027.【考察】:物語序盤における【本題】(2021.08.21)
いつもご覧いただきまして、誠にありがとうございます。中村尚裕です。
私、『序盤は、作品の名刺代わり』と考えておりますクチです。【あらすじ】や【アオリ】に記す内容と同じ理由で、『作品に込めた【ワクワク】要素を、可能な限り(少しづつでも)ぶち込む』という思考を持っているわけですね。
「それは当然」あるいは「せめて○話まで……」など、【作者】さんによってスタンスは様々でありましょうが、私がこう考える背景にちょっと思考を巡らせてみます。
小説に限らず、世にある話の内容をごく大雑把に分けてみる時、分類の一つとして『【本題】と【脱線話】』という概念が存在します。【本題】は【テーマ】に沿った本編や本論が展開されている部分、逆に【脱線話】は【テーマ】から離れた部分と考えられますね。
ここで小説を含めた『物語』の【テーマ】については、よく提示される課題があります。いわく『物語の内容を、一言にまで凝縮して表現してみよ』と申すもの。
これに対して【我流】で答える基本形は、『【主人公】が、○○を成し遂げ(ようとす)る物語』(ここで○○は、【主人公】の【目的】に相当する言葉)。『物語』を極限まで単純化するならば、『物語』は主として【主人公】のものですし、そこで語るべきは『【主人公】の【目的】』と『それを成し遂げ(ようとす)るに当たっての【試行錯誤】とその【結果】』ということになります。
ここで、極言を承知で申し上げるなら。
『物語』における【テーマ】に含まれる要素は、『【主人公】の【目的】』と、『【目的】を成し遂げ(ようとす)る【試行錯誤】とその【結果】』です。
解釈を拡大するにしても。
人物に関しては『【主人公】の【目的】に深く関わる人物』、【試行錯誤】に関しても『【試行錯誤】に深く関わる【手段】』までがせいぜいというところでしょう。
以上が『【本題】と【脱線話】』という分類に当たって、私が認識するところの【テーマ】です。
この【テーマ】を外れる話、つまり【脱線話】を物語序盤に(相当量)配置するのは、【観客】に『誤解』を招くリスクが大――そう私は考えております。
ここで『誤解』とは、【テーマ】に沿った【本題】でもないものを「これが【本題】か!」と認識されることを指します。
「序盤なのに?」――そういう疑問が聞こえてきそうではありますが。
物語序盤では、【観客】の持つ情報(『物語』に関するもの)はほぼゼロです。
そして【観客】の身としての私見では、この時【観客】は『その時点で最も情報量の多い題材を、【本題】と解釈して認識する傾向』を持っています。
ここで【アオリ】や【あらすじ】を見ずに本編へ飛び込んでくる【観客】は一定数存在します。
そこで【脱線話】が序盤の中で一定以上の情報量を占めてしまっていたら――さてどうなるでしょうか。具体的には、【脱線話】の情報量が【本題】のそれを上回っている場合が考えられますね。
さらには【作者】の側が、(【脱線話】の多い)序盤に則した【アオリ】や【あらすじ】を用意している場合さえあります。
そういう状況を踏まえて考えますと。
序盤の段階で、【観客】が【脱線話】を(【本題】以上に)仕込まれてしまう場合――というものが充分に存在し得るわけです。
この場合、私が最大限に想定し危惧する現象は、『【観客】の『期待』というものが、【脱線話】という『誤った方向』へ“誘導”されてしまう』というものです。
即ち、「【観客】の認識する【本題】」=「【作者】の意図する【脱線話】」という乖離の発生ですね。
これのどこがまずいかと言って、【観客】の“心理”が以下のパターンに陥ることです。
1.(序盤で)「【本題】(と【観客】が認識して『期待』を抱いたもの)はこの程度のものか。【つまらん】」
2.(本編を辿るにつれて)「すぐ【脱線話】(と【観客】が認識したもの)になって、一向に【本題】(と【観客】が認識して『期待』を抱いたもの)に話が及ばないじゃないか。【つまらん】」
この場合の【観客】は「【脱線話】でもって作品を評価する方向へ“誘導”されてしまった』ことになります。それも他ならぬ【作者】の手で、です。
上記のパターンについて影響を考察してみますと。
1.の場合、【作者】が本編で全力を注いだものは【テーマ】であり【本題】であるはずなのに、【観客】にはその全力を見てもらえないことになります。
2.の場合、やはり【作者】が全力を注いだのは【テーマ】であり【本題】であるのに、これを強調すればするほど、【観客】は「【脱線話】にばかり力を注いでいる」と認識してしまうことになります。そして【脱線話】というものは、相応に熟達した話術でもって提供しない限り、『面白くなりにくい』ものです。
つまるところ、【テーマ】から外れた【脱線話】を序盤に仕込み過ぎると、【観客】の意識に『(誤った)【テーマ】』として【脱線話】を植え付けてしまうことになるわけです。
ここで忘れてならないのは、「【観客】は、『【テーマ】と認識したもの』とそれに基づく【本題】を『期待』している」という事実。これはいかに話術を尽くそうとも、【脱線話】は早晩飽きられる宿命にあることを意味します。
そしてこの時、
『世界観』情報のほとんどは、ここで語る【テーマ】には入りません。
『【主人公】の負う背景』事情も、同様です。
ましてや『【脇役】の負う背景』情報に至っては、何をかいわんや。
これらを語る時、それは【本題】ではないことになります。即ち【脱線話】になるわけですね。
その理由は。
【テーマ】は『【主人公】が【目的】を成し遂げ(ようとす)る【試行錯誤】』、言い換えれば『人物と状況の【変動】』であるからです。
その一方で、『世界観』情報も『人物の負う背景』情報も、『自ら【変動】』することはありません。つまり【本題】にはなり得ないのです。
ゆえにこの考察では、『序盤では、【観客】の心理に【テーマ】と【本題】の認識を促すため、【本題】を象徴する【変動】を、可能な限り多く(分量は少しづつでも可)盛り込むことが望ましい』と結論付けます。
このような背景考察があって、改めてまとめますと。
・【観客】はほぼ情報ゼロの状態で本編序盤に向き合う。この時、傾向として『情報量の最も多い題材を【テーマ】や【本題】として認識しやすい』。
・【観客】に正しく【テーマ】および【本題】を認識させたいのであれば、序盤における情報量の配分は『【テーマ】および【本題】』を最大とするのが望ましい――と推定される。
・【テーマ】とは、一言でまとめると『【主人公】が【目的】を成し遂げ(ようとす)る【試行錯誤】とその【結果】』。
・この【テーマ】に沿った内容がここでいう【本題】。言葉を変えると、『【テーマ】に沿った、人物と状況の【変動】』。
・一方で【脱線話】は、【テーマ】に沿わない内容。この中には『世界観』情報、『人物の負った背景』情報のほとんどが含まれると考える(根拠:これら背景情報は【変動】しない)。
ということになりますね。
当たり外れはともかく、考え方の一つとしてご参考にしていただければ幸いです。
よろしければまたお付き合い下さいませ。
それでは引き続き、よろしくお願いいたします。




