047.【描写】を構築する【工程】、その舞台裏(第4回・完結)(2022.06.25)
いつもご覧いただきまして、誠にありがとうございます。中村尚裕です。
私、以前の記事『015.描写を構築する【工程】(201.03.20)』(※1)で『【作者】の脳内イメージを【描写】として出力するまでには、経るべき【工程】がある』ということをお話ししました。
これはよく耳に(眼に)するお悩み、『動き(アクション)の【描写】が苦手』、『情景の【描写】が苦手』というものにお応えする形で【我流】の考えを整理したものです。
先回よりこの『【描写】を構築する【工程】』、その舞台裏に私が置いております考え方や、その発展についての【考察】を展開しております。
今回はその第4回。
前回は『【描写】を細分化する』という考え方から発展させることにより、『【認識】の【焦点】』を【動かす】ことで『空間上に軌跡を描く(分散させる)』――という可能性についてお話ししました。
今回は【考察】のまとめとして、こういった考え方が成立するであろう背景について、改めて考えを巡らせてみます。
よろしくお付き合いのほどを。
◇
文章に例えましょう。
よく『一文を短くまとめる』ことを推奨する創作論を見かけますが。これはまず、一瞬一瞬の『【認識】の【焦点】』を小さくまとめることに繋がります。【観客】のとっての一文とは、『【認識】の単位』の一つでもあるからです。
では、この短文を連ねていくと、さてどうでしょう。【作者】は一文ごとに、『【認識】の【焦点】』の位置を少しづつ変えることが可能になります。またこの場合、【観客】としては『短文を次々と【認識】する』わけですから、『【認識】に時間差が生まれる』ことにもなります。
この時【観客】の感覚には、『【認識】の【焦点】』が『時間の経過とともに』『位置を少しづつ変えていく』ように映るはずです。
パラパラマンガを意識してみて下さい。『止め画』が、『時間の経過とともに』『位置を少しづつ変えていく』と、【観客】にはどのように映るでしょうか。
そう――【観客】には『【認識】の【焦点】』が『【動いて】映る』のです。
ここに、『【描写】を細分化』し(【認識】のハードルを下げ)、同時に『【認識】の【焦点】を時間的・空間的に分散させ』(カメラ・ワークを駆使し)、なおかつ『【動き】によって意識を強く惹き付ける』(元【現象】の要点に意識を集中させる)――という【描写】の、強力な技法が成立したことになります。
さてこう考えてみると、絵や映像という媒体は『全部を描ける媒体』なのではない――という【認識】にも考えが及びます。
絵も映像も、実は『全部を描くことを強制される媒体』なのではありますまいか。その本質は『全部が【観客】の眼に入ってしまうので、(意味も込めずに)描かないでおくと【アラとして認識されてしまう】媒体』なのではないでしょうか。
それでいながら、絵も映像も『【認識】の【焦点】』は作らなければ、【表現】としての質を向上させることはできません。この時、『余計なものを、いかにして【観客】に【認識】させないでおくか』という重大な命題が【作者】の前に立ち塞がることになります。
となれば、絵や映像を【表現】するに当たっては、『余計なものは可能な限り描かない、「【認識】の【焦点】以外を引き算する」ための(強調や意味付けに邪魔な部分の)【引き算の描写技法】』が必要になるのではないでしょうか。
そこから学ぶことが、【表現】者としては、あるのではないでしょうか。
例えばアニメーションは省略やデフォルメを利かせています。が、それは果たして何のためでしょうか。
確かに『労力を削減する目的』はもちろん存在するとして、そこにあるのは『【焦点】を強調する目的』ではないか――という推測が、ここまで来れば働きます。
であれば『【焦点】以外を(違和感を最小化しつつ)省く』、という思想が根本にあっても納得がいくというものです。
そうしてみると、『【つまらない画】という【概念】』は、逆方向から『【演出】の根本』を衝いているのかも知れません。
【つまらない画】には『【認識】すべき【焦点】』(あるいは主張)がなく、つまりは“重み付け”がなく、あるいは技法という“体系”もないわけです。言い換えるなら『【作者】に“引き算すべき情報”が見えてない』わけで、つまりは「全部解って!」と情報の山を押し付けてくる、ということなのではないでしょうか。『【リアリティ】の舞台裏』でも触れましたが、これは『悪い意味でのオタク語り』にも通ずる拙さです。
これは【観客】から歓迎される姿勢では、決してありません。むしろ【観客】としては厄介なものであって、下手をすると回れ右、さらに悪いと近寄ってさえもらえなくなる地雷とさえなり得ます。
そう考えてみれば、『豊かな【描写】』というものは、『労力の上で【効率がいい】【表現】』を目指していては、決して辿り着けない境地にある――とも考えられます。
『“引き算”の【概念】が存在する』ということは、裏を返せば『“引き算”の対象になるべき情報が存在している』ということでもあります。これが行き着く先は『どれだけ多くの背景情報を“行間に埋め込んで”、その中から【表現】を選び取ったか』ということではありますまいか。
より多く、より広くの範囲から、さらにまた、より濃密な中から選び取るのであれば、それだけ優れた要素が見つかる可能性は高まる道理です。ですから、“行間に埋め込む”労を惜しんでいては、【表現】の質を向上させるなど夢のまた夢、ということにもなりかねません。
ただしもちろん、ここに費やした労力についても、【表現】内でひけらかさず、“行間に埋め込む”【抑制】と【覚悟】を問われるのは言うまでもありません。要は『【表現】の質を向上を狙う上では、労力を惜しまぬ“気前よさ”が問われることにもなる』――という、これは考察です。
逆に『【表現】の質を向上させることになる』と【認識】したなら、労力を惜しまずつぎ込む動機にもなるであろうな――などと考える私でもあるのでした。
◇
【注】
・※1.『【エッセイ版】私はコレでできている ~中村尚裕の活動報告より~』に収録『015.描写を構築する【工程】(201.03.20)』
https://book1.adouzi.eu.org/n8899eg/17/
◇
さて、以上4回にわたって『【描写】を構築する【工程】、その舞台裏』を掘り下げて参りました。
【考察】を巡らせるだに、【我流】の考え方が映像的な思想に基づいているのが解ります。
中でも“引き算”の【概念】が文章表現でも役立つことに思い至れたことは、個人的に何かと意義深いものと感じますところですね。
よろしければまたお付き合い下さいませ。
それでは引き続き、よろしくお願いいたします。




