058.【主観】の主、【客観】の主(後編)(2022.02.19)
いつもご覧いただきまして、誠にありがとうございます。中村尚裕です。
私、前編ではこう申し上げました――【物語】に接する【観客】の“心理”を考えるに当たって、こう考えているところがあります、と。
即ち、『【主観】は【観客】と登場人物のもの、【客観】は【作者】のもの』。
これに関しての考察、今回は前後編に分けましたその後編ということになります。よろしくお付き合いのほどを。
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前編では、『【観客】が思い思いに抱いた“心理”、つまり【主観】を尊重する』ということは、『【物語】を構築する上で、特に障害となるわけではない』という私の考察を、その背景にある考えを交えつつご紹介いたしました。
後編に当たります今回は、その考え方がもたらす効果について、考察を巡らせて参ります。
さて、伏線を始めとして『作劇上の意図』を十全に機能させたい――そう【作者】が考えるとき、直感的には『【観客】という他人の心を思い通りに操ろうとすること』に走りがちではあります。
ですが。
そこで【作者】が『己の都合』に抑制を利かせて『【観客】が思い思いに抱いた“心理”、つまり【主観】を尊重する』として作劇したならば、さてその効果はどうでしょう。
【作者】として、また【作品】として、『【観客】の【主観】』を尊重する姿勢を貫いたなら。そのとき【作品】によって呼び起こされた“心理”は、【観客】にしてみれば『自ら抱いた“心理”』ということになります。【作者】を始めとする他人に強制されたものでは、決してありません。
ここで、素朴な問いを一つ。
『他人に強制された“感想”』と『自ら心に抱いた“心理”』、【観客】の胸にはどちらがより強く響くでしょうか。
【我流】で考えるところ、『他人に強制された“感想”』は、あくまで表面的なパフォーマンスに過ぎません。言い換えれば『社交辞令』という言葉が近いでしょうか。【我流】の見立てでは、これは『心は動かない、けれど反応を求められてしまったので、仕方なく無難な反応を作ってやり過ごそうとしている』という反応なわけですが。この見立ては、あながち外れたものとも思いません。なぜなら、どこまで行っても『心とは自分一人だけのもの』であって、他人が思いのままに操れるものではないからです。
逆に『自ら心に抱いた“心理”』とは、どこまで行っても自分一人だけのもの、ここでは【観客】一人一人だけのものです。そこに『他人に操られた【認識】』は存在しないわけで、ゆえに人はこのとき初めて、『自ら心に抱いた“心理”』を、違和感なく受け入れることができるわけです。
そういうわけで、私の考えるところ、【観客】の心に肯定的な反応を呼び起こしたいなら、【作者】としての方針は『【観客】の【主観】を尊重する』ことこそ【大前提】となるわけです。
このような【大前提】に立ったならば、『【観客】の心に肯定的な反応を呼び起こす上では、【作者】自身の【主観】はむしろ邪魔と映る』ということになります。ならば【作者】としては、少なくとも表面上は、『【観客】に徹して事実を並べていく』のが得策というもの。
ゆえに『【主観】は【観客】のもの、【客観】は【作者】のもの』という【持論】が導き出されるわけです。
しかし一方で、こういう危惧が頭をもたげるのも確かです――即ち、「でも事実の【客観】的羅列って、面白く映らないのでは?」
【作品】内に登場する事実の配置には、もちろん演出意図も込めますし、伏線だって多重【並列】に張り巡らせます――それこそ【現実】の事実関係まで利用して。ですがそこに『感情という【主観】』が混じらないとなれば、『感情移入したい』というニーズには応えられないことになります。
『【主観】は【観客】のもの、【客観】は【作者】のもの』、【我流】においてこの考えは【大前提】として揺らぎません。その上で、【作品】内に配置できる『【主観】の主』は、間違いなく存在します。
それが、登場人物です。
【主観】は人の心が作り出すもの、そして『人の心は、当の本人だけのもの』、これは厳然たる事実です。この事実を受け入れるとき、一つの可能性に意識が至ります。
即ち、『登場人物の心もまた、当の本人だけのもの』。
【作者】が『【観客】という他人の【主観】』を尊重するとき、【観客】もまた『登場人物という他人の【主観】』を尊重することになります。
また【作品】の表層で描かれる事実が【客観】に基づいているなら、『登場人物という他人の【主観】』はさらに尊重されやすくなるはずです。その理由は『【客観】に徹する【作者】の姿勢』というものが、次のメッセージを強烈に放つからです。
即ち、『【主観】という人の心は、当の本人だけのもの』。
登場人物とは、人です。もちろん『【作者】の都合』などというものに縛られず、己の行動原理に基づいて行動する一個の人格です。その登場人物が、【客観】に徹して描かれる【作品】の中で、一個の人格として行動するならば、さてどうでしょう。
【観客】は、『他人に操られない心、即ち【主観】』の存在を、登場人物の中に垣間見ることになります。
もちろん独立した一個の人格ですから、その心が他人から覗けるはずはありません。ですが、むしろそれだからこそ、『登場人物の言動に共感を抱くのも、あるいは反感を抱くのも、【観客】という一個の人格として当然のことと受け入れられる』わけです。これは取りも直さず、『登場人物を一個の人格として認める』ことに他なりません。
その登場人物が、自らの【主観】の現れとして言葉を口にしたなら、さてどうでしょう。
【観客】として同意するか否かはまた別として、この言葉は『一個の人格が抱く【主観】の現れ』です。その重みは人格と同列であり、また同時に【作者】の【主観】とは切り離されて存在することになります。
ことここに至り、【作品】は『登場人物が持つ【主観】のせめぎ合う場』という存在意義をも併せて獲得することになるわけです。
このような場で、『一個の人格として認められた登場人物』が口にする言葉のうち、演出意図に沿ったものを含めて拾い上げ、これを描写としたならば、さてどうでしょう。
その言葉は、一個の人格が絞り出す魂の欠片でありながら、同時に演出意図の一環ともなるわけです。さらにはこれを、【観客】が『一個の人格』の一側面として認めてくれることにも繋がるわけです。
『【観客】の【主観】を尊重する』と言えば一見迂遠にも見えがちではありますが、その裏で期待できる効果というものは、ことほどかように絶大でもあるわけです。もちろん【観客】を一個の人格として尊重することでもありますので、【作品】は誠実さを帯び、ひいては一種の気品までをもまとうことにも繋がります。
かくして『【観客】の【主観】を尊重する』こと、ここに重きを置く私なのでありました。
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よろしければまたお付き合い下さいませ。
それでは引き続き、よろしくお願いいたします。




