218.【誤解】経由【理解】ゆき(第4回)(2025.07.26)
いつもご覧いただきまして、誠にありがとうございます。中村尚裕です。
さて私、このところ『“【誤解】の【余地】のない【表現】”を目指したくなる【心理】』について考えております。
実際のところ、“【誤解】の【余地】のない【表現】”というものを望む【作者】は少なくないようです。
ですが【観客】も【作者】も【人間】で、【人間】であるからには【多様性】を持ちます。しかも【他人】の【思考】は覗けません。となれば【作者】と【不特定多数】の【観客】の間で【思考】を【完全一致】させるなど、【事実上不可能】です。
もちろん【定義】を【共有】することは【可能】ですが、これは【高等数学】や【法律】にも【匹敵】する【ハードル】を越えてのことです。相応に【膨大】な【背景情報】を【共有】し、しかも【事実】のみを扱います。
【表現】としては【記事】に近く、従って【創作】、特に【物語】とは極めて【相性】が悪いということになりそうですね。
もちろんその一方で、“【現状】に【安住】せず【前進】する【姿勢】”とその【過程】には、むしろ大いに【存在意義】と【価値】があるものです。
ただ【我流】では、「【誤解】されたくない」という【心理】が、往々にして『【過程】を飛ばして【ゴール】に至りたい』という【姿勢】に結び付いてしまうところもよく【観測】するところです。
『【誤解】される』、『【理解】されない』というものは、気分のいいものではありません。なので“【誤解】を【回避】したい【動機】”の【存在】そのものは、私としても【否定】しません。
ただし『【記述】したこと以上の【意味付け】を【理解】されたい』という【願望】が加わると、話が変わります。
前回はこの辺りについて【考察】を巡らせてみました。
「【記述】したこと以上の【意味付け】を【観客】に読み取ってもらいたい」という【願望】は、【作者】が【観客】に【文面】以上の【拡大解釈】を【期待】する【言葉】です。これは『【作者】が“【誤解】の【余地】”を【表現】に持たせること』に他なりません。
「【誤解】されたくない」と語っておきながら、“【誤解】の【余地】”を除くどころか「【都合】よく【表現】を【誤解】してほしい」というならば、その【作者】の【姿勢】は【不誠実】ということになりますね。
もちろん【誤解】に伴う【不快】な【経験】もあるでしょう。実際、“【積極的】に【誤解】する【姿勢】”も見られます。
ですがそれは“【不快】な【誤解】を示す【観客】”に対する【向き合い方】の【問題】です。【誤解】の【きっかけ】となる【表現】の【問題】ではありません。つまり『誰を“【観客】にしない”か』は極めて【重要】な【命題】ということになります。
その上で、私の考えは『【誤解】を受け入れる』というものです。
今回は、この【考え方】を掘り下げてみましょう。
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○【誤解】の【存在】を受け入れる(その1)
さて、【誤解】を【回避】したいとして、それでいながら【誤解】を【観察】もせず騒ぐだけでは何も始まりません。
まずは【誤解】を知るところから。そのためには【観察】するところから始めましょう。
【定義】のくだりでも触れましたが、“【誤解】の【余地】をひたすら【排除】する【表現】”である【定義】において、“【厳密】な【理解】”を得るためには【膨大】な【背景知識】を【共有】することが【必要】になります。
すると【程度】はともかくとして、正しく【理解】を得るためには【相応】の【背景情報】を【共有】することが【必要】ということになります。
ここで実際に私自身の【理解】の【プロセス】を振り返ってみると、確かに何もないところから【理解】がいきなり【発生】することは、ないとは申しませんが極めて稀です。
つまり『【理解】の【前段階】には、【背景知識】が【ゼロ】ではないにしろ【不充分】な、“【理解未満】という【誤解】”の【状態】が【存在】する』ということになります。
ということは、“【理解】へ至る【誤解】”とでも称すべきものが【存在】するわけです。もちろん【誤解】の全てがそうだとは申しませんが、『【誤解】を十把一絡げで切り捨てていては、【理解】へは【到達】できない』ということにもなりそうです。
ここでは“【理解】へ至る【誤解】”というものを、仮に“【前段階】の【理解】”と呼ぶことにします。
この辺り、もう少し掘り下げてみましょう。
私の【感覚】を【言語化】するなら、『【理解】とは、【自分】の中にある【イメージ】を【組み立てて】、【理解】に【相当】する【イメージ】を【完成】させること』というところです。
実はもっと【厳密】に申せば、私の【感覚】は『【理解】とは、【自分】の【認識】を“【誤解】ではない【範囲】”へ導く【道】(しかも【高架道路】)』というところです。【種類】にもよりますが、【理解】とはそのものズバリの【ピン・ポイント】のみを指すのではなく、『【誤解】でなければそれでいい』という場合も少なくないという【感覚】です。そしてこの【感覚】は、【創作】であればより強くなります。
なので『“【前段階】の【理解】”は、【目的地】である“【誤解】でない【範囲】”の【手前】に【配置】される【道】の【パーツ】』とでも【表現】することになります。
この【道】はまっすぐとは限りませんし、また【目的地】や【状況】などに応じて【パーツ】との【相性】があったり、また【組み立て方】にも【相性】があったりします。もちろん【観客】の【個性】にも【影響】を受けます。
ただしこの【イメージ】はもっと後で用いるものですので、ひとまずここは私の【認識】として『【理解】とは【組み立てて】、【完成】させるもの』とだけ【記憶】しておいて下さい。
◇
さて、今回は一旦ここまで。
【誤解】を【回避】したいなら、まずは【誤解】を【観察】するところから。
私なりに【理解】の【プロセス】を振り返ると、何もないところから【理解】がいきなり【発生】することはほぼありません。つまり【圧倒的大多数】の場合においては『【理解】の【前段階】には、【背景知識】が【ゼロ】ではないにしろ【不充分】な、“【理解未満】という【誤解】”の【状態】が【存在】する』ということになります。
ということは、“【理解】へ至る【誤解】”、言い換えれば“【前段階】の【理解】”とでも称すべきものが【存在】するわけです。
これを踏まえて私の【感覚】を【言語化】するなら、『【理解】とは、【自分】の中にある【イメージ】を【組み立てて】、【理解】に【相当】する【イメージ】を【完成】させること』というところです。
この【感覚】はもっと【深掘り】できますが、それはもっと後のこととしましょう。ここでは私の【認識】として『【理解】とは【組み立てて】、【完成】させるもの』とだけ【記憶】しておいて下さい。
次回はこの【組み立て】という【感覚】を元に、【理解】という【現象】を【考察】してみましょう。
よろしければまたお付き合い下さいませ。
それでは引き続き、よろしくお願いいたします。




