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217.【誤解】経由【理解】ゆき(第3回)(2025.07.19)

 いつもご覧いただきまして、誠にありがとうございます。中村尚裕です。


 さて私、このところ『“【誤解】の【余地】のない【表現】”を目指したくなる【心理】』について考えております。


 実際のところ、“【誤解】の【余地】のない【表現】”というものを望む【作者】は少なくないようです。

 ですが【観客】も【作者】も【人間】で、【人間】であるからには【多様性】を持ちます。しかも【他人】の【思考】は覗けません。となれば【作者】と【不特定多数】の【観客】の間で【思考】を【完全一致】させるなど、【事実上不可能】です。


 もちろん【定義】を【共有】することは【可能】ですが、これは【高等数学】や【法律】にも【匹敵】する【ハードル】を越えてのことです。相応に【膨大】な【背景情報】を【共有】し、しかも【事実】のみを扱います。

 【表現】としては【記事】に近く、従って【創作】、特に【物語】とは極めて【相性】が悪いということになりそうですね。


 そこで前回は、「【誤解】されたくない」という【心理】、その【背景】に【考察】を巡らせてみました。


 “【誤解】の【余地】のない【表現】”は【創作】、特に【物語】と極めて【相性】の悪いものですが。

 されど“【現状】に【安住】せず【前進】する【姿勢】”とその【過程】には、むしろ大いに【存在意義】と【価値】があるものです。


 ただ【我流】では、「【誤解】されたくない」という【心理】が、往々にして『【過程】を飛ばして【ゴール】に至りたい』という【姿勢】に結び付いてしまうところもよく【観測】するところです。


 『【誤解】される』、『【理解】されない』というものは、気分のいいものではありません。なので“【誤解】を【回避】したい【動機】”の【存在】そのものは、私としても【否定】しません。


 ただし『【記述】したこと以上の【意味付け】を【理解】されたい』という【願望】が加わると、話が変わります。


 今回はこの辺りについて【考察】してみましょう。


 ◇


○【考察】:【誤解】を嫌う【心理】(その2)


 さて私は、『“【誤解】を【回避】したい【動機】”の【存在】そのものは、私としても【否定】しません』と述べました。


 ですがその一方で、『【記述】したこと以上の【意味付け】を【理解】されたい』という【願望】が加わるとなれば、話は別です。


 なぜかと申せば、それは言うなれば『【作者】として【都合】よい形で、【観客】に【誤解】を【期待】する【願望】』だからです。この【願望】を抱くなら、「【誤解】されたくない」と語る【資格】は手放さざるを得ないわけです。


 例えば【ミス・リード】という【技法】がこの【一例】でありましょう。『【記述】していない【内容】を【観客】に【連想】してもらい、それが【誤解】であることを【利用】する【表現】』ですから。

 これが【小説】ならば『【記述】した【文面】以上の【意味付け】を【理解】させよう』というわけですが、このような考えは、先に挙げた“【誤解】の【余地】のない【表現】”、例えば【定義】の【思想】といったものとは相容れるものではないからです。


 つまり「“【誤解】の【余地】のない【表現】”を【実現】したい」と【宣言】しておきながら、そのくせ「【表現】の隅々まで“【厳密】な【定義】”を張り巡らせず、【誤解】の【余地】を【徹底排除】しない」というのであれば、その【作者】は【不誠実】ということになります。


 なぜなら『【作者自身】は【記述】や【表現】における【厳密さ】を守らないのに、その一方で【観客】には【理解】の【厳密さ】を求めている』からです。

 【自分】でできない・やらないことを(【対価】も払わず)【相手】に求めるというのであれば、これは即ち【不誠実】でしかありません。


 『【積極的】に【理解】しない』という“【無理解】の【意志】”や、それに伴う“【無理解】の【意志】に基づいた【悪意】”に傷付いた【経験】を持つのであれば、その【作者】は“【無理解】の【意志】”そのもの、あるいは【無理解】そのものに向き合うべきなのです。それが【表面化】したきっかけだからといって、【誤解】を【否定】するのは【筋違い】というものです。


 【悪意】に対しても同様です。

 【表現】に対する【悪意】は別途【否定】するとしても、“【悪意】がつけ込みやすい【表現】”を、その【可能性】を【根拠】として【否定】していい【理由】はないのです。これは【表現の自由】にも通ずる【論理】ですね。


 よくよく考えてみて下さい。世の中には“【積極的】に【誤解】する人”が少なからず【存在】しています。


 そういう人に向き合う【表現姿勢】というものは、例えば【法律】の【守備範囲】にこそあるものです。【小説】をはじめ【物語】や【創作】の【守備範囲】にあるものではありません(もちろん【挑戦】するならば、その【姿勢】は【否定】しませんが)。


 そういう【観客】に対して、【作者】は【not for me】と構えればいいのです。つまり『誰を“【観客】にしない”か』は極めて【重要】な【前提】ということになりますね。


 よって私の考えは、『【誤解】の【存在】を受け入れる』というものです。その上で、『【誤解】を【前提】として、【表現】を作り込む』というわけですが、もちろん『作り込む』という【行為】には、『【誤解】をむしろ【利用】する』という考えも入っています。


 次回はまず【誤解】の【存在】を受け入れる、その【考え方】を掘り下げてみましょう。


 ◇


 さて、今回は一旦ここまで。


 「【記述】したこと以上の【意味付け】を【観客】に読み取ってもらいたい」という【願望】は、【作者】が【観客】に【文面】以上の【拡大解釈】を【期待】する【言葉】です。これは『【作者】が“【誤解】の【余地】”を【表現】に持たせること』に他なりません。

 「【誤解】されたくない」と語っておきながら、“【誤解】の【余地】”を除くどころか「【都合】よく【表現】を【誤解】してほしい」というならば、その【作者】の【姿勢】は【不誠実】ということになりますね。


 もちろん【誤解】に伴う【不快】な【経験】もあるでしょう。実際、“【積極的】に【誤解】する【姿勢】”も見られます。

 ですがそれは“【不快】な【誤解】を示す【観客】”に対する【向き合い方】の【問題】です。【誤解】の【きっかけ】となる【表現】の【問題】ではありません。つまり『誰を“【観客】にしない”か』は極めて【重要】な【命題】ということになります。


 その上で、私の考えは『【誤解】を受け入れる』というものです。


 次回は、この【考え方】を掘り下げてみましょう。


 よろしければまたお付き合い下さいませ。


 それでは引き続き、よろしくお願いいたします。

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