028.【判断基準】の“拡張”とその【重心】(2021.08.28)
いつもご覧いただきまして、誠にありがとうございます。中村尚裕です。
さて私、物事を【判断】するに当たっては『可能な限り【客観的】な姿勢でありたい』と考えるクチです――こと人と人の落としどころを始めとして、『論理的な案』を探るに当たっては、特に。
と申しますのも、そうする背景には『物事に筋が通っている』状態を好む――という性分が在りますからで。
『論理的』に筋が通っていれば、『論理的な案』が帯びる【説得力】は理屈上最大になる道理、【説得力】が在れば理性的に話を通しやすくなる――というのが私の経験則としてあります。
これは創作に当たっても言える話で、こと『論理』を担う『伝達【技量】』に関わる話に関しては、『論理的な案』がものを言います。
ここで、『伝達【技量】』については、私がよく引き合いに出します【持論】からきております。
『物語の【面白さ】』=『【発想】のワクワク』×『伝達【技量】』
『【発想】のワクワク』は、言わば『情念』。
『伝達【技量】』は、言わば『論理』。
つまりはこれらの掛け算が【面白さ】を構成していると捉えているのですね。
さて話を『論理的な案』、ひいては【客観的】な姿勢や【説得力】の話に戻しますと。
『論理的』な思考能力は、『論理』を練っては【客観的】に評価する、この繰り返しで【鍛える】ことが可能――と私は考えております。要は【自分】を育成する可能性ですね。
ただしその大前提として、『【自分】の外にある考え方に触れること』は必須と考えます。なぜなら『【自分】の思い付かない状況』、即ち【想定外】を取り入れなければ、【自分】の限界である【想定内】を超えることができないからです。
で、その【想定外】に出会う場面として解りやすいのが『【現実】(リアル)に対する【挑戦】』。中でも『【他人】の意見(ただし建設的なもの)』と『【自分】の意志』の『落としどころ』を探る作業は、『論理』を練る訓練としては非常に役立つところがある――と私は認識しております。もっとも、リアル・タイムで処理するには、歯応えが在りすぎることも多々ありますが。
ここで『落としどころ』を探るに当たって大事になるのが、『【価値】の【判断基準】を【自分】の外へはみ出させる』ということ。『【他人】の意見(建設的なもの)』のうち、採用あるいは尊重すべきものを『【自分】の外』に見出すわけですね。
もう少し具体的に申し上げれば。
『落としどころ』を探るには、少なくとも以下の要素を『論理的に』抽出し、整理し、まとめる必要に迫られるわけです。
1.【自分】の望む【勝利条件】のうち、優先順位の高いものは何か
2.【他人】の望む【勝利条件】のうち、優先順位の高いものは何か
3.Win-Winとするために、対立しない【勝利条件】は、両者のそれぞれ何と何か、逆に対立する【勝利条件】は何と何か
4.対立する【勝利条件】のうち、【自分】と【他人】それぞれにとって、優先順位の高いものを採用し合う余地はあるか
5.上記1.~4.を踏まえた上で、Win-Winとするための『論理』は、【具体的に】どのような姿となるか
つまりここで必要になるのは、先述した『【価値】の【判断基準】を【自分】の外へはみ出させる』ことそのものなのですね。
現実にあり得る具体例としては、創作における『【自分】の意志』と『【他人】の意見』に相違が見られるような場合、というものが考えられます。
『【自分】の意志』を(検討もせずに)押し通すだけならば『【他人】の意見』を聞く必要はありませんし、逆に『【他人】の意見』を(検討もせずに)全面的に受け入れるだけならば『盲従』でしかありません。
極論すれば、前者は『殻に閉じこもっている』のと何ら変わりありませんし、後者は『責任を【他人】に押し付けているだけ』にも等しい状態です。
いずれの場合も進歩は望めない、と私は考えます。が、裏を返せば、進歩のためには『【価値】の【判断基準】を【自分】の外へはみ出させる』ことが必要になる、ということでもあります。要は『【他人】の意見』に含まれる【想定外】に対して、小なりといえど『【自分】の意志』を『適応』させるわけですね。言い方を変えれば、【自分】の『【価値】の【判断基準】』を、【想定外】へ向けて“拡張”すると申し上げてもいいでしょう。
この時、重要なのは『【判断基準】の【重心】を【自分】の中に留めておくこと』。あくまで『【自分】の意志』で【価値】を【判断】し続けるためです。この【重心】がズレすぎて『【自分】の外』へ移ってしまった場合、つまりは一度に【想定外】を取り入れすぎ『【価値】の【判断基準】』が変形しすぎてしまった場合、【判断】は『【自分】のもの』ではなくなります。
【判断】が『【自分】のもの』でなくなること、これのどこがまずいかと申せば、『【判断】の責任』、もっと申せば『【判断】の功罪』が『【他人】のもの』になってしまうことです。
例えば【判断】の結果が【成功】であっても、それは『【他人】の功績』です。
例えば【判断】の結果が【失敗】であっても、それは『【他人】のせい』です。
いずれの場合であれ、何一つ『【自分】の糧』にはなりません。これは【結果】云々の前に、そこへ至る【過程】とその背景にある『意志決定の【判断基準】』が『【他人】のもの』であるという、その一点こそが原因であり問題でもあります。
「【結果】さえ得られればいい」というご意見も予想されますが。そういうご意見に対しては、こういう問いをぶつけます――「では、この【結果】を再現(または回避)する方法は身に付きましたか?」と。
そう、何が問題かと申せば『【結果】の再現性がない』のです。
仮に【成功】しても、そのやり方即ち【過程】はものにできていませんから、『継続的な成長』には繋がりません。
仮に【失敗】しても、その原因即ち【過程】は理解できていませんから、同じ【失敗】を何度でも繰り返します。
さらに悪いことがあります。【判断基準】が『【他人】のもの』ということは、『読めない』のです。
何せ【判断基準】が『【他人】の言動』、もっと申せば『【他人】の心』ですから、『読めない』のが当然です。その結果として起こるのが、『何をやればいいのか判らなくなる』という現象です。要するに『途方に暮れる』わけですね。
対して、『【判断基準】の【重心】を【自分】の中に留めて』おけば。
【過程】は自ら下した【判断】の“積み重ね”です。“拡張”したとは言え【自分】の【判断基準】ですから、【結果】を導き出した【過程】を辿ることもできます。
【成功】も【失敗】も『【自分】のもの』ですから、いずれの場合も教訓を得て、『【自分】の糧』として次の機会に活かすことが可能になります。
また、【結果】と【過程】を『論理的に』結び付けることができるわけですから、それは即ち【挑戦】と【観測結果】を紐付けることにもなるわけです。これは『自ら【挑戦】して得た【実績】』であり、【実績】の数々は『【自信】の根源』へと繋がっていきます。つまり『継続的な成長』が実現できるわけです。
そして何より、【結果】は『【自分】でよかれと【判断】した【過程】の“積み重ね”』です。そこに生じる後悔は少なくて済みます。【結果】は【過程】と紐付いた【観測結果】なので、次の機会に活かせるからです。
もちろん【失敗】のダメージは小さいに越したことはありません。なので『【判断基準】の“拡張”』は小刻みに、回数を増やして実行するのが望ましいことになります。
つまりは地道な“積み重ね”、これが何より効果的で、そして【自信】を養うことにもなる――という、これは【考察】なのですね。
よろしければまたお付き合い下さいませ。
それでは引き続き、よろしくお願いいたします。




