220.【誤解】経由【理解】ゆき(第6回)(2025.08.09)
いつもご覧いただきまして、誠にありがとうございます。中村尚裕です。
さて私、このところ『“【誤解】の【余地】のない【表現】”を目指したくなる【心理】』について考えております。
実際のところ、“【誤解】の【余地】のない【表現】”というものを望む【作者】は少なくないようです。
ですが【観客】も【作者】も【人間】で、【人間】であるからには【多様性】を持ちます。しかも【他人】の【思考】は覗けません。となれば【作者】と【不特定多数】の【観客】の間で【思考】を【完全一致】させるなど、【事実上不可能】です。
もちろん【定義】を【共有】することは【可能】ですが、これは【高等数学】や【法律】にも【匹敵】する【ハードル】を越えてのことです。相応に【膨大】な【背景情報】を【共有】し、しかも【事実】のみを扱います。
【表現】としては【記事】に近く、従って【創作】、特に【物語】とは極めて【相性】が悪いということになりそうですね。
もちろんその一方で、“【現状】に【安住】せず【前進】する【姿勢】”とその【過程】には、むしろ大いに【存在意義】と【価値】があるものです。
ただ【我流】では、「【誤解】されたくない」という【心理】が、往々にして『【過程】を飛ばして【ゴール】に至りたい』という【姿勢】に結び付いてしまうところもよく【観測】するところです。
『【誤解】される』、『【理解】されない』というものは、気分のいいものではありません。なので“【誤解】を【回避】したい【動機】”の【存在】そのものは、私としても【否定】しません。
ただし『【記述】したこと以上の【意味付け】を【理解】されたい』という【願望】が加わると、話が変わります。
「【記述】したこと以上の【意味付け】を【観客】に読み取ってもらいたい」という【願望】は、【作者】が【観客】に【文面】以上の【拡大解釈】を【期待】する【言葉】です。これは『【作者】が“【誤解】の【余地】”を【表現】に持たせること』に他なりません。
「【誤解】されたくない」と語っておきながら、“【誤解】の【余地】”を除くどころか「【都合】よく【表現】を【誤解】してほしい」というならば、その【作者】の【姿勢】は【不誠実】ということになりますね。
もちろん【誤解】に伴う【不快】な【経験】もあるでしょう。実際、“【積極的】に【誤解】する【姿勢】”も見られます。
ですがそれは“【不快】な【誤解】を示す【観客】”に対する【向き合い方】の【問題】です。【誤解】の【きっかけ】となる【表現】の【問題】ではありません。つまり『誰を“【観客】にしない”か』は極めて【重要】な【命題】ということになります。
その上で、私の考えは『【誤解】を受け入れる』というものです。
『【誤解】を【回避】したいなら、まずは【誤解】を【観察】するところから』ということですね。
私なりに【理解】の【プロセス】を振り返ると、何もないところから【理解】がいきなり【発生】することはほぼありません。つまり【圧倒的大多数】の場合においては『【理解】の【前段階】には、【背景知識】が【ゼロ】ではないにしろ【不充分】な、“【理解未満】という【誤解】”の【状態】が【存在】する』ということになります。
ということは、“【理解】へ至る【誤解】”、言い換えれば“【前段階】の【理解】”とでも称すべきものが【存在】するわけです。
これを踏まえて私の【感覚】を【言語化】するなら、『【理解】とは、【自分】の中にある【イメージ】を【組み立てて】、【理解】に【相当】する【イメージ】を【完成】させること』というところです。
この【感覚】はもっと【深掘り】できますが、それはもっと後のこととしましょう。ここでは私の【認識】として『【理解】とは【組み立てて】、【完成】させるもの』とだけ【記憶】しておいて下さい。
前回はこの【組み立て】という【感覚】を元に、【誤解】や【理解】という【現象】を【考察】してみました。
【理解】への【過程】に【組み立て】という【感覚】を持ち込んでみれば、【パーツ】というものが【存在】することになります。
ここで『【パーツ】は“【前段階】の【理解】”、しかもいくつもある』と考えてみて下さい。すると【パーツ】が揃い、かつ【組立説明書】に【相当】する【気付き】が加わって、そこから【組み立て】を経て、ようやく【理解】が【完成】することになります。
であれば、『何もないところに、いきなり【理解】を【出現】させようとすると【不利】』ということになります。これは『“【前段階】の【理解】”に当たる【パーツ】としての【誤解】の【存在】は、むしろ【肯定】した方が【理解】のためには【有利】』ということでもありますね。
そして“【前段階】の【理解】”として【誤解】の【存在】を認めるなら、『【理解】には【歩留まり】がある』ということも見えてきます。『【誤解】するな、というのは【無理難題】』というわけです。
その上で、『上手い【組み立て方】がある』のも【事実】です。ならば『上手い【表現】は、上手い【組み立て方】を押さえた作りになっている』ということになりますね。そしてそのための【仕込み】があることも【想像】することができます。
今回は【理解】を組み立てやすくする【仕込み】について、【考察】を巡らせてみましょう。
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○“【前段階】の【理解】”という【仕込み】
さて、【誤解】の中でも“【理解】へ至るもの”、言い換えれば“【前段階】の【理解】”が【存在】することを見出したところで。
今度は【理解未満】とでも言える【状態】と、そこから【理解】へ導いていく【手がかり】というものへ【考察】を巡らせてみましょう。
先述しましたが、私の【イメージ】は『【理解】とは、【自分】の中にある【イメージ】の【パーツ】(“【前段階】の【理解】”)を【組み立てて】、【理解】に【相当】する【イメージ】を【完成】させること』です。【理解】が【完成】する前に【パーツ】を集め、そこに最後の【パーツ】とともに【組立説明書】に相当する【気付き】が加わって、そこで【組み立て】を経てようやく【理解】が【完成】する――というところですね。
この【考え方】からすると、です。
【表現】する【作者】の【立場】からすれば、【パーツ】に相当する“【前段階】の【理解】”というものは、数多く仕込んであればあるほど【理解】は【完成】させやすいことになります。
もちろん“【前段階】の【理解】”が【パーツ】であるからには、全く【的外れ】なものであっていいわけではありません。それなりに【理解】に近しい“【前段階】の【理解】”であることが、【理解】を【完成】させる上では【必要】ということになるはずです。
さらに、【観客】は【多様】です。
【読解】の【能力】も【多様】なら、【表現】それぞれに対する【相性】もまた【多様】です。よって【誤解】もさることながら、それ以前に【意味付け】そのものを読み取れない【見落とし】も【覚悟】しておいた方がいいでしょう。
また“【理解】の【過程】”というものも、【観客】の【多様性】に応じて一つとは限りません。よって“【理解】の【過程】”は【複数】、それに応じて【パーツ】に相当する“【前段階】の【理解】”も【複数】、何なら【組み立て方】も【複数】、というように【冗長性】を【意識】しておくのがよさそうです。
このように考えると、巷間よく語られる【経験則】は次のように【解釈】することもできそうです。
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・【経験則】:1の【理解】を得るためには、10を語れ(【表現】せよ)。10を語る(【表現】する)ためには、100(の【背景知識】)を知れ
・【解釈】:1の【理解】の【背景】には10の【誤解】(“【前段階】の【理解】”という【パーツ】の【必要性】)を【覚悟】せよ。さらに10の【誤解】を【覚悟】する前に、100の【見落とし】を【覚悟】(して【背景知識】を踏まえた【表現】を【構築】)せよ
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もちろん、この【経験則】に【定量的】な【根拠】があるわけではありません。ですが【理解】を求める上では、【表現】にこれだけの【仕込み】として“【前段階】の【理解】”を込めるつもりで臨むのが【現実的】というところでしょう。
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さて、今回は一旦ここまで。
【理解】を組み立てやすくする【仕込み】、と捉えてみれば、【パーツ】に相当する“【前段階】の【理解】”について考えておく【価値】もあろうというものです。
そもそも【理解】のための【仕込み】であるからには、【パーツ】である“【前段階】の【理解】”は、【そのものズバリ】ではないにしろ【理解】に近しいものである【必要】はあります。
また【観客】は【多様】ですから、【読解力】もまた【多様】です。
【誤解】のみならず【見落とし】もあります。
同様に“【理解】の【過程】”もまた【多様】です。
であれば【パーツ】即ち“【前段階】の【理解】”もその【組み立て方】も【複数】、と【冗長性】を【意識】しておくのがよさそうです。
そう踏まえてみれば、『1の【理解】を得るためには、10を語れ(【表現】せよ)。10を語る(【表現】する)ためには、100(の【背景知識】)を知れ』という【経験則】にも【説得力】を感じるものです。
少なくとも【理解】を求める上では、これだけの【仕込み】として“【前段階】の【理解】”を込めるつもりで臨むのが【現実的】でありましょうね。
次回はこの“【前段階】の【理解】”について【考察】を巡らせてみましょう。
よろしければまたお付き合い下さいませ。
それでは引き続き、よろしくお願いいたします。




