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057.【主観】の主、【客観】の主(前編)(2022.02.12)

 いつもご覧いただきまして、誠にありがとうございます。中村尚裕です。


 私、【物語】に接する【観客】の“心理”を考えるに当たって、こう考えているところがあります。


 即ち、『【主観】は【観客】と登場人物のもの、【客観】は【作者】のもの』。


 これに関しての考察、前後編に分けてお送りします。

 まずは前編、よろしくお付き合いのほどを。


 ◇


 まず【大前提】。

 人の心というものは、当の本人だけのものです。また、自分が尊重されたいならば、同時に相手も尊重するのが筋と申すものでありましょう。自分にもできないことを他人に要求するのは、基本的に好ましいことではありません。


 ゆえに、厳に慎むべきは『他人の心を思い通りに操ろうとすること』。

 創作者として他人の心に影響を与える立場でありながら、こう申し上げることに疑問をお持ちの方もおいでかもしれません。が、この背景にある動機は『【観客】に、【作品】からより強く影響を受けてもらうため』です。


 「それって矛盾してるんじゃ?」とお思いの向きもありましょう。ですが『北風と太陽』の寓話にもあるように、『ゴリ押しはかえって逆効果』という事実が厳然として存在します。私自身の“心理”を振り返ってみても、例えば相手に「感動しろ!」と直言されたらそのまま心が動くのか――と申せば、もちろん逆効果にしかなりません。


 では、【観客】に影響を受けてもらうためにはどうするか――そこに興味を抱く方も多いと考えます。【観客】に影響は受けてもらいたい、でありながら『他人の心を思い通りに操ろうとすること』は封じるわけですから。


 さて、ここで。

 『他人の心を思い通りに操ろうとすること』を封じるということは、『何も思わせない』ということではありません。この場合は『【観客】が思い思いに抱いた“心理”、つまり【主観】を尊重する』ということを意味します。

 キモになるのは、ここで『【観客】が思い思いに抱いた“心理”、つまり【主観】』です。


 人は画一の存在ではありませんが、同時に全く理解不能な思考回路を持っているわけでもありません。大まかな前提が『“常識”的【認識】』として大多数の人に共有されている例は多くありますし、本能を初めとして刷り込まれた反応は、強弱の差こそあれ大多数の人に共通して現れます。画一ではない、という点に注意を払えば、手も足も出ない――ということにはなりません。


 「でも伏線が……」というお悩みも、もちろんあるでしょう。

 例えば『【作品】を通して、特定の理解を【観客】に促していく』という演出を狙うとします。私の【認識】するところ、そのためにはまず【作品】の中に『理解の基礎となる伏線』を埋め込み、次にこれを【観客】に【認識】してもらうよう仕向け、そうやって実現した【認識】の積み上げで【観客】の中に理解を構築していく――というプロセスを踏むことになるはずです。

 こうした伏線の中には、ミスリードを始めとした演出意図を含ませておくのもよくある話。そうなると【観客】に対して「全部を読み取らせたい!」「思い通りの“心理”を抱かせたい!」という欲求が【作者】に芽生えるのも、無理はありません。


 ですが、【観客】に「全部を読み取らせたい!」「思い通りの“心理”を抱かせたい!」という欲求それ自体には、『【観客】の都合』は含まれていません。その欲求はあくまで『【作者】の都合』に基づくものですから、これをゴリ押しすれば『【観客】に【作者】の都合を押し付ける』ことになります。要は『他人の心を思い通りに操ろうとすること』そのものということですね。


 この姿勢は『【観客】が思い思いに抱いた“心理”、つまり【主観】』に真っ向から対立するものであり、『【観客】の【主観】を尊重しない』行為であり、ゆえに当の【観客】が『【作者】の姿勢や【作品】を尊重しない』という結果を招きます。『北風と太陽』の寓話を思い浮かべてみて下さい。北風が寒風を激しく吹き付ければ吹き付けるほど、旅人がコートにしがみ付くのと同じことですね。これでは【観客】の“心理”は【作者】と【作品】から離れていくばかり――私はそう危惧します。


 では程度の問題か――という発想を【作者】が抱く場面は多そうですが。

 結局のところ、【観客】に対して「思い通りの“心理”を抱かせたい!」という理由で【作者】が繰り出す策というものは、どこまで行っても『【作者】の【主観】を【観客】という相手に押し付けようとすること』であって、『【観客】の【主観】を尊重すること』ではありません。

 つまり『他人の心を思い通りに操ろうとすること』から離れていないわけですから、結局のところは五十歩百歩でしかありません。

 この発想で【観客】に向き合う限り、【作者】は北風の立場から離れることはできない――というのが私の考えますところです。


 では、私ならどう考えるか――ということに興味が赴くことと思います。

 この興味に対して私がご提示する回答は、すでにお出ししています。即ち『【観客】が思い思いに抱いた“心理”、つまり【主観】を尊重する』ということです。


 「それでは【作者】の意図が伝わらない!」と危惧する向きも多くおいででありましょうが。

 私の考える切り口は、「【観客】の【主観】を尊重した上で、大多数の人に共有されている『“常識”的【認識】』を利用する」というものです。人と人は互いに全く理解不能、というわけではありません。大多数に共通する【認識】は存在するわけです――ただ画一ではなく、従って【例外】も少数派ながら存在する、という事実があるだけです。


 「全員に解ってもらわなければ意味がない!」というツッコミも、私にとっては予想のうちです。

 そういう向きには、私はこうご提案します。「では、こう考えてみてはいかがでしょう。『保険をかけておく――しかも幾重にも』」と。

 伏線一本であらゆる【観客】をカヴァーしようとするから、【観客】を画一の存在として扱おうとするから、破綻する――そう私は考えるのです。ならば伏線を多重【並列】、十重二十重に張ればよろしい話。


 「それでは【冗長】になるのでは?」――ですから一つ一つの伏線を、いたずらに説明するような真似はしません。

 『現場百遍』、【現実】を観察していくほどに思い知らされることですが、【現実】世界の物事は実に緊密な事実関係で結び付いています。その結び付きも一つや二つなどという生易しいものではありません。間接的な繋がりまでも考慮するなら、それこそ多重【並列】に十重二十重の事実関係が存在しているのです。

 この事実関係のあり方は、自然そのものです。ならばこの自然な事実関係のあり方を、そのまま【作品】に込めれば――それは自然な佇まいと映る道理です。【作者】としては、【客観】をもってそれを描写すれば済む話。


 「【観客】が伏線に気付かなかったら?」――伏線の一つや二つに気付かれなくとも、痛くもかゆくもありません。

 『伏線という事実関係』に関して、【観客】が『【認識】に失敗する率』が伏線一つにつき10%あるとしましょう。伏線一つなら『【認識】に失敗する率』は10%です。つまりこの場合、【観客】10人に1人は伏線を見逃して、【作品】内の伏線の先、そこで示される事実関係に「ナンノコッチャ!」とツッコミを入れるわけです。


 ここで、伏線を多重【並列】で張ったとしたら――さてどうでしょう。

 伏線をn箇所張ったとしたら、そのうち一つでも【観客】に【認識】されれば「ナンノコッチャ!」は回避できます。つまり【冗長性】を確保するわけですね。そしてこの伏線を『多重【並列】の事実関係』として【作品】中で描写したならば。

 この時、【観客】が『【認識】に失敗する率』は、『10%のn乗』にまで低下します。ここで仮に伏線を10張ったなら、『n=10』となります。この時『【認識】に失敗する率』は『10の10乗分の1』、要は『100億人に1人が、やっと「?」となる』レヴェルにまで作り込むことができるというもの。


 なお、「洩れなく全員に100%を理解してもらおう」とするのは、決してお勧めできません。以下で解説しますが、『【認識】に失敗する率』は、決してゼロにはならないのです。


 個人的な感覚ではありますが、一つの事実関係(つまり伏線)について『【認識】に失敗する率』を10分の1にまで抑えるには、往々にして10倍のコスト(情報量、金銭、時間、労力など)を要するものです。

 仮に『【認識】に失敗する率』を『(初期状態10%の)10の1(つまり1%)』にまで下げたいなら、その時は伏線に関わる情報量が一気に10倍にまで膨れ上がるわけです。この時点で伏線としてはバレバレ、【冗長】と呼ぶに相応しい状態ですが。

 この上で、【作品】全体にこの方法論を適用しようとしたら、さてどうなるでしょう。極少数の理解を得るための説明、つまり伏線が幾何級数的に膨らみます。例えば文庫一冊分の情報量で収めるべき【作品】が、図書館を埋め尽くしてなお足りない情報量にまで膨れ上がって、それでも『【認識】に失敗する率』をゼロにはできないわけです。

 これぞ真の意味で【冗長】と呼ぶに相応しい状態ではありますまいか。


 以上のような背景もあり、『【観客】が思い思いに抱いた“心理”、つまり【主観】を尊重する』ということは、『【物語】を構築する上で、特に障害となるわけではない』ということができる――そう私は考えるわけです。


 ◇


 今回はまず前編ということで、ここまでをお送りします。『【観客】の【主観】を尊重する』、まずはその重要性と現実味――というところですね。


 よろしければまたお付き合い下さいませ。


 それでは引き続き、よろしくお願いいたします。

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