053.【広報】の水面下(第1回)(2022.07.23)
いつもご覧いただきまして、誠にありがとうございます。中村尚裕です。
私、「【作品】の【広報】をどうしたものか」という旨のお悩みをよく耳に(眼に)します。
これに対して「ちょっとしたコツを押さえれば楽勝!」などとお答えできないのは、『広告代理店という業種が成立している』という事実からも明らかですね。企業を挙げて研究するだけの技巧と、それに見合う需要があるわけです。対抗するわけではないにせよ、素人考えの一つや二つでウッハウハ、などというのは幻想であろう――とは容易に想像のつくところです。
ですが、「では、あきらめるしかないのか……」という諦観も、私としては短絡的だとは考えておりまして。
そも【広報】の相手は、【観客】です。ただし私の想定する【観客】は『【作品】に趣味嗜好が近しい、本来【マッチング】で幸せな出会いを果たし、結び付くべき【観客】』です。誰彼構わず【作品】を“押し売り”する対象としての【観客】ではありません。この点は念押しさせていただきます。ご了承下さい。
以上の【前提】を元に、【広報】を【我流】で掘り下げて参ります。よろしくお付き合いのほどを。
今回はその第1回。
世間一般で【広報】といえばまず一番に想起されるであろう【プロモーション】について【我流】の【認識】をお話しします。
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さてまずは、【広報】に対する【我流】の【認識】をご提示します。
前段。世間一般、こと【作者】としての立場を持つ人々に広く【認識】されているであろう【広報】の姿は、私から見る限り次のようなものです。
・【広報】とは、【作者】側(出版社など【作品】を送り出す立場にある者)が【観客】もしくはその候補へ向けて行う【プロモーション】(Promotion)である。
ここで【プロモーション】とは、『【観客】に対して(【作品】の【魅力】を伝えて)購買、あるいは観賞を促すための【普及促進】活動』と捉えております。Web小説のような例を考えるに、【プロモーション】で狙うのは販売のみではなく観賞、もっと申せば【普及】でありましょうから。
さてここで、【広報】に対する【我流】の【認識】をご提示しますと。
・『【作者】側が自ら働きかける【プロモーション】(を含めた直接的な【広報】活動)』とは、【根源的】に『壮大な【手前味噌】』であることから逃れることはできない。
この【認識】の【要約】を試みるに、例を当てはめてみましょう。
・『【作者】側が自ら働きかける【プロモーション】』は、『自分のギャグがどう面白いか、ということを自ら解説する芸人』と【本質】の上では変わらない。
このように【認識】する【理由】をお伝えしましょう。
『【作者】側が自ら働きかける【プロモーション】』というものは、俯瞰して見てみれば以下のような【構図】を形成しています。
・【プロモーション】の『【根源】の【構図】』:【作者】側が『自作の【魅力】』なるものを『(俯瞰して見れば)【主観的】に語っている』。
この【構図】は余計な枝葉を取り払った、【根源的】な姿です。つまるところ、いくら言い訳を重ねようが【工夫】を凝らそうが、この『【根源】の【構図】』を覆すことにはなりません。
何よりその根拠として、私には以下の【認識】があります。
・【作者】側が自ら働きかける【プロモーション】は、(総合的効果として)『【観客】の口コミ』に敵わない。しかも圧倒的に。
この時、『【観客】の口コミ』という現象は『(俯瞰して見れば)【作品】に対して【客観的】な立場からのお勧め』です。これは即ち『【作品】の【魅力】を【客観的】に語っている』という【構図】を形成していることになります。
この『【客観的】な立場からのお勧め』という【構図】を、です。『【作者】側から【主観的】に語る【プロモーション】という【手前味噌】』と並べて考えてみれば、さてどうでしょう。私の【認識】するところ、その【説得力】たるや、もはや比べものにもなりません。
この【認識】については、顕著な実証例が存在します。
『公開当初は泣かず飛ばずだったが、後に“金字塔”とまで評された【作品】』の存在です。具体的なタイトルを思い浮かべた方もいらっしゃるのではないでしょうか。しかも相当するタイトルは一つ二つではありません。
この場合、『公開当初の鳴かず飛ばず、あるいは酷評の嵐』を鑑みるに、『【作者】側が自ら働きかける【プロモーション】』は惨敗そのものです。『【作品】を、趣味嗜好が近く楽しんでくれる【観客】に届けること』が全くと言っていいほどできていません。言い方を変えるなら、『【作品】が“金字塔”と評されるまでには、【広報】はほぼ何らの貢献もしていない』とさえ言えましょう。
その一方、『【観客】の口コミ』はどうでしょうか。時間をかけて、ではありますが、圧倒的広範囲へ『【作品】の【魅力】』を“布教”していったことになります。
この時、『【作品】の【魅力】』が強力であることは、『“金字塔”にまでなったという【事実】』がこの上なく雄弁に保証するところです。言い訳は通用しません。『【プロモーション】という【手前味噌】』は、どう足掻いたところで『【観客】の口コミ』に勝ることはないのです。
解釈するに、【プロモーション】と『【観客】の口コミ』を比べたところで、つまりは『【根源】の【構図】』の勝負に帰結します。
これは巧拙などといった小手先で覆せる問題ではありません。『【観客】という「【作品】にとっては【他人】の【立場】」にある者が、「【自分】という【観客】サンプル」を元にして、【作品】の感じ方を、【自分の言葉】や【自分なりの表現】で語っている』という【構図】そのものに、極めて強力な【説得力】が込もるからです。
つまり【広報】を考える上でも、『【観客】という存在』は無視できるものではないのです。
ここで、「じゃあ、ひたすら“流行に乗った【作品】”を作るだけしか道はないの?」とお嘆きの向きもあるかとは考えますが。
ことはそんな単純な話ではありません。流行り廃りに関係なく、没個性な【作品】は見向きもされません。そこには【作者】の「好き!」を始めとして、『【観客】に対する、新たなJoyの【提案】』が存在しないからです。
『新たなJoyの【提案】』がないなら、果たしてどうなるか。
流行を求める【観客】は、流行の原典へ行けば事足ります。流行以外を求める【観客】は、なおさら【提案】を求めます。つまり【作者】やその【作品】が『安易なコピィ』に終止するなら、そこに【観客】のニーズは存在しないのです。少なくともこれが私の【認識】です。
ここでは『【観客】への【提案】』こそが重要――という私の【認識】を強調させていただいた上で、【考察】を進めて参りましょう。
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さて、まず今回はここまで。
【広報】を巡っては、一家言お持ちの方もさぞ多かろうと推察します。
ゆえにこれからお話しする考えもそのうちの一説に過ぎませんが、皆様のお考えのヒントにでもなれば幸いです。
よろしければまたお付き合い下さいませ。
それでは引き続き、よろしくお願いいたします。




