026.【考察】:【説得力】なるもの(2021.08.07)
いつもご覧いただきまして、誠にありがとうございます。中村尚裕です。
私、物語を語るにしても観るにしても、それなりに【説得力】を好む――という自覚を持っております。
ここで取り上げます【説得力】、【正確さ】とは必ずしも一致しません。フィクションの核となる『大嘘』を物語が内包する関係上、100%の【正確さ】は期せるわけではないからです。
その上で。
私の考えます【説得力】は、『大嘘』の存在とその影響を踏まえつつ、『状況の存在や推移』を【観客】へ【それらしく】提示して【納得感】を得る力――と申すもの。
【納得感】が有ると無いとでは、【観客】が覚える没入感も大きく変わってくるのが道理。有ればリアリティにも繋がりますが、無ければ『ご都合臭』を感じて醒めてしまう事態もあり得ます。
ではどうすれば――ということを語る、その前に。
フィクションという『大嘘』に対する【納得】は、どのようにして得られるのか、ということを考察するのが順当というものでありましょう。
そもそも人は、世界の全てを知り尽くしているわけではありません。特に研究者でもない一般人の【観客】であればなおのこと。
ですが同時に、全く知らないというわけでもありません。日常ありふれて眼にする現象であるとか、覚えている範囲内の知識であるとかに関しては、『理由もなく』嘘をつかれては【興醒め】に繋がる危険もあり得ます。
もちろんフィクションですから、話の根幹に繋がる『大嘘』の存在そのものまで否定してしまっては、元も子もありません。
ただし、『大嘘』にしても【魅せ方】次第のところはあります。
設定書きだけであらゆる『嘘』を受け入れてくれる【観客】もいるでしょうが、『嘘』と現実の辻褄に意識を向ける【観客】も一定数以上存在するはずです。
と、私が考えますのも。
一部の例外を除いて、作品には『深刻に捉えてほしい部分』が存在する――と私は考えておりますからです。
ここは【観客】の【共感】を誘う部分と、私は捉えております。【観客】が持つ『現実の物差し』に寄り添う部分ですね。逆に『現実の物差し』をことごとく逆手に取るような、一種のギャグ作品などでは、これは気にされることはないかもしれません。ですが大部分の作品では、【観客】の『現実の物差し』を無視することは得策ではないものと、私は考えます。
なぜなら。
『登場人物が必死(≒シリアス)になって追い求めるもの』、言い換えてみれば『作品の【テーマ】』に対して、【作者】が【観客】の【共感】を求めるからです。
【共感】を求めるからには、相手の『判断の物差し』に寄り添う必要が出てきます。【価値観】を共有できないことには、そこには【共感】は生まれない道理ですし。また【観客】の【価値観】は、(特に作品冒頭では)『登場人物の生きる作品世界』よりは現実寄りに立っているはずですし。
というわけで。
【納得】とは、フィクションとしての『大嘘』に反しない部分において、『【観客】の先入観つまり現実に寄り添っている』ことで得られる――と考察できることになります。
よって、【納得感】を得る【説得力】は、作品のうち『現実に寄り添った部分』で醸すもの――と考えることができそうです。
例えば登場人物の心理。
該当シーンの『入り』と『引き』の間で【落差】を設けるとするなら、その【落差】を埋めるほどに登場人物の心理が刺激・“誘導”されているか――というところで『現実に寄り添う』事実関係が積み重ねてあるか否か、この点が【納得感】、ひいては【説得力】の有無に関わってきそうではあります。
例えば作中で起こる現象。これについても、また然り。
『現象という結果』が起こるに当たっては、然るべき『原因』が揃っていてこそと申すもの。これは、『現象』を起こすに足る『原因の積み重ね』こそが【落差】に相当するはずです。要は『原因に相当する事実関係の数々』、これが『現実に寄り添って』積み上げられているか否か、やはりこの点が【説得力】の有無に関わることでありましょう。
そして予想されることとして、『入り』と『引き』の【落差】が大きければ大きいほど、積み上げるべき事実関係は、質、量ともに膨らみます。もちろん『現実に寄り添った事実関係』が求められるわけです。
ここに『フィクションとしての大嘘』が絡むにせよ、現実と地続きの部分(例えば登場人物の心理)に関しては、『大嘘と現実、両者に寄り添った【考察】』が必要になる――というのが道理でありましょう。
つまるところ、【説得力】のためには『【落差】に応じ、現実に寄り添って【考察】した事実関係を積み上げること』が肝要になる――という、これは考察というわけです。
よろしければまたお付き合い下さいませ。
それでは引き続き、よろしくお願いいたします。




