215.【誤解】経由【理解】ゆき(第1回)(2025.07.05)
いつもご覧いただきまして、誠にありがとうございます。中村尚裕です。
さて私、時折このような【作者】の【願望】をお見かけします。
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・【願望】:“【誤解】の【余地】のない【表現】”を【実現】したい!
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大抵の場合、この【願望】が目指すものは、以下のような【表現】――と私には映ります。
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・【表現】:【一言一句】、【作者】の【表現意図】と全く同じ【イメージ】を【観客】の【脳内】に【伝達】するもの
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今回はこの【誤解】というものと、そこに絡むであろう【心理】に【考察】を巡らせて参りましょう。よろしくお付き合いのほどを。
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○【考察】:“【誤解】の【余地】のない【表現】”
さて、ここで【確認】を。
【願望】の【舞台】となるのは【創作】と、そこで【作者】によって生み出される【作品】です。よって【表現】とは【作品】またはその一部、そこで【作者】が伝えたいものは【表現意図】、【相手】は【観客】ということになります。
【極論】すれば、【表現】とは【伝達】の【手段】です。たとえ『伝わらないこと』を【表現意図】として込めるとしても、『伝わらなさ』を【伝達】してこそ【表現】というものでありましょう。でなければ、【素人】の【落書き】と【差別化】ができるはずもありません。
何が言いたいか、と申せば。
【表現】であるからには【伝達】が【必須】です。これは【出来】に【関係】なく【存在】する【命題】です。そして【伝達】するからには、【相手】というものが【存在】します。
一般に【創作】であれば、【相手】は【人間】です。ですが、そも【人間】とは【多様性】を持つ【生物】です。そして【多様性】があるところ、【思考】もまた【多様性】を持つものです。
となればその【受け止め方】、さらに申せば“【不特定多数】の【観客】の【解釈】”というものに、“【多様性】のなさ”を【意味】する【完全一致】などというものは、求めようがないことになります。
「そんなことはない! 【思考】は【完全一致】させられるはずだ!」と【主張】なさる方が、仮においでなら。
どうぞ、【ご自身】の【思考】を隣の方に【完全一致】させてみて下さい。【言い方】を変えると【隷属】ですね。覗き見することすらできない【他人】の【思考】と【ご自身】の【思考】、「【完全一致】できない」、または「【完全一致】させたくない」「【隷属】したくない」と思った【瞬間】に、その【主張】は【破綻】します。
そして人の【思考】は当の【本人】にしか解りません。よって仮に【制御】できるとしても、それが【可能】なのは当の【本人】ただ一人ということになります。
ならば、【外部】から【思考】を【制御】する【表現】など、望むべくもありません。
つまり【冒頭】に掲げた【表現】(以下に再掲)は、【事実上不可能】という【結論】になります。
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・【表現】:【一言一句】、【作者】の【表現意図】と全く同じ【イメージ】を【観客】の【脳内】に【伝達】するもの
→【結論】:【事実上不可能】
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すると【自動的】に、その元となる【願望】もまた【事実上不可能】と【判断】せざるを得ない――ということになります。
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・【願望】:【誤解】の【余地】のない【表現】を【実現】したい
→【事実上不可能】
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ここで『【事実上不可能】』と【記述】したのには、【理由】があります。
【誤解】の【余地】をひたすら【排除】する【記述】そのものは、実は【可能】ではあるからです。ただし【後述】します通り、【小説】即ち【物語】を描く上では、およそ【非実用的】なものになります。
例としては【定義】、動かない【事実関係】のみを言い表す【記述】ですね。
ただし【高等数学】や【法律】で用いられるような“【厳密】な【定義】”を思い浮かべてみて下さい。
単に【記述】するだけでも【数式】や他の【定義】が絡みますし、それら【数式】にしても【定義】にしても、“【厳密】な【理解】”の上で【正確】に【紐付け】できる【状態】でないと、“【厳密】な【定義】”は【正確】に【伝達】出来ないことになります。
もちろん、【送り手】と【受け手】のどちらか一方でも“【厳密】な【定義】”を思い浮かべられないのなら、その時点で【伝達】は【失敗】します。
要は、相応に【膨大】な【背景知識】を【共有】していない限り、【定義】は伝わらないのです。
さらに、『【定義】された【言葉】や【概念】』の【位置付け】は【記号】に限りなく近いものです。であるからには、基本的にはその【言葉】や【概念】の内側に【創作】を込める余地はありません。むしろ『【創作】の余地があってはならない』ことになります。
その【理由】は【単純】です。【定義】というものの【表現意図】は、そもそも『【定義】から外れる概念を【排除】すること』なのですから。
つまり、こういうことです。
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・【気付き】:“【誤解】の【余地】のない【表現】”というものは【存在】する。ただし【創作】、特に【物語】の【表現】とは極めて【相性が悪い】
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何のことはない、『【事実の伝達】を重んじる【記事】と、【心理的影響】を重んじる【創作物】では、【背景思想】から異なっている』のと【同様】――ということになりそうです。
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さて、今回は一旦ここまで。
“【誤解】の【余地】のない【表現】”というものを望む【作者】は少なくないようです。
ですが【観客】も【作者】も【人間】で、【人間】であるからには【多様性】を持ちます。しかも【他人】の【思考】は覗けません。となれば【作者】と【不特定多数】の【観客】の間で【思考】を【完全一致】させるなど、【事実上不可能】です。
もちろん【定義】を【共有】することは【可能】ですが、これは【高等数学】や【法律】並の【ハードル】を越えてのことです。相応に【膨大】な【背景情報】を【共有】し、しかも【事実】のみを扱います。
【表現】としては【記事】に近く、従って【創作】、特に【物語】とは極めて【相性】が悪いということになりそうですね。
次回は「【誤解】されたくない」という【心理】、その【背景】に【考察】を巡らせてみましょう。
よろしければまたお付き合い下さいませ。
それでは引き続き、よろしくお願いいたします。




