232.【設定】なるものと【リアリティ】(第1回)(2025.11.01)
いつもご覧いただきまして、誠にありがとうございます。中村尚裕です。
さて私、次のような【意見】をお見かけしたことがあります。
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・【意見】「この【設定】、【リアリティ】がないよな。もっと【現実】に寄せろよ」
・【意見】「【設定】に【リアリティ】を持たせようとすると、【発想】の【足枷】になる!」
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以上の【意見】は、【アプローチ】の【方向】こそ違えど同じ【前提】に立っている――と、私には映ります。
即ち『【リアリティ】は【設定】に宿る』と。
これに対し、私としては首を傾げるところがあるわけです。
というわけで、今回は【設定】なるものと【リアリティ】との【関係性】について【考察】を巡らせて参ります。
よろしくお付き合いのほどを。
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○【疑問】:『【リアリティ】は【設定】に宿る』のか?
さて、私は『【リアリティ】は【設定】に宿る』とする【考え方】には【懐疑的】なわけですが。
【根拠】として一例を挙げれば【ご都合主義】。
例えば【作者】の【ご都合】を【優先】するあまり【登場人物】の【言動】が【一貫性】に欠けていたり、例えば同じく【作品世界】中の【事実関係】に【整合性】が欠けていたり、という【現象】です。
要は『【作者】の【ご都合】で【現実味】を欠く【状態】や【流れ】が【出現】する』というものですね。
ここで“【観客】としての私”は、よく『【ご都合主義】で【リアリティ】が【破壊】された』と感じるのです。
そしてこの【現象】は【設定】云々に【関係】なく起こります。
例えば【設定】の【充実】を【売り要素】としていながら、【登場人物】の【言動】がその【設定】に対して【不整合】をきたしている――という場合に。
もちろん“【設定】といわれるもの”に【矛盾】があったりして『【リアリティ】が【破壊】された』と感じた方もおいででしょう。
よって【現状】では【リアリティ】の【在処】として、“いわゆる【設定】”なるものを【完全】には【除外】しないこととします。
ここまでを踏まえて【我流】の【感覚】を表すならば、『【リアリティ】の【在処】は【設定】に限らない』ということになりますね。
○【我流・認識】:【リアリティ】なるもの
さて、ここで。
“【リアリティ】を【在処】”を語る上では、そもそも『【リアリティ】を何と捉えるか』の【認識】を【確認】しておく【必要】がありましょう。
【足場】となる【認識】、その【基準】が定まっていなければ、その上に立つ【考察】までも揺らぐものですから。
そこで【我流】ながら捉えるに、【リアリティ】を感じる【前提】にあるものは、『(【物語】あるいは【作品世界】に)【観客】が【没入】するに足るだけの【整合性】が、【表現】に【存在】すること』というところですね。
ここで私が【観客】を【主体】に据えるのには、【相応】の【理由】があります。
と申しますのも、【人】は本来『【信じたいもの】を信じる』からです。
これは【観客】の【立場】に立ってみれば【実感】できることですが、“【作者】の【ご都合】を「この【作品】ではこうなんだよ!【没入】しろ!」と【押し付け】してくる【作風】”というものにはそうそう【没入】しにくいものです。
特に【ご都合】の【押し付け】が【場当たり】で【一貫性】を欠く【場合】などは、「誰が思い通りに操られてやるか!」と【反感】すら覚えることがよくあります。私には【人格】として、【思考の自由】を【侵略】されるいわれはありませんから。
この場合、『【観客】としての私は、【作者】とその【作品】を【信じたくない状態】になっている』わけです。
こと【フィクション】は【事実】ではありませんから、【没入】するには“「信じてもいい」という【信頼】”なくしては、【観客】に「信じたい」と思ってもらえる【理由】はなくなります。
こう見てみると、『【リアリティ】は、【観客】から“「信じてもいい」という【信頼】”を得た上に【成立】している』ということが言えそうです。
また【リアリティ】は【観客】に“「信じてもいい」という【心理】”を持ってもらうためのもの、と考えれば、【説得力】という【側面】もあるでしょう。
なのでここでは【リアリティ】を、【観客】からの【信頼】に基づき「信じてもいい」と思ってもらうためのもの、“【説得力】としての【リアリティ】”として扱っていくこととします。
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さて、今回は一旦ここまで。
【リアリティ】についてよく語られる【意見】を見るに、恐らくその人が抱いているであろう【前提】があります。それが『【リアリティ】は【設定】に宿る』というもの。
ただ私は、この【前提】には【懐疑的】です。というのも、例えば【ご都合主義】は【リアリティ】を【台無し】にしますが、これは【設定】云々とは別に起こり得るからです。
ならば『“【リアリティ】の【在処】”は【設定】に限らない』として、です。
ではそもそも【リアリティ】とは何か。
【我流】では『【作者】が【観客】を操ろうとしていない』と解るだけの【整合性】と捉えています。
言い換えると『【観客】が【没入】のために「信じてもいい」と思える“【説得力】としての【リアリティ】”』となりますね。
次回はこの【認識】を踏まえて、【設定】なるものを【観察】してみましょう。
よろしければまたお付き合い下さいませ。
それに引き続き、よろしくお願いいたします。




