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228.【誤解】経由【理解】ゆき(第14回)(2025.10.04)

 いつもご覧いただきまして、誠にありがとうございます。中村尚裕です。


 さて私、このところ『“【誤解】の【余地】のない【表現】”を目指したくなる【心理】』について考えております。


 実際のところ、“【誤解】の【余地】のない【表現】”というものを望む【作者】は少なくないようです。

 ですが【観客】も【作者】も【人間】で、【人間】であるからには【多様性】を持ちます。しかも【他人】の【思考】は覗けません。

 となれば【作者】と【不特定多数】の【観客】の間で【思考】を【完全一致】させるなど、【事実上不可能】です。


 もちろん【定義】を【共有】することは【可能】です。が、これは【高等数学】や【法律】にも【匹敵】する【ハードル】を越えてのことです。相応に【膨大】な【背景情報】を【共有】し、しかも【事実】のみを扱うことになります。

 【表現】としては【記事】や【文書】に近く、従って【創作】、特に【物語】とは極めて【相性】が悪いということになりそうですね。


 もちろんその一方で、“【現状】に【安住】せず【前進】する【姿勢】”とその【過程】には、むしろ大いに【存在意義】と【価値】があるものです。


 ただ【我流】では、「【誤解】されたくない」という【心理】が、往々にして『【過程】を飛ばして【ゴール】に至りたい』という【姿勢】に結び付いてしまうところもよく【観測】するところです。


 『【誤解】される』、『【理解】されない』というものは、もちろん気分のいいものではありません。なので“【誤解】を【回避】したい【動機】”の【存在】そのものは、私としても【否定】しません。


 ただし『【記述】したこと以上の【意味付け】を【理解】されたい』という【願望】が加わると、話が変わります。


 「【記述】したこと以上の【意味付け】を【観客】に読み取ってもらいたい」という【願望】は、【作者】が【観客】に【文面】以上の【拡大解釈】を【期待】する【言葉】です。これは『【作者】が“【誤解】の【余地】”を【表現】に持たせること』に他なりません。

 「【誤解】されたくない」と語っておきながら、“【誤解】の【余地】”を除くどころか【観客】に「【都合】よく【表現】を【誤解】してほしい」というならば、その【作者】の【姿勢】は【不誠実】ということになりますね。


 もちろん【誤解】に伴う【不快】な【経験】もあるでしょう。実際、“【積極的】に【誤解】する【姿勢】”も見られます。

 ですがそれは“【不快】な【誤解】を示す【観客】”に対する【向き合い方】の【問題】です。【誤解】の【きっかけ】となる【表現】の【問題】ではありません。

 つまり『誰を“【観客】にしない”か』は極めて【重要】な【命題】ということになります。


 その上で、私の考えは『【誤解】を受け入れる』というものです。


 『【誤解】を【回避】したいなら、まずは【誤解】を【観察】するところから』ということですね。


 私なりに【理解】の【プロセス】を振り返ると、何もないところから【理解】がいきなり【発生】することはほぼありません。つまり【圧倒的大多数】の場合においては『【理解】の【前段階】には、【背景知識】が【ゼロ】ではないにしろ【不充分】な、“【理解未満】という【誤解】”の【状態】が【存在】する』ということになります。


 ということは、“【理解】へ至る【誤解】”、言い換えれば“【前段階】の【理解】”とでも称すべきものが【存在】するわけです。


 これを踏まえて私の【感覚】を【言語化】するなら、『【理解】とは、【自分】の中にある【イメージ】を【組み立てて】、【理解】に【相当】する【イメージ】を【完成】させること』というところです。

 この【感覚】はもっと【深掘り】できますが、それはもっと後のこととしましょう。ここでは私の【認識】として『【理解】とは【組み立てて】、【完成】させるもの』とだけ【記憶】しておいて下さい。


 この【組み立て】という【感覚】を元に、【誤解】や【理解】という【現象】を見てみますと。


 【理解】への【過程】に【組み立て】という【感覚】を持ち込んでみれば、【パーツ】というものが【存在】することになります。


 ここで『【パーツ】は“【前段階】の【理解】”、しかもいくつもある』と考えてみて下さい。すると【パーツ】が揃い、かつ【組立説明書】に【相当】する【気付き】が加わって、そこから【組み立て】を経て、ようやく【理解】が【完成】することになります。


 であれば、『何もないところに、いきなり【理解】を【出現】させようとすると【不利】』ということになります。これは『“【前段階】の【理解】”に当たる【パーツ】としての【誤解】の【存在】は、むしろ【肯定】した方が【理解】のためには【有利】』ということでもありますね。

 そして“【前段階】の【理解】”として【誤解】の【存在】を認めるなら、『【理解】には【歩留まり】がある』ということも見えてきます。『【誤解】するな、というのは【無理難題】』というわけです。


 その上で、『上手い【組み立て方】がある』のも【事実】です。ならば『上手い【表現】は、上手い【組み立て方】を押さえた作りになっている』ということになりますね。そしてそのための【仕込み】があることも【想像】することができます。


 【理解】を組み立てやすくするための【仕込み】、と捉えてみれば、【パーツ】に相当する“【前段階】の【理解】”について考えておく【価値】もあろうというものです。


 そもそも【理解】のための【仕込み】であるからには、【パーツ】である“【前段階】の【理解】”は、【そのものズバリ】ではないにしろ【理解】に近しいものである【必要】はあります。


 また【観客】は【多様】ですから、【読解力】もまた【多様】です。

 【誤解】のみならず【見落とし】もあります。


 同様に“【理解】の【過程】”もまた【多様】です。

 であれば【パーツ】即ち“【前段階】の【理解】”もその【組み立て方】も【複数】、と【冗長性】を【意識】しておくのがよさそうです。


 そう踏まえてみれば、『1の【理解】を得るためには、10を語れ(【表現】せよ)。10を語る(【表現】する)ためには、100(の【背景知識】)を知れ』という【経験則】にも【説得力】を感じるものです。


 少なくとも【理解】を求める上では、これだけの【仕込み】として“【前段階】の【理解】”を込めるつもりで臨むのが【現実的】でありましょうね。


 “【前段階】の【理解】”を仕込む、という【考え方】に立ってみると、そのものズバリの【理解】の一歩【手前】に【類義語】という【概念】が見えてきます。

 また【辞書】という【概念】も見えてきますね。


 これらが【意味】するものは、“【次善】の【表現】”というものの【存在】と、『【表現】を重ねることで【同等】の【意味】を【表現】できる』という【事実】です。

 さらに【辞書】が示すのは『より多くの【表現】を用いれば、元の【表現】を【言い換える】ことができる』という【事実】と、さらに『【言い換え】は一つとは限らない』という【事実】です。


 これらを【総合】すると、は『一つの【意味】に行き着く【表現】に、【選択】の幅がある』ということになります。これは『“【次善】の【表現】”を【重ね合わせる】こと』ですが、同時に“【前段階】の【理解】”を積み重ねて【理解】を目指す上で役立つはずですね。また、そこには『【表現】を【一言】で【完結】させないがゆえの【利点】』もまた生まれてきます。


 この【利点】について考えてみますと。


 【歴史】の【授業スタイル】を振り返ってみれば、【歴史的事実】一つ一つを【ピン・ポイント】に並べていく【やり方】と、【歴史的事実】の数々に【関連性】や【因果関係】を絡め、【物語】のように魅せていく【やり方】、主に二つが思い浮かぶものです。

 そして【理解】の【ハードル】は、【後者】の方が低くなりやすいようですね。


 【我流】で観るところ、【前者】は“【厳密】な【理解】”を求める【説明】、【後者】は【事実群】の【関連性】や【因果関係】で互いを補い合い“【理解】を【形成】する”【物語】という【構造】が窺えます。

 つまり【物語】、言い換えると『“【次善】の【表現】”を【複数】用いて、(【表現】を)【一言】で【完結】させない【やり方】』では、徐々に【観客】の頭の中で【事実関係】の【ネットワーク】が【構築】されていく――と観ることができるわけです。


 であれば【誤解】や【見落とし】を【リカヴァリィ】できる【物語】は、【最終的】に“【理解】を【形成】する”上で【非常】に【有利】と申せましょう。

 この【構造】は、“【厳密】な【理解】”を求める【説明】では生み出せないものです。そこには【物語】のような【流れ】がないからです。


 そして【小説】は【物語】ですから、『“【次善】の【表現】”を【複数】用いて、(【表現】を)【一言】で【完結】させない【やり方】』が【利点】を持つことになりますね。


 先に私は、【感覚】として『【理解】とは、【自分】の【認識】を“【誤解】ではない【範囲】”へ導く【道】(しかも【高架道路】)』とお伝えしました。しかもその【高架道路】は、『【組み立て式】で、山あり谷ありの【障害物】を避けて【認識】を“【誤解】ではない【範囲】”へ導く【道】、曲がりくねった【高架道路】』、というものです。


 また【道】の【パーツ】に【相当】する“【次善】の【表現】”【単体】で得られるものは、多くの場合で“【前段階】の【理解】”、つまり【誤解】の一種です。


 ここで『“【次善】の【表現】”を【重ね合わせる】』という【考え方】に立ってみましょう。“【次善】の【表現】”一つ一つは【不完全】ですが、【物語】の【流れ】(【過程】)を経ていくつとなく【重ね合わせ】されるうち、繰り返される【意味合い】とそうでないものが【内包】されていくことに【観客】も気付いていくことになります。


 このとき【重ね合わせ】される【意味合い】は【強調】として映り、そうでない【意味合い】の【印象】は薄れていきます。つまり【物語】の【流れ】(【過程】)は“【誤解】を削る【流れ】”になっているわけですね。

 

 この【結果】として、【物語】の【流れ】が進むにつれ、『【観客】にとっては、【核心】である“【誤解】ではない【範囲】”が【焦点】として【浮き彫り】になってくる』という【見え方】が【提示】できることになります。


 “【誤解】を削る【流れ】”は、実は【謎解き】に近い【構造】を持っています。徐々に集まってくる【手がかり】一つ一つは、【謎解き】には【不正確】で“【誤解】の【範囲】”も広いものです。ですが【物語】の【流れ】とともに【手がかり】の数を増やして【重ね合わせ】していくうち、“【誤解】の【範囲】”は削られて【焦点】が絞られていき、【真相】が【浮き彫り】になってくる――という【流れ】が生まれます。


 この場合、『【流れ】があって、かつ【誤解】を含む“【次善】の【表現】”を用いて【重ね合わせ】していくからこそ、【焦点】が絞られていく【過程】を通じて【観客】の【意識】を先へ先へと【牽引】する【効果】(=【利点】)が生まれる』ということになりますね。


 逆に【冒頭】で「【オチ】は○○だよ」と【ネタバレ】されては、この【効果】は生まれないわけです。

 そして【ネタバレ】を嫌う人がいる程度には、“【誤解】を削る【流れ】”は【有効】ということでもあります。


 つまり私は【誤解】を【利用】する【考え方】に立っているわけですね。

 

 この【考え方】を少し【整理】してみますと。


 私は『【誤解】を【利用】する』と述べましたが、そもそも【現実世界】においても【誤解】は【存在】するものです。つまり【排除】が【困難】なら【利用】してしまおう――というわけです。実際に【叙述トリック】を始め、【誤解】を【利用】した【表現】は多々あります。


 また【誤解】が【現実世界】に【存在】するなら、【物語】の中にも【誤解】を【存在】させた方が【リアリティ】の上で【有利】でもあります。

 ならば、【観客】からの【見え方】にも【誤解】があった方が『あたかも【現実】に【物語】に立ち会っているかのような【リアリティ】』の上で【有利】ということになります。【観客】が【現実世界】を【観察】するにも【誤解】や【見落とし】は付きものですから。


 もちろん【創作】としては、そこへ新たに【観察】や【考察】で【情報】を【重ね合わせ】することで、【誤解】の【範囲】を削っていって【理解】へ迫っていくわけですが。


 ただ【理解】へ迫っていく【過程】は、【多様性】に基づき【人の数】だけ【存在】します。なので【理解】の【過程】を【作者】の【都合】一つで【決め付け】しようとするのは、好ましくないことになりますね。


 ここで、私は【現実】にある【現象】を【利用】する手を考えます。

 そうやって【現実世界】で【理解】へ迫っていく【過程】を考えてみますと。


 【現実世界】を観てみると、【神】のような【存在】の【介入】はありません。

 これは【物語】でも、『【作者】による【介入】(≒【決め付け】)が匂うと【不自然】』ということを意味します。


 そこで【自分】を振り返ってみます。実はそれなりの【理解】へ達したなら、【現場】では“【誤解】を削る【道しるべ】”が見えてくるものです。

 ならば【物語】で【観客】を【理解】へ【誘導】するには、『【現実】において“【誤解】を削りやすい【道しるべ】”を【発見】していく【過程】とその【環境】』を【可能】な限り【再現】することが望ましい――ということになります。ある種の【現実】の【再現】ですね。


 そしてこの“【誤解】を削りやすい【道しるべ】”が得られるのは、他ならぬ【現場】です。

 ならば【作者】としては、まず第一に【現場】を描くのが【有利】というものです。さらに【現場】にいる【臨場感】を描く上では【描写】、しかも【時系列順】つまり【認識】した【順序】に沿ったものが【有利】ということになりますね。


 逆に【説明】は【情報】を【整理】・【補足】してしまいがちな分だけ【不利】ということになります。これが【現場】で【体験】されるはずの【認識】の【順序】を【逸脱】しやすいわけですから。


 そこで前回は、【現場】を描く、ということについて考えてみました。


 “【誤解】を削りやすい【道しるべ】”は【現場】にあるとして、ではその【現場】を描く【意味】はと申せば。


 【小説】とは【物語】の一種です。【物語】である以上は【現場】に【臨場】する【擬似体験】こそが最も【自然】で【情報量】も多いことになります。【説明】は【加工】されているので【不自然さ】は免れ得ません。


 この点、もちろん【自然】な【擬似体験】であるほど【観客】の【没入】を誘いやすく、【没入】に伴って【説得力】が醸されます。


 ただし【説明】を【表層】に置かないからといって、【事実関係】の【作り込み】で手を抜いていい【理由】にはなりません。


 私が重んじるのは『【観客】に【自由】に【現場】を感じてもらうこと』です。そうして【観客】が眼を留めた【事実】が、【縦横無尽】の【事実関係】を通して他の【事実】の【裏付け】や【ヒント】になっていくのです。


 これほど私が【現場】の【再現】にこだわるのは、【我流】では【観客】の【認識】を【誘導】するのに“【現実】の【力】”を借りるからです。言い換えると『“【現実】の【存在感】”が【ヒト】の【意識】を引き付ける【力】』ですが,これは後にお伝えするとして。


 何にせよ【縦横無尽】の【事実関係】があれば『【見落とし】上等』、【説明】に【固執】する【理由】も減り、【現場】を【再現】する【意義】も増すというものです。


 ただしこれだけでは、【見落とし】に関する【心配】は残るはずです。もっと【観客】に気付かれたい、と。


 今回は“【シーン】という【現場】”を大切にするからこそ【力】を発揮する、“【観客】の【認識】を【誘導】する【存在】”についてお話ししましょう。


 ◇


○【現場】を描く、ということ(その2)


 実は“【シーン】という【現場】”に【臨場】するとき、必ずと言っていいほどそこにいる【存在】があります。

 それが【登場人物】です。【理由】は【単純】、『【物語上】の【出来事】は、【原則】として【登場人物】が【駆動】するから』です。


 【並行】して【カメラ・ワーク】という【演出】もあります。その時その時に【重要】な【意味】を持つ(と【作者】が捉えている)【現象】を、【カメラ】が【クローズ・アップ】して【視野】に捉えるわけですね。


 つまり“【シーン】という【現場】”は、あくまで【現場】そのままです。

 その一方で、【登場人物】と【作者】の【カメラ・ワーク】が、それぞれの【主観】で【重要】と【認識】する【現象】を【クローズ・アップ】する【役割】を担うわけです。


 ただしそれぞれの【役割】は、【原則】として【クローズ・アップ】まで、とします。

 【理由】は【単純】、『【現実】に近い【見え方】を保つため』です。


 ここで、私としても【予測】する【意見】があります。


 ◇


・【意見】「【無知】な【登場人物】を放り込めばいいじゃないか。それでもう一人、【物知り】な【登場人物】に【説明】させればいいでしょ?」


 ◇


 私が【認識】するに、この【意見】が【提示】しているのはあくまでも“【説明】するための【テクニック】”です。【説明】ですから【認識】の【順序】は【維持】されにくく、なので【臨場感】は削がれやすくなります。


 加えて、【現実】には『一つの【現象】が【完結】する前に、別の【現象】が割り込むこと』だって起こります。これを【説明】しようとすると【認識】の【順序】はさらに崩され、【臨場感】はさらに失われることになります。


 さらには、そもそも『【素人】を【解説役】付きで【現場】に【臨場】させる【不自然さ】』は避けられません。


 つまり【我流】で【認識】するところ、『この【意見】は、【臨場感】を持たせた【現場】の【描写】には特に【貢献】しない』、ということになります。


 これに加えて、私が【危惧】するのは、以下の【ポイント】ですね。


 ◇


・【説明】を増やすほど【現場】らしくなくなり、【作り物臭くなる】


・【説明】によって、『【流れ】とともに【焦点】が絞られていく【楽しみ】』が損なわれる


 ◇


 これらを【要約】するなら、『【説明】の【短所】によって【説得力が減殺される】上に、【流れを損ねる】ことで【説教臭くなる】という【危険】を抱えることになる』とでも申しましょうか。その【結果】として【物語】がどんどん【つまらなく】なっていく【危惧】を、私としては抱くところですね。


 この点、【我流】の【方向性】を【言語化】するなら、『【物語】を【擬似体験】として【提示】するため、【描写】すべきはあくまで【現場】。そこに【臨場】する【登場人物】は【現場】の【一部】、ただし【人格】を持った【存在】』という【表現】になりますね。


 というわけで、ここで【登場人物】に話を戻しましょう。


 私は『“【シーン】という【現場】”に【臨場】するとき、必ずと言っていいほどそこにいる【存在】』として【登場人物】を挙げました。

 その【存在意義】を、『【登場人物】と【作者】の【カメラ・ワーク】が、それぞれの【主観】で【重要】と【認識】する【現象】を【クローズ・アップ】する【役割】を担う』として、です。


 ただしもちろん、【登場人物】なら何でもいい、というわけでもありません。


 その【理由】としてお話ししたのは、『【物語上】の【出来事】は、【原則】として【登場人物】が【駆動】するから』ということです。

 つまり【登場人物】は、【見方】を変えれば『“【シーン】という【現場】”の【一部】』というわけです。


 このような【背景】から、【登場人物】はあくまでその【人格】に基づいて【行動】します。“【作者】の【操り人形】”では“【シーン】という【現場】”が【現実】から著しく【乖離】するためです。

 【具体的】には、【登場人物】は【人格】に基づいて【現場】の【現象】の数々を【認識】し、また同時に【人格】とその【認識】に応じて【言動】(【芝居】)を示す――というわけです。


 もちろんこれは、『【作者】として【現象】や【芝居】としての【裏打ち】や【作り込み】を施すのが【前提】』です。


 さらに【描写】には【カメラ・ワーク】を【活用】することで“【認識】を追う【演出】”を施す――という具合ですが、【作者】として“【表層】の【表現】”に込めるのは『“【シーン】という【現場】”にある【現象】+α』まで、というのが【我流】の【考え方】です。


 その【理由】については、次回お話しするとしましょう。


 ◇


 さて、今回は一旦ここまで。


 “【シーン】という【現場】”に【臨場】するとき、そこには必ずと言っていいほど【登場人物】が【存在】するものです。

 【理由】は【単純】、【物語】を【駆動】するのが【登場人物】だからですね。

 そして【登場人物】が【人格】として描かれるなら、その【認識】や【判断】は【人格】のもので、同じく【人格】である【観客】の【認識】は惹き付けやすくなります。


 また【作者】の【カメラ・ワーク】もあります。

 こちらも【人格】である【作者】の【認識】が【反映】されるものですから、【登場人物】に準じた【水準】で【観客】の【意識】を惹き付けやすくはあるわけです。


 ただしこの【在り方】は、【説明】とは【相性】よくはありません。【説明】では【情報】を【整理】してしまいますが、【現実】の【現場】はそのように【整理】されていないからです。


 その意味では、【登場人物】もまた“【シーン】という【現場】”の【一部】です。なのであくまで【登場人物自身】の【主観】と【判断】によって【認識】し、【判断】し、【行動】します。それを【作者】の【判断】で【カメラ・ワーク】が描いていくわけです。


 このとき、【作者】として“【表層】の【表現】”に込めるのは『“【シーン】という【現場】”にある【現象】+α』まで、というのが【我流】の【考え方】です。


 その【理由】については、次回お話しするとしましょう。


 よろしければまたお付き合い下さいませ。


 それでは引き続き、よろしくお願いいたします。

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