065.【ポンコツ】上等(前編)(2022.10.01)
いつもご覧いただきまして、誠にありがとうございます。中村尚裕です。
私、よくこんなお嘆きを眼に(耳に)します。
「自分は○○が【できない】から駄目で……」
今回はこのお嘆きについて、その背景と向き合い方を【考察】して参ります(前後編)。
◇
実のところ、私はこのお嘆きは解らないでもありません。何のことはない、私自身が似たような形で落ち込んでいたことがあるからです。
ただ、この頃に囚われていた考え方もあるのは確かです。
「【結果】が出せなければ【意味がない】し……」(※1)
つまり、『【できる】=【結果】を出せる』(※1’)という思考なわけですね。
上記の考え方(※1、※1’)、実は全くの見当外れでもありません。実際に何かを【できる】ようになるには、【過程】で何を積み上げたら、どのような【結果】に【繋がりやすい】か――という【経験】を積み上げてこそ、という部分が、間違いなくあるからです。
ただし――と、ここで私は注釈を付けます。それが全てでもありません。さらに申し上げるなら、これで思考を止めてしまうのは、極めて不健康というものです。極端に悪い意味での具体例を挙げるなら、下記のような【悪例】はいかがでしょうか。
・【悪例】:“小説を書くことが【できる】”=“プロとして【ミリオン・セラーという結果を出す】”
この【悪例】、『【ミリオン・セラーという結果を出す】までは“小説を書くことが【できる】”とは認めない』というわけです。
このような場合の【悪影響】は、ご想像に難くないものと推察します。他人に対してどうこうはさておき、要は『自分が【できる】ようになる前に【折れる】』可能性が極めて高い――ということです。このように高い【ハードル】ばかり自分に課していては、それこそ『自ら自分の【毒になる親】になるも同然』と申すものでありましょう。
では――と、こういう【反論】を展開したくなる向きもありましょう。「それじゃ、“何もできない【ポンコツ】”でいろと言うのか? それとも“ダダ甘の【ハードル】”で、“自分を【甘やかす】のがいい”とでも言うのか?」
この【反論】に対して、私の【考え方】は以下の通り。
・【考え方】1.自分が“部分的【ポンコツ】”であることは受け入れる:将来的に克服していくにしても、『【できること】と【できないこと】は厳然として存在する。言い方を変えると『“自分が部分的【ポンコツ】であること”すら受け入れられないのであれば、それは“【不都合な自分】から眼を背けている”だけのこと』。全知全能の人間は存在しない。
・【考え方】2.“【できる】の【ハードル】”は小刻みに、ただし具体的に:“【できる】の【ハードル】が高い”のは個人の主義主張によるものとして、では“【できる】の【ハードル】を越えるまでの【中間ハードル】”は、果たして何と何か。【中間ハードル】を一つ一つ具体的に挙げられないようなら、それは“【できる】という【目標】に対して、【観測】が不充分”ということになる。仮に『【目標】に対して“ろくな【観測】もせずに【達成】という果実だけを望む”のであれば、それは“【努力】も【失敗】も【経験】したくない、【結果】だけ欲しい”という【怠慢】に過ぎない』ということになる。
・【考え方】3.“【できる】の【ハードル】”は小刻みにした上で、【部分点】を設ける:仮に“【できる】の【ハードル】は越えられなかった”にしても、“部分的にでも【できた】こと”もあれば、“【認識】できた【課題】”も存在するはず。ここで安易に「0点!」と断ずるよりは、『“越えられなかった【ハードル】”を分析し、その【ハードル】を構成する【課題】を細かく【認識】する』ことができれば、『“【ハードル】の越え方”を組み立てていくこと』もできるようになっていく。つまりこの“【ハードル】を構成する【課題】”ごとに付する【評価】が【部分点】ということになる。
ここで『“【できる】の【ハードル】”を小刻みに分解する』ということは、言い換えれば『【目標】を詳細に【観測】・【考察】して【ハードル】を小刻みに、ただし具体的に定めていく』ことなわけですが。
もちろんその前に、別途巨大な【ハードル】が存在しているわけです――『“【できなかった】自分”を直視する』、という。
ここで“【できなかった】自分”という【現実】から逃げ出したくなるのは人情というものですが、そこで逃げる一方では、もちろん【できる】ようになることはありません。
そこで、さらに逃げる人もいるわけです――「【どうせ】誰にも【できるはずがない】」と。
この考え方、辛辣を承知で突っ込んでみるなら『“自分が【できない】理由”を、【ハードル】のせいにしている』わけです。なので『誰かが【できてしまう】と、“自分が【逃げている】という【事実】”に直面させられる』ことになります。これでは“極めて都合が悪い”ので、往々にして『他人の努力を必死で【妨害】しようとする』ことにもなりがちです。
何が言いたいかと申せば。
『“【できなかった】事実から眼を背けることなく”、“【できなかったこと】と【できたこと】の両方”を直視し、【観測】し、【考察】し、“【鍛錬】すべき点”に向き合うことができて初めて、【できる】ようになっていく』ということです。
ありていに申し上げるなら、『粘り強くあろうとするなら、まずは最初に“自分が【ポンコツ】であること”を受け入れなければならない』ということになります。
これは一見して自虐的でもありますが、同時に『“逃げ出したい【衝動】”を抑え込み、“投げ出さず、踏み留まる理由を作って”、具体的な【鍛錬】を積み重ねる』ことでもあります。
言い換えれば、これは『“【できなかった】自分”を受け入れる』ことであり、『【できたこと】を正しく【部分点】で【評価】する』ことでもあり、まとめるなら『【自分】と粘り強く向き合い続ける』ことです。
これ自体は巨大な【勇気】と【根気】を要することです。ですが、全くの無理難題というわけでもありません。なぜなら、『人間誰しも、不得意分野においては【ポンコツ】』だからです。
◇
さて、前編としては一旦ここまで。
『最初に“自分が【ポンコツ】であること”を受け入れる』と申し上げましたが、現時点ではこの考え方に強い抵抗を覚える方もいらっしゃることと推察します。
この辺り、ある捉え方が背景として存在する――と、これは私の推測ですが。
しかしながらこの推測、相応の説得力を私は感じております。また、これに対応する考え方についても思い付くところがありますね。
次回は、この辺りをお話しして参りましょう。
よろしければまたお付き合い下さいませ。
それでは引き続き、よろしくお願いいたします。




