって表現すれば、そのかけ算、つまりは相乗効果で作品は【面白さ】を獲得するのです。言い換えれば、『作者がワクワクするのに、観客につまらなく映るのは、単に伝達の【技量】が足りないだけ』ということになります。
よって(1)に挙げた『観客に「つまらない」と言われる(推定)原因を排除する』というのは、つまりは結論を急ぎすぎているだけの話。【技量】不足で「つまらない」と映ったからといって、『【発想】のワクワク』ごと排除してしまっているわけです。これは『作者から“書く楽しさ”を奪う』のみならず、『作品から“面白くなる可能性”を奪う』ことでもありますね。
また(2)に挙げた『観客が考える「どうしたら面白くなるか」を訊く』という行動には、実は『作者自身の【発想】のワクワク』が込もっていません。同時に、観客は往々にして『【発想】の素人』であったりします。
作者の主体性もなく、また作者自身より冴えているわけでもないアイディアが、『作者がワクワクできる【発想】』になる可能性は極めて低くならざるを得ません。
詰まるところ、上記(1)(2)とも、『主導権を他人任せにしている時点で、望み薄』ということになるわけです。
ゆえに、初心に返るべきは『作者自身のワクワクを重んじること』、発展させれば『【発想】の力を鍛えること』ということになります。
ただし同時に『作者の独りよがり』を避ける手立ても併せて講じなければ、上達というには心細いと申すもの。よって『【発想】のワクワクをより効果的に伝えるための伝達【技量】を鍛えること』も大切になってきます。
まとめるなら、『【発想】のワクワク』は温存しておいて、【面白さ】を伝えるための『伝達【技量】』を鍛える――という方針なら、『作品としての【面白さ】』と『作者として書く楽しさ』を追求できることになるわけです。
もちろん、これが安易な道とは申しません。
『作者が観客を巻き込んで楽しむ』上で、主体性を他人任せにしない、つまり『根本の部分で観客の意見に頼らない』からには、『作者が、自分自身を“優れた観客”としても鍛え上げる』必要に迫られるからです。もちろん同時に『作者自身を“優れた作者”として鍛え上げる』のは、言うまでもありません。
ことここに至り、『浴びるように作品を観賞する』や『一本の作品を十回繰り返して観賞する』という鍛錬法は、俄然説得力を帯びることになります。自ら“優れた観客”であろうとするからには、他作の良さや、その理由を読み取れなければ話にならないからです。これが場数なくして成立する能力であるとは、私は考えません(代替の手段で場数を稼ぐ、という手段はあるにせよ)。
ただし、これが苦行であるとは限りません。
考えてもみて下さい。作者自身の『【発想】のワクワク』を、余すところなく作品へ反映するヒントが、世には溢れているわけです。
良作であれば手がかりは広く多く含まれているはずですし、B級でも作者としての感性に刺さるなら、そこには尖った良さがあるはずです。
これら手がかりをいかに利用するか、その活用法を考察するのもまた『自作の【面白さ】が増していく過程』ですから、これまた楽しみようがあるというもの。しかも素材は良作の数々です。“優れた作者”になる上では好適な養分ではないでしょうか。
さらにはこの過程で、『書きたい内容』の数々に新たに出会える可能性、というものが広がることさえ予想できますね。“優れた作者”を目指す身としては、これは願ったりではないでしょうか。
すると、鍛錬が『書きたい内容』を大切に(※1に対応)しつつ、『書きたい内容を面白くする』(※2に対応)ことに直結していくわけです。さらには『書きたい内容』が増える可能性すら少なからず存在します。『書くことが楽しくなる』要素が揃うわけですね。
また作品の出来が一足飛びとはいかずとも、昨日より今日、今日より明日……と向上していくとなれば、鍛え甲斐も感じやすくなりますので、ここでも『書くことの楽しさ』を追求することになる――と、私は考えております次第です。
ゆえに「好き!」を追求し、その表現のヒントを良作に求め、またさらなる「好き!」に出会っていく――そのような姿に、私は楽しさと可能性を感じ取るのです。
こう考えてみれば、【我流】なりに書き続ける、継続するための原動力を、以下のようにまとめることができそうです。
○継続の原動力:
・【作者】として「好き!」を追求すること
・ただし【作者】としてだけではなく、自作の第一の【観客】として、さらには他者である【観客】も含めること
○継続の要点:
・「好き!」を『【作者】と【観客】のWin-Win』で表現しようと模索すること
・『Win-Win』のために、【作者】自ら“優れた【観客】”となるべく自分を鍛えること
ご参考になれば幸いです。
よろしければまたお付き合い下さいませ。
それでは引き続き、よろしくお願いいたします。




