216.【誤解】経由【理解】ゆき(第2回)(2025.07.12)
いつもご覧いただきまして、誠にありがとうございます。中村尚裕です。
さて私、このところ『“【誤解】の【余地】のない【表現】”を目指したくなる【心理】』について考えております。
実際のところ、“【誤解】の【余地】のない【表現】”というものを望む【作者】は少なくないようです。
ですが【観客】も【作者】も【人間】で、【人間】であるからには【多様性】を持ちます。しかも【他人】の【思考】は覗けません。となれば【作者】と【不特定多数】の【観客】の間で【思考】を【完全一致】させるなど、【事実上不可能】です。
もちろん【定義】を【共有】することは【可能】ですが、これは【高等数学】や【法律】にも【匹敵】する【ハードル】を越えてのことです。相応に【膨大】な【背景情報】を【共有】し、しかも【事実】のみを扱います。
【表現】としては【記事】に近く、従って【創作】、特に【物語】とは極めて【相性】が悪いということになりそうですね。
そこで今回は、「【誤解】されたくない」という【心理】、その【背景】に【考察】を巡らせてみましょう。
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○【考察】:【誤解】を嫌う【心理】(その1)
さて、“【誤解】の【余地】のない【表現】”というものの姿を【確認】したところで。
一方で、です。思い描いた【ゴール】そのものに【到達】することが【不可能】だからといって、【可能性】を追い求めることが【無駄】というわけでもありません。
むしろ私は、【到達不可能】な【ゴール】へ向かおうとする【模索】や【試行錯誤】自体には大いに【存在意義】がある――と考えております。例えば『100mラップ0秒』を目指す【アスリート】の【挑戦】のようなものですね。
要は“【究極】の【目標】に届くこと”が【大事】なのではなく、“【現状】に【安住】せず【前進】する【姿勢】”にこそ【価値】がある、と私は考えているわけです。その【姿勢】に、いずれ【実現】するであろう【進歩】を見るわけですね。
逆に私が“【肯定】し難い”のは、『【過程】を飛ばして【ゴール】に至りたい』という【姿勢】です。足元の【現実】から眼を逸らして、【安易】に“望ましい【結果】”だけを求める【姿勢】――とでも申しましょうか。
もちろん、【心理】としては【理解】できないわけでもありません。楽ですから。
ここで【指摘】しておきたいのは、「【誤解】されたくない」という【心理】、言い換えれば“【理解】されないことを嫌う【心理】”が往々にしてその【姿勢】を【内包】しがち、というところです。
これは私としても、【表現】を扱う上で【負の経験】として少なからず味わってきたものです。
実際のところ、『【誤解】される』、あるいは『【理解】されない』というものは、気分のいいものではありません。ましてや【卑下】や【侮蔑】など、【攻撃的】な【感情】を合わせて受けてきた【背景】があるであろうことも、大いに【予想】がつくところです。
なので“【誤解】を【回避】したい【動機】”の【存在】そのものは、私としても【否定】しません。
ただしその一方で、【創作】では【重大】な【願望】が【存在】します。
これは『【記述】したこと以上の【意味付け】を【理解】されたい』という【願望】ですが、これが加わるとなると話が変わります。
次回は、この辺りについてお話ししましょう。
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“【誤解】の【余地】のない【表現】”は【創作】、特に【物語】と極めて【相性】の悪いものですが。
されど“【現状】に【安住】せず【前進】する【姿勢】”とその【過程】には、むしろ大いに【存在意義】と【価値】があるものです。
ただ【我流】では、「【誤解】されたくない」という【心理】が、往々にして『【過程】を飛ばして【ゴール】に至りたい』という【姿勢】に結び付いてしまうところもよく【観測】するところです。
『【誤解】される』、『【理解】されない』というものは、気分のいいものではありません。なので“【誤解】を【回避】したい【動機】”の【存在】そのものは、私としても【否定】しません。
ただし『【記述】したこと以上の【意味付け】を【理解】されたい』という【願望】が加わると、話が変わります。
次回はこの辺りを【考察】してみましょう。
よろしければまたお付き合い下さいませ。
それでは引き続き、よろしくお願いいたします。




