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214.【期待】と【カタルシス】、その【貸借関係】(第25回・完結)(2025.06.28)

 いつもご覧いただきまして、誠にありがとうございます。中村尚裕です。


 さて私、このところ【期待】について【考察】を巡らせております。


 【観客】が【作品】に抱く【期待】を考えるには、そも【観客】が【作品】に求めるものを観る【必要】があります。


 これを【我流】なりに考えてみますと。


 【観客】が求めるものは“【利益】と感じること”、特に【創作物】に対しては“【利益】としての【快楽】”、と捉えることができそうです。

 であれば【作者】の【立場】としては、『“【観客】が抱く【期待】”が向く先は、“【利益】としての【快楽】”を(【作品】の中で)“【継続的】に得られる”【可能性】』と捉えておくのが良さそうです。


 では、この【快楽】はと申せば。


 【観客】の“【利益】としての【快楽】”という【観点】で見てみると、まず“【欲求】を満たされること”が浮かび上がってきます。


 ただ同時に、『単に【欲求】を満たされるだけでは得られない【快楽】』もまた浮かびます。

 ここでいう“広義の【カタルシス】”がそれに当たりますが、これは『(【欲求】が満たされていない)【ストレス状態】から【解放】される【瞬間】に得られる』ことが解っているのです。


 この“広義の【カタルシス】”を“【動】の【快楽】”と捉えてみれば、“【欲求】に基づく【快楽】”つまり“【静】の【快楽】”と【共存】できそうですし、上手くすれば【相乗効果】も【期待】できそう――という【見通し】も得られてきます。

 “【動】の【快楽】”は『【欠乏】から【充足】に至るまでの【時間的変化】』、“【静】の【快楽】”は『(【観客】が)求めるものの【種類】』と、別々の【位置付け】を持っているわけですから。


 この“【動】の【快楽】”、その【存在意義】を考えてみますと。


 “【動】の【快楽】”の【存在意義】というものは、例えば【ラヴコメ】で考えてみると見えてきます。


 この場合、“【静】の【快楽】”を満たすには『【関係性】を【成就】する』という“【欲求】を【満たす状態】”が【必要】です。が、実際には【良作】ほど“【欲求】が【満たされない状態】”で【観客】の【興味】を【強烈】に【牽引】しています。

 つまり『そこには“【動】の【快楽】”、少なくともそれに関わるものが【存在】していて、それが【観客】の【興味】を【牽引】している』ということになりますね。


 ここから、さらに“【動】の【快楽】”を掘り下げてみますと。


 “【動】の【快楽】”つまり“広義の【カタルシス】”は、まず【ストレス状態】である【満たされていない状態】があって、そこから【時間経過】を経ての【解放】で得られるものです。

 であれば【時間経過】を【表現】する上で“【ストレス状態】との【葛藤】”を描くことになります。

 ですが【牽引力】の面で、【満たされていない状態】でありながら【快楽】を【提供】し続ける【必要】はあるわけです。


 そこで【我流】としては、【条件付け】というものに【着眼】します。


 実はこの【条件付け】という【現象】を踏まえてみれば、【説明】がつくことがあります。


 何かと申せば、『この後に“広義の【カタルシス】”が得られる』という【経験】を繰り返すことで、その【前段階】の“【ストレス状態】との【葛藤】”が【条件付け】されて、“【後天的】な【快楽】”と【観客】に【認識】される――ということです。


 しかも【同様】に、さらに【前段階】へ、さらにまた【前段階】へと、【条件付け】が起こることになりますね。

 これらは『【快楽】の【到来】を【予想】させる【鍵】』であるがゆえに“【後天的】な【快楽】”にもなるわけです。


 そしてこの【鍵】が、少なくとも【期待】の一部ということになります。しかも【同時】に“【後天的】な【快楽】”でもあるわけです。


 ただしこれは、あくまで【条件付け】があるからこそ【成立】する【関係】です。


 この【条件付け】を壊す、つまり【期待】を【裏切る】とはどういうことか、と申せば。

 『【期待】だけ持たせればいい』という【やり方】は、もちろん【期待外れ】として【観客】が離れる【理由】になります。

 それは【期待】というものが、後に【到来】するはずの【快楽】に【条件付け】された“【後天的】な【快楽】”だからですが、これは見方を変えれば“【作者】(とその【作品】)と【観客】の間で交わされた【約束】”ということになります。


 つまり【期待】(という【約束】)を【裏切る】ということは【売り逃げ】と同じで、『【期待】だけ煽って【ろくでもない商品】を押し付け、姿をくらます【やり口】』と【観客】には映るわけです。そうなると【作者】に対する【悪感情】は避けようがない、ということになりますね。


 【期待】を【裏切る】というのは、言い換えれば『【相手】の【感情】に向き合わない、【人格】として扱っていない』ことにもなります。

 これでは【作者】が【人格】として見捨てられたところで、【文句】を言える【筋合い】はありませんね。


 要は【観客】の【期待】を軽々しく扱うのは【危険】だ、ということですが。

 だからといって、【観客】の【期待】にはそれほど高い【精度】や【解像度】を求めるわけにはいきません。【個性】に基づく【ばらつき】がありますから。


 では【期待】を煽るのは【自殺行為】なのか、と申せば。

 私は【我流】なりに『やりようはある』と捉えています。


 そもそも【観客】が【人格】である以上は、【個性】による【ばらつき】があるのは【当然】です。

 そして【観客】を【人格】として【尊重】する【前提】に立てば、『【他人】の【思考】を、思い通りに操ろうとしてはならない』という【大前提】を踏まえることになります。


 ここで【固定観念】の逆を行けば、さてどうでしょう。

 何かと申せば、『【観客】にも“決して【操作】できない【存在】”に向き合ってもらう』ということです。


 『一個の確たる【人格】としての【登場人物】』、『【登場人物】が置かれた【状況】とその【困難】が【推移】していく【ストーリィ】』、『【状況】と【困難】、および【人格】が【存在】する【必然】としての【作品世界】』、これら『思い通りにならない、それでいて【説得力】のある【存在】と【出来事】が、【観客】の【眼前】で【展開】される』という【状況】を【提示】するわけですね。


 つまり『【観客】には“【物語】という、もう一つの【現実】”に向き合ってもらう』というわけです。


 ここで“【物語】という、もう一つの【現実】”というからには、そこに【存在】する【困難】や【課題】は、【住人】である【登場人物】にとっては【相応】に【切実】なものであるはずです。


 すると『【登場人物】が一個の確たる【人格】であること』が、極めて重い【意味】を帯びます。

 何かと申せば、【作者】が【観客】を一個の【人格】として【尊重】するとき、【観客】の中にもまた【登場人物】を一個の【人格】として見る人が現れます。そういう【観客】は、【登場人物】が【直面】する【困難】や【課題】の【切実さ】に応じて、【ストレス状態】に入るのです。


 【ストレス状態】があるからには、“【ストレス状態】との【葛藤】”と【解放】があり、すると“広義の【カタルシス】”へ至る【道筋】もまた【存在】することになります。


 よって【期待】を【裏切らない】ことと【期待】を【誘導】すること、これらと“【動】の【快楽】”の間には【密接】な【関係】があることになります。なので【雑】な扱いは【マイナス】の【影響】を生むことになりますね。


 この、【期待】と“【動】の【快楽】”の【密接】な【関係】と申せば。


 【観客】がまず【作品】に接する【最初】の【段階】では、“【静】の【快楽】”に【期待】を向けがちです。これは【広報】としても【手前味噌】を避ける上で“【静】の【快楽】”が【有利】、という【背景】もあります。

 ですがもちろん、【作品冒頭】で“【静】の【快楽】”を満たしてしまっては【物語】が続きません。よって【作品冒頭】では【観客】が“【静】の【快楽】が何らかの形で【欠乏】した【状態】”、つまりある程度の【ストレス状態】に【直面】させられるわけです。


 ここで【ストレス状態】があるからには、“【動】の【快楽】”に【出番】が回ります。

 【具体的】には『【作品世界】の中に【眼先】の小さな【ストレス状態】を起こし、それを【登場人物】(特に【主人公】)に乗り越えさせて、【小規模】ながら“広義の【カタルシス】”をもたらす』というもの。ここに【作品】の【根幹】(【テーマ】や【表層的】な【設定】など)に深く関わるもの、つまり【広報】などの【事前情報】に【露出】しやすいものを【配置】するわけです。


 【我流】で申せば『【作品冒頭】は【作品】の【名刺代わり】』ということになりますね。


 すると【観客】の【心理】には、『“【静】の【快楽】の【欠乏】”に対して、【作品】が【充足】を【提供】してくれる』という【信用】・【信頼】が生まれ(やすくな)るのです。


 そしてこの【信用】・【信頼】に【快楽】、特に“【動】の【快楽】”としての“広義の【カタルシス】”が【条件付け】されていくことで、【期待】は“【後天的】な【快楽】”になっていくわけです。


 ただし『【期待】とは、(【観客】の)【快楽】の【前借り】』です。

 ここで“【快楽】の【欠乏】”を含め【ストレス状態】が【借り入れ】の【元本】、この【ストレス状態】の【解消】が【元本分】の【返済】、そして【ストレス状態】の【解消】で生じる“広義の【カタルシス】”が【利息】に【相当】します。


 こうして、【作者】(およびその【作品】)と【観客】との間に【貸借関係】が【円満】に【成立】することになります。

 私はこれを【作品冒頭】で生まれる“【期待】と【快楽】の【貸借関係】”と【認識】しています。これは同時に“【ストレス】と広義の【カタルシス】との【貸借関係】”でもありますね。


 ただ実は、こうした【貸借関係】一つだけで、【物語】を保たせられるわけではありません。【貸借関係】を【円満】に回し続けて、【物語】が描くべき【最終目的】、そこにある“【静】の【快楽】”までには遙か遠い【道のり】を、【作者】は描き出すことになります。


 そこで【問題】になるのが、【貸借関係】の中にある【ストレス】です。


 【物語】を描いていく上で、極めて【重要】なのは『【主人公】の【最終目的】が、【物語】に“【最大】の【ストレス状態】”をもたらす』ということです。でなければ【物語】は【不完全燃焼】、「それよりもっと【大事】なことがあるんじゃないの?」ということにもなりかねません。


 その一方で、「【物語】で“【最大】の【ストレス状態】”とか、そんな【状態】に【観客】が耐えられるの?」という【疑問】もごもっとも。

 ただ私は『【物語】を描く上で、【ストレス状態】は使いよう』と考えるわけですね。


 “【ストレス】と広義の【カタルシス】との【貸借関係】”であるからには、【円満】に【借り入れ】を【返済】したら【実績】に基づいて【信用】が生まれます。

 この【信用】は、『【貸借関係】を【発展】させる【可能性】』を【意味】します。ということは【借り入れ】即ち【ストレス】の【規模】を【拡大】させる【可能性】があるわけです。

 もちろん【無条件】で、とはいきません。『世の中には、小さな【信用】をでっち上げて【相手】を騙す【詐欺】が【存在】するから』です。


 【詐欺】が【存在】するからには、【観客】が【警戒】するのは【当然】というものです。実際【看板倒れ】な【作品】も【存在】しますので。

 なので【信用】が【不充分】な【状態】では、【借り入れ】の【規模】は【制限】されるわけです。これは【金銭】だけでなく、【ストレス状態】という【借り入れ】に対しても同様です。

 であれば【借り入れ】と【返済】を少しづつ【拡張】していきながら【実績】と【信用】を【積み上げ】る【必要】があるわけです。ただこれは、同時に“【信用】の【借り手】(=【作者】)として【返済】の【実力】を【証明】していく【過程】”ということでもありますね。


 では【ストレス】、ただし今度は【観客】の側の【耐性】はと申せば。


 実は【信用】を育てたからといって、それだけの【理由】で【観客】の【ストレス耐性】が上がるわけではありません。

 ただし【条件付け】で、【ストレス状態】や“【ストレス状態】との【葛藤】”を、後の“広義の【カタルシス】”へ至る“【動】の【快楽】”へ組み込むことは【可能】です。つまりは『【条件付け】で【ストレス状態】を“【期待】という“【動】の【快楽】”へ【変換】している』わけですね。


 もちろんこの【条件付け】が【成立】する【環境】にあるのは、『“【ストレス】と広義の【カタルシス】の【貸借関係】”を【誠実】に【積み上げ】、【作者】と【作品】が【観客】との間で【信用】・【信頼】を【育てた】、という【事実】』ということになります。


 つまりは【信用】・【信頼】を【育てる】【誠実】な【姿勢】が、【観客】の【ストレス耐性】も左右する【鍵】ということになりますね。


 これは『【作者】が【誠実】に【信用】・【信頼】を築きつつ、【観客】のことを考えながら【物語】を【展開】していくほど、【観客】も【ストレス状態】を“【期待】という【快楽】”に【変換】して楽しみ、ともに【作品】を盛り上げていく【心理】を抱きやすい』ということです。

 そのためには“【ストレス】と広義の【カタルシス】の【貸借関係】”を一つ一つ【誠実】にこなしていくしかありません。


 ですが【怠け心】で手を抜き【誠実さ】を欠くと、たちまち【面倒】な【事態】へ【発展】します。

 【期待】とは“【快楽】の【前借り】”です。それに対して【踏み倒し】を働こうものなら、【観客】が抱く【負の感情】はそれまでの【信用】・【信頼】を吹き飛ばします。のみならず、以後は【作者】に対する【信用】・【信頼】を拒む【理由】にもなるわけです。


 その【危うさ】を知る意味では、【不誠実】な【作者】と【作品】に【観客】として【踏み倒し】に遭ってみる【意義】もありましょう。


 要は『【誠実】な【姿勢】は【創作】においても効いてくる』ということですね。


 【作者】と【作品】の【誠実】な【姿勢】を【大前提】とすれば、です。“【ストレス状態】と広義の【カタルシス】との【貸借関係】”を軸に、“【期待】を【誘導】しやすい【方向性】”というものが【存在】します。

 何かと申せば、『【ストレス状態】で【期待】を【前借り】することによって、今度は【観客】の【意識】(ここでは【期待】)をこの“【ストレス状態】の【解消】”へ【誘導】することが【可能】になる』というものです。


 元々『【観客】は、【作品】には【登場人物】や【状況】などといった【要素】に関わる【欲求】を巡る“【静】の【快楽】”を求めてやってくる』ことが多いものですが。

 【作者】としては、【作品冒頭】に“【動】の【快楽】”、つまり『【ストレス状態】、そこから“【ストレス状態】との【葛藤】”を経て、“広義の【カタルシス】”へ至る一連の【流れ】』を(小なりと)仕込むことができるわけです。

 そこで築いた【信用】・【信頼】を【元手】として、【快楽】の【種類】あるいは【方向性】として“【静】の【快楽】”(が満たされる/満たされない)を【配置】し、【時間的変化】でこの【方向性】に沿った“【動】の【快楽】”を【実現】し、【快楽】の【強度】を(【変動】させながら)上げていけばいいことになります。


 すると【観客】の【期待】は、繰り返す【貸借関係】によって“【前借り】の【返済】とその【延長線上】”へ【誘導】されていくわけです。それこそ【快楽】の【方向性】(=【要素】の【種類】)でも【強度】でも、です。これで【貸借関係】が【期待】の【誘導】として【機能】することになりますね。


 その上で、【誘導】した【期待】に応えるわけですが。


 【期待】は、【観客】がその先にある【快楽】を【予想】するからこそ生まれます。ただし【観客】の【期待】は【快楽】、もっと申せば主に“【静】の【快楽】”に関してのものであって、【時間的変化】を捉える“【動】の【快楽】”が【意識】されることは多くないようです。

 この点で【象徴的】なのは【属性】と【エモさ】を巡る【認識】でしょう。【圧倒的大多数】の【観客】が語るのは、『ほぼ“【属性】という【始点】”と“【エモさ】という【終点】”だけ』です。【両者】が結び付く“【物語】という【過程】”を深く【認識】し、あまつさえ描き出せるのは【極少数派】なのです。


 “【物語】という【過程】”に【心血】を注ぐ【作者】としては、少々寂しい話ではあります。ですが見方を変えれば、ここに【巨大】な【希望】が見えてきます。


 ですがこの【希望】の前に、まずその【前提】を【整理】しましょう。


 【期待】に応える【前提】として、まず『“【快楽】の【強度】”において【期待】に応えること』は【必須】です。

 では“【快楽】の【強度】”はと申せば、【実質的】に『“広義の【カタルシス】”の【前提】となる“【ストレス状態】の【強度】”』が【決め手】になります。

 ただ【強度】のこととは言え、【ストレス状態】を含め、【感覚】を【安易】に【パラメータ化】するような【考え方】は、私はお勧めしません。そこに【個性】があり、【思考の自由】がある以上は、覗き見ることも【操作】することもできない(してはならない)からです。


 ではどうするか。

 【観客】は“【快楽】へ至る【過程】”を【認識】していないことが多いものです。そして同時に、【快楽】の一部は【期待】に応えることでもたらされます。

 つまり『【観客】の多くは“【期待】に応える(【快楽】へ至る)までの【過程】”を【認識】していない』ことになります。

 例えば【お約束】を含む【見え見えの展開】。【観客】に近い【初心者】の【作者】は、往々にして『【属性】とされる【要素】と【結果】だけ並べて、相応しい【中身】(【過程】)が伴わず【ダダ滑り】』ということがよくあるものです。

 これは【初心者】の【作者】が“【動】の【快楽】”を【認識】していないために盛り込めなかった【結果】ですし、また【お約束】など“【静】の【快楽】”【単体】が【提供】できる“【快楽】の【強度】”は、極めて【限定的】ということでもあります。


 ここで【見え見えの逆】という【視点】に立ってみると、私の考える【期待】への応え方、その【希望】が見えてきます。


 “【見え見えの逆】の【展開】”、つまり『【ストレス状態】があり、【観客】としてその【解消】の【道筋】(=【過程】)を見通せない』という【状態】、これを考えますと。


 『【ストレス解消】の【道筋】が見通せない』という、これ自体がまず【観客】には【相応】の【ストレス状態】ということになります。さらに【登場人物】の【満たされていない状態】と合わせ、そこには【二重】の【ストレス状態】が【用意】できるわけで、これは【ストレス状態】の【強度】を上げるにも【調整】するにも【好都合】です。

 また“【解消】の【見通し】が立たない【ストレス状態】”は、【観客】に“【ストレス状態】の【解消】の【難しさ】”を印象付けます。


 その上で【物語】が、特に【登場人物】が【ストレス状態】を乗り越えたら。「その手があるのか!」と【観客】は【感心】します。つまり【アハ体験】です。

 すると、ここでは“【解消】の【道筋】が見通せないことによる【ストレス】の【ブースト】”で“広義の【カタルシス】”が【ブースト】され、さらに【感心】による【アハ体験】が上乗せされて、“【動】の【快楽】”はさらに【ブースト】されることになります。


 ここを【整理】して、『(【ストレス状態】の)【解消】の【道筋】(=【過程】)を見通せない【展開】』の【扱い方】を考えてみますと。


 『(【ストレス状態】の)【解消】の【道筋】(=【過程】)を見通せない【展開】とその【解決】』は、【観客の多く】が【認識】する“【静】の【快楽】”に三重の【ブースト効果】をもたらします。『【物語構造】由来の【ストレス状態】に対する“広義の【カタルシス】”』、『【道筋】が見通せない【ストレス状態】に対する“広義の【カタルシス】”』、『“【道筋】が見通せない【難しさ】”を乗り越えた【アハ体験】に基づく【快楽】』ですね。


 ただここで【必要】なのは、『【観客】が“【ストレス状態】を【解消】する【難しさ】”を【感覚】で【理解】してくれること』です。

 そのために【作者】として【提示】すべき【展開】を【整理】すると、『“【ストレス状態】を【解消】する【道筋】が見通せない【状況】”を【用意】し、その【状況】の中で【登場人物】が“【ストレス状態】との【葛藤】”を【展開】し、その後に初めて【ストレス状態】を【解消】する』ということになります。


 もちろんこれは【単純】な【説明】で何とかなるものでもありません。あくまでも【観客】の【感覚】で「どうするつもりだ【作者】ァ!」と思っていただく、というわけです。


 この“【道筋】が見通せない【ストレス状態】”について考えてみますと。


 『(【解消】への)【道筋】が見通せない【ストレス状態】』を狙うからには、【観客】に「どうせ【力押し】で何とかなるんでしょ?」と思われては上手くいくはずもありません。

 なので【ストレス状態】を含め、【感覚】を【安易】に(【強弱】の)【パラメータ化】するような【考え方】は、私はお勧めしかねます。この場合、『【ストレス状態】を【解消】する【道筋】は“まっすぐな【一本道】”にしかならないから』です。


 ですが逆に考えれば、『(【解消】への)【道筋】が(【強弱】の)【一本道】に乗っていなければいい』ことになります。【観客】が【解消】の【道筋】の、そもそも【方向】からして読めなければ、そうそう見通せるはずもないのです。


 このとき、【観客】は『【ストレス状態】を【解消】する【道筋】を“【予想】できない”』と【表現】できることになりますね。


 前回はここから、あの【有名】な【言葉】を絡めて【考察】してみました。



 『【期待】を裏切るな、【予想】を裏切れ』という【言葉】は、【観客】の【心理】を『【ストレス状態】を【解消】する【道筋】を“【予想】できない”』という【状態】に導く上で極めて【有効】です。

 この点で【使い勝手】がいいのは、『【想定外】(【予想外】)に【登場人物】を【直面】させること』ですね。【登場人物】には【ストレス状態】を【解消】する【道筋】を思い付き、それを【実行】する【途中】で【想定外】に遭ってもらうわけです。

 すると【観客】も【ストレス状態】の【解消】を【期待】しやすく、さらに【想定外】で「どうやって立て直せばいいの!?」という【心理】が【成立】しやすいことになります。


 もちろん一回で【観客全員】がそういう【心理】になるとも限りません。だからこその【二転三転】です。【想定外】には【想定外】をぶつけ、【登場人物】には【機転】を利かせてもらって【有利】な【材料】を拾って積み上げていただきましょう。


 もちろん【簡単】ではありませんが、この【方向性】は【有望】な道ではあるわけです。


 今回はそこで、【予想外】の【構築】について考えてみましょう。



 ◇


○【考察】:【予想外】、その【構築】


 【観客】から見て『【期待】という【借り入れ】に対して【作品】がどのように報いてくれるのか、その【道筋】が常に見通せない』となれば、【作者】としては大いに望ましいところでしょう。そうなれば、常に【観客】から前回以上の【信用】・【信頼】を【借り入れ】ることになるからです。


 何しろ【過去】の【展開】は【解消】までの【道筋】を辿ったわけですから【種明かし】済み、それを踏まえても【現状】から【作品】がどうやって【期待】という【借り入れ】を【返済】してくれるのか、【観客】が【道筋】を見通せないわけです。

 このとき、【観客】にしてみれば『【道筋】が見通せない』=『前回以上に難しい』という【心理】が働きやすいわけですから。


 ここから然るべき【葛藤】を経て、見事に【ストレス状態】を【解消】するに至ったなら、その暁には【観客】の中で【作者】や【作品】への【信用】・【信頼】がさらに【積み上がる】、というわけです。


 【観客】の【大部分】が“【動】の【快楽】”をあまり【認識】していないからこそ、実は“広義の【カタルシス】”には“【予想外】の【過程】”というものを込めやすくなっているのです。言い換えるなら『【ノー・マーク】の【隙】に付け込む』ということになるでしょう。


 ここで私は、以下のような【疑念】も【予想】もするところです。


 ◇


・【疑念】「【予想外】なんてどうやるんだよ! それが出来たら【苦労】しないよ!」


 ◇


 【予想外】を『“もう一つの【現実】”、つまり【作品世界】の【出来事】』として捉えてみましょう。【登場人物】から見て、【予想外】とはどのように映るでしょうか。


 【上手くいかない】(もう少し【拡張】して、私は【想定外】と【表現】します)――言わば“【説得力】ある【外乱】”というところですが、これ自体は【現実世界】によくある【話】です。誰かの【都合】で【横槍】が入ったりとか、思わぬところで誰かが【都合】を持ち込んで【前提条件】から変わってしまったりとか。


 【登場人物】たちも【人格】ですから、【価値観】の【相違】ももちろんあるわけです。よって【衝突】もあり【路線変更】もあり、そんな中で【主人公】一人の【都合】ばかりが通るわけでもありません。

 ここで例えば【主人公】に限らず、特定の【登場人物】の【都合】が他の【登場人物】の【都合】で通らない――としましょう。これはまさしく“【説得力】ある【外乱】”というわけです。【観客】としても【予想外】というものでしょうね。


 さらに、です。【登場人物】がこれを乗り越えて、場合によっては【利用】までして、【ストレス状態】を【解消】(【克服】)したとなると、さてどうでしょう。


 【貸借関係】の【利息】としても【巨大】ですし、『“【説得力】ある【外乱】”で【克服】が難しくなる』という【状況】自体、繰り返して【条件付け】することで【観客】の“【後天的】な【快楽】”にも結び付いていこうというものです。


 もちろんこういった【展開】は、それこそ刻々と【変動】する【状況】や【利害関係】を織り込むことになります。

 ただしそこはそれ、【物語】という“もう一つの【現実】”ですから、【現実世界】にある【利害調整】や【調停】といった【やり方】もまた【通用】する【場面】は多いはずです。

 それこそ【登場人物】を【人格】として描いていればこそですね。【七転八倒】して【ストレス状態】と【葛藤】する【登場人物】は、【人格】として【強力】に【物語】と【観客】の【関心】を【牽引】してくれることでしょう。


 するとこの“【解消】が見通せない(見通せなかった)【ストレス状態】に対する【解消法】やその【過程】”というものも、また同時に“【観客】の【予想外】”ということになります。


 【観客】から見て【ストレス状態】の【推移】も【予想外】、【過程】も【予想外】、【解消】の【道筋】もまた【予想外】となれば、それは【観客】の【ストレス状態】も、【解消】したときの“広義の【カタルシス】”も【巨大】になろう――という、これは私の【読み】なわけです。


 もちろん【簡単】とは申しません。【作者】として踏むべき【場数】も多いでしょう。ですがそれだけの【効能】があると、この【考え方】を信じている私です。


 “【ストレス状態】と広義の【カタルシス】との【貸借関係】”という【考え方】、【ご参考】になれば幸いです。


 よろしければまたお付き合い下さいませ。


 それでは引き続き、よろしくお願いいたします。

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期待と外され具合 どちらも面白いかと ┐(´д`)┌
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