230.【誤解】経由【理解】ゆき(第16回)(2025.10.18)
いつもご覧いただきまして、誠にありがとうございます。中村尚裕です。
さて私、このところ『“【誤解】の【余地】のない【表現】”を目指したくなる【心理】』について考えております。
実際のところ、“【誤解】の【余地】のない【表現】”というものを望む【作者】は少なくないようです。
ですが【観客】も【作者】も【人間】で、【人間】であるからには【多様性】を持ちます。しかも【他人】の【思考】は覗けません。
となれば【作者】と【不特定多数】の【観客】の間で【思考】を【完全一致】させるなど、【事実上不可能】です。
もちろん【定義】を【共有】することは【可能】です。が、これは【高等数学】や【法律】にも【匹敵】する【ハードル】を越えてのことです。相応に【膨大】な【背景情報】を【共有】し、しかも【事実】のみを扱うことになります。
【表現】としては【記事】や【文書】に近く、従って【創作】、特に【物語】とは極めて【相性】が悪いということになりそうですね。
もちろんその一方で、“【現状】に【安住】せず【前進】する【姿勢】”とその【過程】には、むしろ大いに【存在意義】と【価値】があるものです。
ただ【我流】では、「【誤解】されたくない」という【心理】が、往々にして『【過程】を飛ばして【ゴール】に至りたい』という【姿勢】に結び付いてしまうところもよく【観測】するところです。
『【誤解】される』、『【理解】されない』というものは、もちろん気分のいいものではありません。なので“【誤解】を【回避】したい【動機】”の【存在】そのものは、私としても【否定】しません。
ただし『【記述】したこと以上の【意味付け】を【理解】されたい』という【願望】が加わると、話が変わります。
「【記述】したこと以上の【意味付け】を【観客】に読み取ってもらいたい」という【願望】は、【作者】が【観客】に【文面】以上の【拡大解釈】を【期待】する【言葉】です。これは『【作者】が“【誤解】の【余地】”を【表現】に持たせること』に他なりません。
「【誤解】されたくない」と語っておきながら、“【誤解】の【余地】”を除くどころか【観客】に「【都合】よく【表現】を【誤解】してほしい」というならば、その【作者】の【姿勢】は【不誠実】ということになりますね。
もちろん【誤解】に伴う【不快】な【経験】もあるでしょう。実際、“【積極的】に【誤解】する【姿勢】”も見られます。
ですがそれは“【不快】な【誤解】を示す【観客】”に対する【向き合い方】の【問題】です。【誤解】の【きっかけ】となる【表現】の【問題】ではありません。
つまり『誰を“【観客】にしない”か』は極めて【重要】な【命題】ということになります。
その上で、私の考えは『【誤解】を受け入れる』というものです。
『【誤解】を【回避】したいなら、まずは【誤解】を【観察】するところから』ということですね。
私なりに【理解】の【プロセス】を振り返ると、何もないところから【理解】がいきなり【発生】することはほぼありません。つまり【圧倒的大多数】の場合においては『【理解】の【前段階】には、【背景知識】が【ゼロ】ではないにしろ【不充分】な、“【理解未満】という【誤解】”の【状態】が【存在】する』ということになります。
ということは、“【理解】へ至る【誤解】”、言い換えれば“【前段階】の【理解】”とでも称すべきものが【存在】するわけです。
これを踏まえて私の【感覚】を【言語化】するなら、『【理解】とは、【自分】の中にある【イメージ】を【組み立てて】、【理解】に【相当】する【イメージ】を【完成】させること』というところです。
この【感覚】はもっと【深掘り】できますが、それはもっと後のこととしましょう。ここでは私の【認識】として『【理解】とは【組み立てて】、【完成】させるもの』とだけ【記憶】しておいて下さい。
この【組み立て】という【感覚】を元に、【誤解】や【理解】という【現象】を見てみますと。
【理解】への【過程】に【組み立て】という【感覚】を持ち込んでみれば、【パーツ】というものが【存在】することになります。
ここで『【パーツ】は“【前段階】の【理解】”、しかもいくつもある』と考えてみて下さい。すると【パーツ】が揃い、かつ【組立説明書】に【相当】する【気付き】が加わって、そこから【組み立て】を経て、ようやく【理解】が【完成】することになります。
であれば、『何もないところに、いきなり【理解】を【出現】させようとすると【不利】』ということになります。これは『“【前段階】の【理解】”に当たる【パーツ】としての【誤解】の【存在】は、むしろ【肯定】した方が【理解】のためには【有利】』ということでもありますね。
そして“【前段階】の【理解】”として【誤解】の【存在】を認めるなら、『【理解】には【歩留まり】がある』ということも見えてきます。『【誤解】するな、というのは【無理難題】』というわけです。
その上で、『上手い【組み立て方】がある』のも【事実】です。ならば『上手い【表現】は、上手い【組み立て方】を押さえた作りになっている』ということになりますね。そしてそのための【仕込み】があることも【想像】することができます。
【理解】を組み立てやすくするための【仕込み】、と捉えてみれば、【パーツ】に相当する“【前段階】の【理解】”について考えておく【価値】もあろうというものです。
そもそも【理解】のための【仕込み】であるからには、【パーツ】である“【前段階】の【理解】”は、【そのものズバリ】ではないにしろ【理解】に近しいものである【必要】はあります。
また【観客】は【多様】ですから、【読解力】もまた【多様】です。
【誤解】のみならず【見落とし】もあります。
同様に“【理解】の【過程】”もまた【多様】です。
であれば【パーツ】即ち“【前段階】の【理解】”もその【組み立て方】も【複数】、と【冗長性】を【意識】しておくのがよさそうです。
そう踏まえてみれば、『1の【理解】を得るためには、10を語れ(【表現】せよ)。10を語る(【表現】する)ためには、100(の【背景知識】)を知れ』という【経験則】にも【説得力】を感じるものです。
少なくとも【理解】を求める上では、これだけの【仕込み】として“【前段階】の【理解】”を込めるつもりで臨むのが【現実的】でありましょうね。
“【前段階】の【理解】”を仕込む、という【考え方】に立ってみると、そのものズバリの【理解】の一歩【手前】に【類義語】という【概念】が見えてきます。
また【辞書】という【概念】も見えてきますね。
これらが【意味】するものは、“【次善】の【表現】”というものの【存在】と、『【表現】を重ねることで【同等】の【意味】を【表現】できる』という【事実】です。
さらに【辞書】が示すのは『より多くの【表現】を用いれば、元の【表現】を【言い換える】ことができる』という【事実】と、さらに『【言い換え】は一つとは限らない』という【事実】です。
これらを【総合】すると、は『一つの【意味】に行き着く【表現】に、【選択】の幅がある』ということになります。これは『“【次善】の【表現】”を【重ね合わせる】こと』ですが、同時に“【前段階】の【理解】”を積み重ねて【理解】を目指す上で役立つはずですね。また、そこには『【表現】を【一言】で【完結】させないがゆえの【利点】』もまた生まれてきます。
この【利点】について考えてみますと。
【歴史】の【授業スタイル】を振り返ってみれば、【歴史的事実】一つ一つを【ピン・ポイント】に並べていく【やり方】と、【歴史的事実】の数々に【関連性】や【因果関係】を絡め、【物語】のように魅せていく【やり方】、主に二つが思い浮かぶものです。
そして【理解】の【ハードル】は、【後者】の方が低くなりやすいようですね。
【我流】で観るところ、【前者】は“【厳密】な【理解】”を求める【説明】、【後者】は【事実群】の【関連性】や【因果関係】で互いを補い合い“【理解】を【形成】する”【物語】という【構造】が窺えます。
つまり【物語】、言い換えると『“【次善】の【表現】”を【複数】用いて、(【表現】を)【一言】で【完結】させない【やり方】』では、徐々に【観客】の頭の中で【事実関係】の【ネットワーク】が【構築】されていく――と観ることができるわけです。
であれば【誤解】や【見落とし】を【リカヴァリィ】できる【物語】は、【最終的】に“【理解】を【形成】する”上で【非常】に【有利】と申せましょう。
この【構造】は、“【厳密】な【理解】”を求める【説明】では生み出せないものです。そこには【物語】のような【流れ】がないからです。
そして【小説】は【物語】ですから、『“【次善】の【表現】”を【複数】用いて、(【表現】を)【一言】で【完結】させない【やり方】』が【利点】を持つことになりますね。
先に私は、【感覚】として『【理解】とは、【自分】の【認識】を“【誤解】ではない【範囲】”へ導く【道】(しかも【高架道路】)』とお伝えしました。しかもその【高架道路】は、『【組み立て式】で、山あり谷ありの【障害物】を避けて【認識】を“【誤解】ではない【範囲】”へ導く【道】、曲がりくねった【高架道路】』、というものです。
また【道】の【パーツ】に【相当】する“【次善】の【表現】”【単体】で得られるものは、多くの場合で“【前段階】の【理解】”、つまり【誤解】の一種です。
ここで『“【次善】の【表現】”を【重ね合わせる】』という【考え方】に立ってみましょう。“【次善】の【表現】”一つ一つは【不完全】ですが、【物語】の【流れ】(【過程】)を経ていくつとなく【重ね合わせ】されるうち、繰り返される【意味合い】とそうでないものが【内包】されていくことに【観客】も気付いていくことになります。
このとき【重ね合わせ】される【意味合い】は【強調】として映り、そうでない【意味合い】の【印象】は薄れていきます。つまり【物語】の【流れ】(【過程】)は“【誤解】を削る【流れ】”になっているわけですね。
この【結果】として、【物語】の【流れ】が進むにつれ、『【観客】にとっては、【核心】である“【誤解】ではない【範囲】”が【焦点】として【浮き彫り】になってくる』という【見え方】が【提示】できることになります。
“【誤解】を削る【流れ】”は、実は【謎解き】に近い【構造】を持っています。徐々に集まってくる【手がかり】一つ一つは、【謎解き】には【不正確】で“【誤解】の【範囲】”も広いものです。ですが【物語】の【流れ】とともに【手がかり】の数を増やして【重ね合わせ】していくうち、“【誤解】の【範囲】”は削られて【焦点】が絞られていき、【真相】が【浮き彫り】になってくる――という【流れ】が生まれます。
この場合、『【流れ】があって、かつ【誤解】を含む“【次善】の【表現】”を用いて【重ね合わせ】していくからこそ、【焦点】が絞られていく【過程】を通じて【観客】の【意識】を先へ先へと【牽引】する【効果】(=【利点】)が生まれる』ということになりますね。
逆に【冒頭】で「【オチ】は○○だよ」と【ネタバレ】されては、この【効果】は生まれないわけです。
そして【ネタバレ】を嫌う人がいる程度には、“【誤解】を削る【流れ】”は【有効】ということでもあります。
つまり私は【誤解】を【利用】する【考え方】に立っているわけですね。
この【考え方】を少し【整理】してみますと。
私は『【誤解】を【利用】する』と述べましたが、そもそも【現実世界】においても【誤解】は【存在】するものです。つまり【排除】が【困難】なら【利用】してしまおう――というわけです。実際に【叙述トリック】を始め、【誤解】を【利用】した【表現】は多々あります。
また【誤解】が【現実世界】に【存在】するなら、【物語】の中にも【誤解】を【存在】させた方が【リアリティ】の上で【有利】でもあります。
ならば、【観客】からの【見え方】にも【誤解】があった方が『あたかも【現実】に【物語】に立ち会っているかのような【リアリティ】』の上で【有利】ということになります。【観客】が【現実世界】を【観察】するにも【誤解】や【見落とし】は付きものですから。
もちろん【創作】としては、そこへ新たに【観察】や【考察】で【情報】を【重ね合わせ】することで、【誤解】の【範囲】を削っていって【理解】へ迫っていくわけですが。
ただ【理解】へ迫っていく【過程】は、【多様性】に基づき【人の数】だけ【存在】します。なので【理解】の【過程】を【作者】の【都合】一つで【決め付け】しようとするのは、好ましくないことになりますね。
ここで、私は【現実】にある【現象】を【利用】する手を考えます。
そうやって【現実世界】で【理解】へ迫っていく【過程】を考えてみますと。
【現実世界】を観てみると、【神】のような【存在】の【介入】はありません。
これは【物語】でも、『【作者】による【介入】(≒【決め付け】)が匂うと【不自然】』ということを意味します。
そこで【自分】を振り返ってみます。実はそれなりの【理解】へ達したなら、【現場】では“【誤解】を削る【道しるべ】”が見えてくるものです。
ならば【物語】で【観客】を【理解】へ【誘導】するには、『【現実】において“【誤解】を削りやすい【道しるべ】”を【発見】していく【過程】とその【環境】』を【可能】な限り【再現】することが望ましい――ということになります。ある種の【現実】の【再現】ですね。
そしてこの“【誤解】を削りやすい【道しるべ】”が得られるのは、他ならぬ【現場】です。
ならば【作者】としては、まず第一に【現場】を描くのが【有利】というものです。さらに【現場】にいる【臨場感】を描く上では【描写】、しかも【時系列順】つまり【認識】した【順序】に沿ったものが【有利】ということになりますね。
逆に【説明】は【情報】を【整理】・【補足】してしまいがちな分だけ【不利】ということになります。これが【現場】で【体験】されるはずの【認識】の【順序】を【逸脱】しやすいわけですから。
そこで【現場】を描く、ということについて考えてみますと。
“【誤解】を削りやすい【道しるべ】”は【現場】にあるとして、ではその【現場】を描く【意味】はと申せば。
【小説】とは【物語】の一種です。【物語】である以上は【現場】に【臨場】する【擬似体験】こそが最も【自然】で【情報量】も多いことになります。【説明】は【加工】されているので【不自然さ】は免れ得ません。
この点、もちろん【自然】な【擬似体験】であるほど【観客】の【没入】を誘いやすく、【没入】に伴って【説得力】が醸されます。
ただし【説明】を【表層】に置かないからといって、【事実関係】の【作り込み】で手を抜いていい【理由】にはなりません。
私が重んじるのは『【観客】に【自由】に【現場】を感じてもらうこと』です。そうして【観客】が眼を留めた【事実】が、【縦横無尽】の【事実関係】を通して他の【事実】の【裏付け】や【ヒント】になっていくのです。
これほど私が【現場】の【再現】にこだわるのは、【我流】では【観客】の【認識】を【誘導】するのに“【現実】の【力】”を借りるからです。言い換えると『“【現実】の【存在感】”が【ヒト】の【意識】を引き付ける【力】』ですが,これは後にお伝えするとして。
何にせよ【縦横無尽】の【事実関係】があれば『【見落とし】上等』、【説明】に【固執】する【理由】も減り、【現場】を【再現】する【意義】も増すというものです。
ただしこれだけでは、【見落とし】に関する【心配】は残るはずです。もっと【観客】に気付かれたい、と。
実はこの【心配】に対し、“【シーン】という【現場】”を大切にするからこそ【力】を発揮する、“【観客】の【認識】を【誘導】する【存在】”があります。
“【シーン】という【現場】”に【臨場】するとき、そこには必ずと言っていいほど【登場人物】が【存在】するものです。
【理由】は【単純】、【物語】を【駆動】するのが【登場人物】だからですね。
そして【登場人物】が【人格】として描かれるなら、その【認識】や【判断】は【人格】のもので、同じく【人格】である【観客】の【認識】は惹き付けやすくなります。
また【作者】の【カメラ・ワーク】もあります。
こちらも【人格】である【作者】の【認識】が【反映】されるものですから、【登場人物】に準じた【水準】で【観客】の【意識】を惹き付けやすくはあるわけです。
ただしこの【在り方】は、【説明】とは【相性】よくはありません。【説明】では【情報】を【整理】してしまいますが、【現実】の【現場】はそのように【整理】されていないからです。
その意味では、【登場人物】もまた“【シーン】という【現場】”の【一部】です。なのであくまで【登場人物自身】の【主観】と【判断】によって【認識】し、【判断】し、【行動】します。それを【作者】の【判断】で【カメラ・ワーク】が描いていくわけです。
このとき、【作者】として“【表層】の【表現】”に込めるのは『“【シーン】という【現場】”にある【現象】+α』まで、というのが【我流】の【考え方】です。
前回はこの【理由】についてお話ししました。
私が借りようとする“【現実】の【力】”というのは、“【観客】という【人格】”が持つ“【動物】としての【本能】”です。
【ヒト】は主に【動き】、【同族】、【共感】(【共同注視】)に対して【敏感】です。これは【本能】によるものです。
【言い方】を変えましょう。【観客】の【本能】は、【意識】を【誘導】する上で役に立ってくれるのです。もちろん【個性】に基づき【効果】に【ばらつき】はありますが、それにしても【自然】な【誘導】であることに変わりはありません。
そして【観客】の【本能】を【利用】するからには、【本能】が現れるほどその【状況】に【臨場】している【実感】、つまり【臨場感】や【説得力】が【前提】となります。
であれば、“【シーン】という【現場】”で描かれるものは『“【シーン】という【現場】”にある【現象】』、【補足】を付けるにしても“【最低限】の+α”までというものでしょう。【現場】には【詳細】な【説明】など掲げられてはいませんし、【現象】は【説明】を待ってくれるわけでもありませんから。
ここで【具体的】に【観客】の【本能】を導いてくれるのが、例えば【人格】としての【登場人物】であり、例えば【作者】が【意識】を追うかのような【カメラ・ワーク】であり、というわけです。
今回はこの【本能】と【現場】の【関係性】を、もう少し掘り下げてみましょう。
○【本能】と【現場】
ここで、【物語】の中にある【現場】へ話を移します。
【動き】にしても【ヒト】にしても、です。【認識】の【対象】が【現実】により近い【存在感】を持っているほど、これら“【本能】に基づく【認識】の【優先順位】”は【心理】に強く【影響】します。
裏を返せば、『“【存在感】や【臨場感】が薄い、あるいは【現実感】の薄い(【説得力】に欠ける)【表現】”に対しては、“【本能】に基づく【認識】の【優先順位】”の【影響】は弱まる』ということです。
例えば【眼が滑る】という【現象】の中には、一つには『「【存在感】や【臨場感】が薄すぎて、【対象】を【認識】するに足る【影響力】を感じない」という【理由】で、【表現】が頭に入ってこない』というものも【存在】していそうです。
【我流】で【着眼】するのは、【観客】の【本能】です。そして【本能】は、“【現実】にある【対象】”により強く【反応】します。
そしてここでいう【対象】には“【認識】の【優先順位】”がありますが、その【認識】を引き出すためには『【対象】とそこにある【環境】がより【現実】に近い(【作品世界】なりの【法則】の下で、ではあれ)方が【有利】』ということになりますね。
【我流】なりに【言語化】を試みると、このようになります。
◇
・【観客】の【本能】に基づき“【認識】の【優先順位】”を【利用】する上では、“【シーン】という【現場】”とそこにある【存在】(【登場人物】を含む)や【現象】全般の【存在感】と【臨場感】が特に【重要】
・【存在感】と【臨場感】のためには、【登場人物】を含めた【描写対象】とその【環境】が(【作品世界】なりの【法則】に基づき)【現実】に近い方が【有利】
◇
【発展】させれば、『“【シーン】という【現場】”やその一部としての【存在感】や【臨場感】は、【本能】に基づいて【描写】の【説得力】に【寄与】する』ということになりますね。
その一環として、『【臨場感】と【説得力】が“【シーン】という【現場】”にあるからこそ、そこに「“【人格】としての【登場人物】”がいる」という【存在感】に繋がる』ということにもなりそうです。
例えば【撮影用】の【グリーン・バック】を【背景】に【登場人物】が【芝居】を【展開】していたとして、【グリーン・バック】そのままではそこに(【作品世界】としての)【臨場感】が伴うことはないように。
詰まるところ、『“【シーン】という【現場】”に【同居】する【存在】は、【登場人物】も【現象】も【物体】も含めて、互いの【臨場感】や【説得力】に【影響】を与え合う』ということになります。
これは実に【当然】のことです。
実際の話、【現実】の【現場】にある【存在】は、そこにある【事実関係】の数々から【影響】を受けます。【位置関係】然り、【相対関係】然り、【因果関係】然り、という具合に。例えば【光】の【反射】であるとか、【気流】の【影響】であるとか。
そしてこの【事実関係】というものは、【存在】それぞれに紐付いた【事実】を元にしているのです。
なので【現場】に【存在】するなら、【現場】に【同居】する他の【存在】と【影響】を与え合うのが【自然】、というわけですね。
そんなわけで、“【シーン】という【現場】”の【臨場感】や【説得力】のためには、もっと申せば【本能】に基づいて【観客】の【意識】を【誘導】するためには、そこに【同居】する【存在】それぞれの【影響】を【描写】に織り込むのが【得策】、ということになります。
そうやって“【シーン】という【現場】”の【描写】を(【作品世界】なりに)“【現実】にある【現場】”へ近付けていくにつれ、【観客】は【本能】に基づいて【描写】に、より【正確】には【描写】に仕込まれた“【前段階】の【理解】”の数々に、【自然】に【認識】を向けていきやすくなる――という、これは【我流】の【考え】なわけです。
もちろんこの時、【観客】が【作者】からの【押し付け】を感じる【危険】は【最小化】することになります。
◇
さて、今回は一旦ここまで。
【観客】の【本能】に基づいて【意識】を【誘導】する上では、【本能】が強く【反応】する“【シーン】という【現場】”を【用意】する【必要】に迫られるわけですが。
その【本能】が最も強く【反応】するのは、【現実】にある(と【認識】する)【存在】や【場】です。
となれば、【物語】の中にある“【シーン】という【現場】”へ眼を向けてみるとき、【現実】に近く【認識】される【存在感】や【臨場感】、【現実感】が濃いほど【観客】の【本能】へ訴える【力】は強くなるはずです。
なので【観客】の【本能】を【利用】して【意識】を【誘導】するためには、『“【シーン】という【現場】”の【描写】を(【存在感】や【臨場感】のために)“【現実】の【現場】”(ただし【作品世界】なりに)近付けていくのが【有効】』ということになります。
次回は【締めくくり】として、【我流】で【有効】と捉える“【シーン】という【現場】”の【イメージ】をお伝えしてみましょう。
よろしければまたお付き合い下さいませ。
それでは引き続き、よろしくお願いいたします。




